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◆中央区 ここに歴史あり(34) 幕末、北槇町で診療した漢方の名医―尾台榕堂

[巻渕彰/写楽さい] 2011年12月 1日 08:30

幕末に漢方の名医で、14代将軍家茂の侍医も務めた、尾台榕堂〔おだい・ようどう=寛政11年(1799)-明治3年(1870)〕。出生地である新潟県十日町市の榕堂没後140年(2010)記念事業実行委員会によって、このほど住居跡付近の京橋1丁目に記念碑が建立された。

 

0913_34_111130odaiYodo.jpg榕堂は越後国魚沼郡中条村(現・新潟県十日町市中条)の医師小杉家の四男として生まれた。文化11年(1814)、16歳で江戸に出て医師の尾台浅嶽に学んだほか、儒学を亀田綾瀬(鵬斎の嫡男)に師事する。その後、文政7年(1824)郷里に帰り、開業した。しかし天保5年(1834)に江戸大火で師の浅嶽が亡くなり、尾台家再興のために家督を引き継ぎ、通称尾台良作を襲名する。研究心旺盛に多数の医学書を著して、なかでも安政3年(1856)に出版した『類聚方広義(るいじょうほうこうぎ)』は漢方医学で高い評価を得ているという。

 

文久元年(1861)に幕府から侍医として要請を受け、このとき次の3条件、「今までどおり庶民の診療もできること」「いつも江戸城にいるのではなく、用事のあるときだけ登城すること」「剃髪はしないこと」を出す。この要求が認められたことで侍医を受諾し、将軍徳川家茂から単独謁見の栄誉を受けたそうだ。

 

榕堂が開業していた場所は、当時の北槇町(きたまきちょう)で、現在の京橋1丁目、八重洲通りの南側で柳通りに面した付近とされている。この地に、患者を診療している榕堂とその脇の薬研で調剤している女性が穏やかに彫像された「尾台榕堂之碑」が建てられた(写真上)。当時は近くの上槇町に住んだ浅田宗伯とともに江戸で名医の双璧と称され、その人柄は名声におもねることなく、人間愛にあふれ、貧しい人であっても親切に尽くして、つねに仁をもって治療に当たったという。

 

慶応3年(1867)、家督を師浅嶽の実子良卿(武雄)に返して巣鴨へ移住し、明治3年(1870)72歳で生涯を閉じた。墓は谷中の観音寺にあり、墓石脇には榕堂の事績を詳しく伝えた墓碑が添えられている(写真下)。●巻渕彰