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◆中央区 ここに歴史あり<11>~「新場」って何のこと?

[巻渕彰/写楽さい] 2009年9月17日 10:00

新場(しんば)」という言葉を聞いたことがあるだろうか? 今も「新場橋」(写真上)の名前で首都高速道路上(旧楓川(もみじがわ))に橋があるし、この近くに「区立新場橋区民館」(写真下=日本橋兜町)が存在する。これが江戸からの新場の名残であったことを物語っている。


0913_11_090916shinba.jpg 現在の場所でいえば日本橋二丁目で、新場橋と千代田橋の間、「江戸・もみじ通り」沿いである。この旧楓川の西側一帯は古くは本材木町と呼ばれ、「木場」の原点とされる同職集住地。有名な『江戸図屏風』にも描かれていて、江戸初期から江戸湊の集散地として主要な河岸地であった。


では「新場」とは、どういうことなのだろうか。


じつは「新肴場(しんさかなば)」を縮めて、単に「新場」と称していた。そう、魚市場だったのだ。江戸の魚市場は日本橋だけでない、ここ新肴場、四日市、芝雑魚場(しばざこば)の4ヵ所があった。四日市は、今の日本橋と江戸橋間の南側辺りで江戸橋広小路と呼ばれた一帯。芝雑魚場とは、現在のJR田町駅東北側付近で、港区の史跡説明板が設置されている。


「日本橋魚市場の発展を受け、本材木町二丁目・三丁目に新しく魚市場を開設したのが「新肴場」(以下、新場)である。両者の役割は、月の上旬は新場が、中・下旬は日本橋が交替で幕府への納魚を担当した。成立の契機は、延宝2年(1674)に日本橋魚河岸を相手に訴訟を起こした相州三浦郡〔現三浦市〕と武州久良岐郡〔現横浜市磯子区辺〕の漁村13カ村が、日本橋より2割安の値段で売買することを許されたことによる」(『中央区三十年史』から)


これらの漁村からは、船足の速い、7-8挺櫓の押送舟(おしおくりぶね=一般には「おしょくりぶね」と呼ばれた)で、キハダマグロなら50本(約2千キロ)くらいを積み、前日夕方に出発し、翌朝早く江戸の魚河岸(魚市場)に着いたという。


江戸期、新場があった楓川は江戸湊から八丁堀(桜川)や京橋川とつながり、海運橋(将監橋、海賊橋とも)先で日本橋川に接していた。ここに架かる新場橋は中の橋、楓橋の別称もあり、享和年中(1801-04)の創架のようだが不詳。古い新場橋は現橋より北側(新場橋区民館辺り)にあったが、震災後架け替えで現在地となった。


楓川西側(現日本橋二丁目)は町人地で、対岸の東側(現在の兜町、坂本町公園付近)は御船手頭屋敷(俗称海賊屋敷)と坂本町などの町人地、さらにその東側には八丁堀与力同心組屋敷だった。幕末期、南町奉行所(現有楽町付近)に勤める与力衆は新場橋を渡り大名小路を通った、といわれる。


今のところ、新場跡の碑石や説明板はどこにも設置されていないが、新場橋に歴史の一端が見出される。魚市場の変遷は日本橋周辺から築地へ、さらに豊洲移転の計画がある。食を支える魚市場は江戸期から都市の重要拠点であった、といえよう。