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生誕100年 立原道造を偲ぶ

[与太朗] 2014年11月28日 14:00

IMG_0816.JPG 人が 詩人として生涯ををはるためには

 君のやうに聡明に 清純に

 純潔に生きなければならなかった

 さうして君のやうに また

 早く死ななければ !

 (三好達治『暮春嘆息』)

 同人誌「四季」の仲間、三好達治がその夭折を嘆いた詩人こそ、日本橋生れの立原道造(1914-1939)でした。今年は彼の生誕100年、没後75年という節目の年にあたります。

IMG_0922.JPG 立原道造は大正三年(1914)七月、日本橋区橘町三丁目一番地(現、中央区東日本橋3-9-2辺り)に生れました。母方の祖には名高い儒学者立原翠軒、その子で画家の立原杏所がいます。生家の家業は荷造用の木箱の製造で、日本橋の問屋街の中心でかなり手広く営まれていました。下町文化の中で成長した彼は、浜町の養徳幼稚園、久松小学校へと進み、久松小では開校以来の俊童といわれ、六年間首席を通しました。その後、芥川龍之介・堀辰雄と同じく三中・一高・帝大と進みますが、大学では文学部ではなく建築を学び、こちらでも才能を発揮、最優秀の学生に与えられる「辰野(金吾)賞」を三度も受賞しています。卒業後は数寄屋橋畔にあった著名な建築家石本喜久治の建築事務所に入社、いくつかの建物を設計しました。

 詩作の方面では、中学時代に北原白秋の世田谷若林の自宅を訪問するなど、早くから興味をIMG_0918.JPG持って詩作を続け、大学入学後は創刊された月刊「四季」の同人として活動が本格化します。石本建築事務所入社の年(昭和十二年)には詩集「萱草に寄す」「暁と夕の詩」を立て続けに刊行、昭和十四年三月、結核の病状急変で短い生涯を終える前月には「中原中也賞」の第一回受賞者に選ばれました。彼の詩は十四行のソネット形式で、繊細・純粋で音楽的な抒情詩と評されます。三好達治は「我々の国語を以て語りうる、歌いうる限りの微妙に軽快な音楽」と言っています。ソネットという設計図面と日本語という建築素材で建てられたすぐれた抒情詩という感があります。彼の詩はよく音楽的といわれますが、「建築は凍れる音楽」という言葉があるようですから、むべなるかなですね。日本の抒情詩によくある感傷・詠嘆的なものや私小説的なものは極力排した抽象画のような、理科系頭脳による抒情詩に思えます。

 彼の設計した建築物はすべて失われてしまいました。ただ、彼が職場で知り合った水戸部アサイとの新婚生活を夢見て、死の直前まで準備を進めていた浦和の別所沼畔の別荘「風信子荘(ヒヤシンスハウス)」が、遺された構想スケッチをもとに有志の方々の尽力で2004年に建てられました。(彼の考えていた場所は沼の反対側だったそうですが。) 今年でちょうど10年になります。

IMG_0915.JPG 生誕100年の今年、堀辰雄との縁でしばしば訪れ、しばしば彼の詩の舞台ともなった信州の軽井沢や別所沼では記念のイベントが行われました。生地であり、短い生涯のほとんどを過ごした中央区では特段のイベントはなかったようです。彼は本来の江戸っ子的な部分を外に出さなかったり、地元を作品の舞台にすることもなかったのでなじみが薄いのでしょうか。ちょっとさびしい気もします。ということで、小春日和の一日、立原道造を偲んで、(信州まではちと苦しいので) 生家辺り・久松小・谷中の多宝院の墓・別所沼ヒヤシンスハウスなどを歩いてきました。

 【写真上から】

 ● 現在の旧橘町生家辺り

   震災後に新築された家の屋根裏部屋で多くの詩と建築設計図が生れました

 ● 久松小、正門左側の「立原道造ここに学ぶ」碑

 ● 谷中多宝院の立原家の墓

 ● さいたま市南区別所沼公園内の風信子荘(ヒヤシンスハウス)