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築地市場の歴史的変遷 2-2

[kimitaku] 2012年2月22日 08:30

 徳川家康の入府の後、天下普請によって、平川からの流れを変え、日比谷入り江を埋め立て、道三堀を掘削して日本橋川が作られました。

その日本橋川両岸に作られていった河岸が、魚市場の原型になります。

以前の平川の河口にあった、四日市もここに移されます。

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その後、この市場が栄えてゆきますが、その際、大いに貢献した人々に、大阪の旧佃村の漁民がいました。

 家康は、江戸入府とともに、以前から親交のあった摂津佃村の漁師、森孫右衛門以下30名を呼び寄せ、江戸湾内で魚を取らせ、お城に献上させます。

 大阪では、魚を捕る技術が優れ、佃の漁民は一度に大量の魚を江戸湾で取ることができました。 

その残りの魚を、佃の住民たちは日本橋川の北側、本小田原町で町民にも売り出します 慶長18年(1613)。

その後大阪の住人が続々移転して、寛永18年(1641)年には14件の魚問屋が軒を連ねます。

 お城からは、時には1日に 5000匹の鯛の注文があるなど、大変繁盛してゆきますが、その際、捕った魚を大型船に水を張り、生簀に入れて、お城からの需要に備えます。

P1010161-1.jpg その後、その魚などを、棒手振り(注:1) が買いに来て町で売り払いました。 

その棒手振りと、問屋の間を取り持つ一種の戸板のようなものを、河岸に並べて魚をおき、それを棒手振りに売り捌きましたが、その戸板が板船と言い、その使用権利が、板船権(非常に高額)として取引されるようになります。

 今でも、河岸で、"佃何々"と名のつくの業者の多くは、佃島出身者です。

また、築地の業者の中には400年を越す暖簾を守る業者もあります。


注:棒手振り 天秤棒を担いで売り歩くこと。魚問屋と料理屋の間に立って商いをする。 


次週に続きます。