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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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百貨店の屋上,今昔物語(その1 松坂屋銀座店)

[shikichan] 2009年7月24日 15:30

1611年 尾張に呉服小間物商"いとう呉服店"を開店。松坂屋動物園広告.JPG

      日本の百貨店のはじまりです。          

      因みに 1662年 日本橋に白木屋開店。

      後に東急が引き継いだが1999年閉店。

      1673年 日本橋に越後屋後の三越開店。

      1717年 京都伏見に大文字や屋後の大丸。

      1831年 京都烏丸に髙島屋開店。

      1886年 神田に伊勢屋丹治後の伊勢丹。

 

1924年(大正13年) 松坂屋銀座店開店。

      大震災(大正13年)の翌年、まだ名物の柳も

      ない焼け跡で、赤レンガの舗道を踏みしめて、

      銀座復興のトップを切ったのであった。           

      『松坂屋70年史』

 

1925年(大正14年) 銀座店の屋上に動物園開園。  

      銀座のど真ん中、しかも高層ビルの屋上で

      猛獣を飼っていることで評判になり、「夜の

      銀座に獅子の声」などと新聞にもかきたて

      られた。『松坂屋70年史』

 

 

1929年(昭和4年) 

           090714_163242.jpg 150年ほど前に京都伏見稲荷大社から勧請して祀った

      神社。白狐が持ってきた豊川稲荷大明神尊像を祀って

      いると伝わり、関東大震災時には、日暮里方面の大火

      から町内を守ったという言い伝えがある。

 

2003年(平成15年) 『銀座の柳 四世』の植樹。

     この柳は、昭和34年の銀座通りの改修工事に伴い

     日野市の苗圃に移植したものを一世とし、挿し木により

     二世、三世、四世と系譜を絶やさないよう育ててきた。

 

2009年(平成21年)  屋上ビヤガーデン好評開店中                                  

     ジンギスカン料理各種あります。090714_164155.jpg

     9月まで営業ですが予約や詳しくは

     03-3569-3871(営業時間内)

     03-3571-2590(営業時間外)

 

 

 

 

 

                                

 

 

芭蕉の足跡

[海舟] 2009年7月21日 16:00

寛文12年(1672年)、漂泊の俳聖・松尾芭蕉(当時の俳号は宗房、
29歳、1644~1694)は、俳諧師として立つべく伊賀上野を出発、
江戸へ下ります。

延宝3年(1675年、32歳)より桃青の俳号を使用。
杉風、基角、嵐雪ら門人、名主、有力商人たちと研鑽を重ね,支援を
得て蕉門を確立させます。
延宝6年、宗匠として立机。

延宝8年、深川の草庵に隠棲するまで、短い期間ですが、ここ
本小田原町(日本橋室町1丁目)の小澤太郎兵衛(俳号・卜尺)店
に住み、
延宝7年歳旦、桃青36歳、この一句を吟じます。
 
  「発句なり  松尾桃青  宿の春」

日本橋北詰のむろまち小路、「日本橋鮒佐」店先。
句碑は芭蕉が日本橋にその足跡を残したことを印しています。
ck0930-07211.jpg 

芭蕉の重要な作品、『野ざらし紀行』、『笈の小文』、そして紀行文学の
最高傑作『奥の細道』は、深川の芭蕉庵転居以降の執筆となります。
芭蕉にとって、日本橋時代は、その後の活動の為の揺籃期であり、
次の飛躍への準備期間となりました。

 

 

日本橋老舗リレーツアー参加してきました(VOL.3)

[柳 さつき] 2009年7月21日 12:00

日本橋老舗リレーツアー参加してきました(VOL.2)からの続きです。

次に向かいましたのは、こちらも当初のスケジュールには含まれていなかった「にんべん」さんへの訪問となりました。

cuteにんべん

 元禄12年(1699年)から創業310年になられる、江戸時代から続く大店さんです。

急な訪問にも、快く、にこやかに、そして気さくに対応してくださった専務さんですdownwardleft

shinise17.jpg

pcHP:http://www.ninben.co.jp/トップページの店舗の画像の数ヶ所をクリックすると店舗の中の様子が見ることができます!)

