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江戸時代、中央区に開いていた『世界の窓』

[小江戸板橋] 2010年12月22日 08:45

JR総武本線を東京駅から一つ目の駅、「新日本橋駅」で下車し、4番出口から地上に出ます。

そこは、中央通りと江戸通りが交差する、室町3丁目交差点。

交差点にむかって、出口右手直ぐに、中央区教育委員会の案内板が掲出してあります。

 

『中央区民文化財 長崎屋跡』

長崎屋って、どんなところだったの。

 

そこに、無駄な事なら何でも知っている「爺」が登場。

「それはじゃな。エッヘン。

時は江戸時代にさかのぼるが、長崎は出島のオランダ商館長が、江戸幕府に挨拶に来たときに、定宿としていた屋敷が、長崎屋なんじゃよ。

『江戸時代は「鎖国」をしていたはずだから、外国人が江戸にいたなんておかしい』だって。

そう思い込むのも無理はない。鎖国は、国を鎖で閉ざすと書くからな。

幕府の権威と反するキリスト教が広まることや、外様大名たちが貿易で力を蓄えることを恐れての政策だった。

 

しかし、鎖国といっても、ほんのちょっとだけ、世界へ向けて扉は開いておった。

江戸幕府は、オランダに限り、出島において貿易を許可しておった。

逆に見れば、オランダが日本との西洋貿易を独占していたということじゃ。

そこで、オランダ商館長は定期的に、江戸までお礼に来ておった。

そのときに決まって宿泊していたのが、薬種問屋の長崎屋だった。

輸入薬を扱っていた関係から、定宿に結びつくことになったんじゃろう。

 

案内板に、絵が書いてある。

葛飾北斎が描いた長崎屋「画本東都遊」という絵じゃ。

屋敷の中に異国の帽子をかぶった赤毛の人が、ふたり、三人と見える。

何を話しているんじゃろうな。遠い異国の人たちが話す言葉や、持参した楽器の音が、通りまで流れてきたのじゃろう。

通りからは、屋敷の中の様子を窺っている人々の姿。

二本差しの武士や、尻っぱしょりをした町人。粋な着物を着た女将さん。子供を肩車した親父さんたちが描かれている。

鎖国という時代背景からすれば、屋敷周辺の警備も厳しかったと思うのじゃが、絵からは、緊張感よりも江戸の人々の好奇心の方が伝わってくる。

 

幕末ごろには西洋の技術・文化・情報を求める、切実な思いを抱いた人たちも、屋敷を取り巻いたことじゃろう。

杉田玄白や大槻玄沢など、日本史の教科書に出てくるような著名人たちが、数多く訪ねてきたという。

 

また、オランダは、「オランダ風説書」という世界情勢をまとめた報告書を、幕府に提出していたという。

幕府の老中たち官僚は、これらを通して、黒船の来航情報も相当早く知っていたようじゃ。

 

長崎屋は、外国文化との交流の場として、江戸の人たちの身近に存在した、『世界の窓』だったんじゃな。

ここ、江戸の本石町三丁目、今の日本橋室町4丁目2番地付近がその跡なんじゃ。」

「爺」、余韻を残して退場。

 

日本の政治・文化の中心地だったからこその史跡が残る街。日本橋室町界隈。

年末・年始のお出かけのついでに、案内板を探してみてはいかがでしょう。