地階に「にんべん」さんの3世紀を物語る、有名な「日本(世界でも)初の商品券」「現金掛け値なし」の看板など、大変貴重な資料や浮世絵などが展示してあり、いろいろと面白くも、興味深くご説明いただきました。

secretないしょ話ear幕末の薩摩・長州藩が活躍(sign02)していたころ、無理やりお金を借りにきて、借用書を置いて行った・・・・・・・。

また、その他にも、新撰組の永倉新八さんがいらして、お店側に「お金を借りていただきたい」旨の証書を書かせた上で、借用書を置いて行った話・・・・・・・・・・。

いずれもお金が戻ってきたかどうかは不明とのことcoldsweats02・・・・・・というアクドイ、本当にあったお話など、とても面白かったですhappy01

shinise18.jpg落語の「百川(ももかわ)」という話でもお馴染みの、日本橋に実在した料亭を描いた浮世絵です。記憶が定かではなくお恥ずかしいのですが・・・・歌川国芳の作とか・・・・。

secretないしょ話ear「百川(ももかわ)」は幕末のペリー来航の際に幕府が接待に使った料亭で、にんべんさんのほど近く、現在の福徳稲荷神社のあたりにあったそうです。

次は、いよいよ秘かにすご~く楽しみにしていた「割烹とよだ」さんでのランチですnotes

cute割烹とよだ

shinise22.jpg  pchttp://gwill.co.jp/toyoda/index.html         こちらも文久3年(1863年)から続く老舗さんです。当リレーツアー主催「日本橋めぐりの会」pcHP:http://www.ninben.co.jp/meguri/の代表兼日本橋プロデューサー・ガイドの川崎晴喜さん&参加者7名の計8人は、雪見障子からお庭が眺められ、shoe歩き疲れた足には嬉しい掘り炬燵のある「紅葉」というのお座敷へご案内いただきました(長い歴史の中で、名だたる政治家や貴賓、著名人の方々もご利用なさったとうかがい、ちょっと緊張~heart02です)。shinise20.jpg shinise21.jpg             食事が出されてからまもなく、四代目大旦那さんの後を継がれ、現在の包丁を握る五代目の若旦那:橋本亨さんが自らおいでになり、ご説明くださいました。                                  secretないしょ話ear若旦那さんは、他の老舗日本料理屋での修業後、実家の「とよだ」に入り、その後は在ドイツに日本大使公邸の料理長を務めた経歴をお持ちです。また、若旦那さんのスペシャリテとしてつとに有名なのが「はも料理」と「江戸前穴子の白焼き」 ですdiamond              

  「とよだ」さんは、あの「日本橋の魚河岸」に文久3年(1863年)寿司屋の屋台開業なさり、その後、本石町に店舗を構えられ、現在の場所へ移られました。                        cameraお弟子さんが見せてくださっているのは、明治30年ころの「とよだ食堂」「仕出し料理」の店舗の写真、明治5年に本石町に新築した際にお祝いを持って来てきださった方々の名前を記した「澤山持込帳」(←名簿の名づけ方が粋ですねwink)です。                                                  

secretないしょ話earそして、なんと「とよだ」さんも幕末の薩摩・長州藩、新撰組などの被害( sign02)に遭われていて、借用書が残されていて、やはり返金されたかどうかは不明・・・とのことでしたsad。それから、日本橋魚河岸で屋台で営業をなさっていた頃の、お寿司屋さんでは、例えば「カツオ、握ってくんねえsign01」と頼むと6貫出てきたそうです(現在は2貫が多く、1貫のところもありますネ)。     

お料理は、お刺身、西京焼き、がんもどきと根菜などの炊き合わせ、天ぷら、「とよだ」名物芝海老の揚げしんじょなどなど・・・・・・想像以上に盛りだくさんの内容で、大満足でした heart04     江戸前の濃いお味を想像しておりましたが、クリアなお出汁が随所に効いた、関西風とはいえ薄味ではない美味しい端正なお料理でした happy02。 shinise19.jpg               

お食事が終わってから、解散となりました。                                 今回、初めて参加させていただいたのですが、日頃shoeウロウロ歩き回っている日本橋界隈、本当に表面しか見ていないことに改めて気づきました。                               お店の方々のお話を伺えたり、通常は拝見できないものを見せていただいたり、大変興味深く、楽しく、貴重な体験ができたツアーでした。もっとお時間があればいいのに・・・・・・・と、正直に思いました。                                                         

また、私は1名での参加だったのですが・・・・・・・・・・。私の他の6名は、千葉の方からご参加のお仲間さんでした、が、分け隔てなく仲間のように声をかけてくだり、一緒に楽しくまわっていただけたことが本当に感激でしたweepあの日、ご一緒くださった皆様、本当にありがとうございました。                  

最後に、この「日本橋老舗リレーツアー」は、大変flairお薦めでございますhappy01 

 

 

 

月面着陸

[メニイブックス・オサ] 2009年7月21日 09:30

18日の土曜日銀座を歩いていたら、とあるビルの前で写真のような展示品を見ました。

そのとおり宇宙服でした。その説明に「今年は人類が月に着陸してから40年経った」とありました。アメリカの「アポロ11号」が1969年7月20日13:32GMT、ケープケネディから発射され、同日20:17GMT(日本時間21日午前5時17分)月着陸船「イーグル」が月に着陸した。月に一歩を踏みいれたのがアームストリング船長とオルドリン(懐かしい名前!!!)でした。

 

 

続きを読む: 月面着陸

 

22日の日食観察準備は整いましたか

[ドームくん] 2009年7月21日 09:00

 7月22日は、ここ東京では5年ぶりに日食観察ができますよ。タイムドーム明石郷土天文館では20日午後1時から日食の現象、観察の方法など詳しく解説してくれます日食直前ガイドが行われます。無料、どなたでも。以前と違ってサングラスや透明な下敷きに墨を塗ったり、ガラスにローソクで煤をつけて太陽を覗くのは目を傷めることが判り、専用の眼鏡が必要で、もう品薄の状態だそうです。                                          

 15日のNHKニュースで上がだめなら下を見よと、太陽を仰ぐだけでなく地面を見る観察の方法が紹介されてました。木木の間からもれてくる木漏れ日でも日食が観察できると言うことなのです。築地の聖路加ガーデン、あかつき公園や築地川緑道を涼を求めて散策しながら木漏れ日の下、日食の観察をされてはいかがでしょう。

                                          ドームくん

 

 

◆中央区 ここに歴史あり<6>~旧「新大橋」の橋名板~

[巻渕彰/写楽さい] 2009年7月16日 18:30

現在の新大橋は昭和52年(1977)改架されたが、その前の明治45年(1912)に架けられた旧新大橋の橋名板(きょうめいばん)を間近に見ることができる。とはいっても、中央区側の新大橋の橋名板」は区民有形文化財であるが、残念ながら一般公開されていないので、今回紹介するのは、 江東区側のものである。


新大橋の創架は元禄6年(1693)という、決して「新しい大橋」でなく「古くからの橋」である。先に通じた両国橋が当時「大橋」と呼ばれたことから、その次に架けられたので「"新"大橋」と名付けられたという。松尾芭蕉は開通にあたり、
  ありがたや いただいて踏む はしの霜
と詠んだ。歌川広重が京橋・大鋸町
(おがちょう)で描いたであろう『名所江戸百景』「大はしあたけの夕立」は西洋美術の世界にジャポニズム旋風を起こした。


0913_6_090620_shin_ohashi01.JPG 明治45年(1912)7月に竣工した旧新大橋は、以前の木橋から約200m上流に架けられ、鋼鉄製ピントラスト構造で全長173.3m。設計は現日本橋の銘板にも名を刻む東京市の技師・樺島正義であった。


路面は厚い鉄板の上にコンクリート打ち、アスファルト仕上げだったようで、関東大震災のときでも、この橋は焼け落ちることなく、また、警察官の機敏な誘導などによって多くの避難者を救ったという。西詰北側の 中央区側に、「震災避難記念碑」と「人助け橋のいわれ碑」がある。そして戦災も乗り越えたが、老朽化により昭和49年(1974)に撤去・改架がはじまった。


0913_6_090620_shin_ohashi02.JPG撤去された旧橋梁のうち中央区浜町側の一部は明治村(愛知県犬山市)に移設されたが、橋名板は 中央区側 の漢字表記と江東区側の仮名表記のものがそれぞれ保存されている。


現在、だれでも見ることができる江東区側の橋名板は同区立八名川(やながわ)小学校の北側に設置されている(写真上)。鋳鉄製で大きさは縦135.3cm、横273.5cm。中央に仮名書きで右から「志ん於ほはし」(「しんおおはし」の変体仮名)と痕跡が分かる。さらにその下にはローマ字で「SHIN・O・HASHI」と刻されている。周囲の飾りはほとんど剥がれてしまった。旧橋の名残は東詰南側にも照明橋柱の1基が残されている(写真下)。


現在の橋梁はシンプルな斜張橋であるが、これまでの歴史ある橋としての貴重な遺産がそこにあった。 


■これまでの「中央区 ここに歴史あり」
第1回 「今もある、霊岸島」 こちら>>
第2回 「交差点に残る、今なき橋」 こちら>>
第3回 「区内で一番高いところ」 こちら>>
第4回 「日本橋の隠れた銘板」 こちら>>
第5回 「江戸の町地は中央区の広さ!?」 こちら>>