中央区観光協会オフィシャルブログ

中央区観光協会特派員ブログ

中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

執筆者一覧

>>このブログについて

最近のブログ記事

問屋街と不動院コース(3)

[CAM] 2016年1月27日 18:00

蔦屋重三郎「耕書堂」跡

IMG_2612.JPG

蔦屋重三郎  1750‐97(寛延3‐寛政9)

つたやじゅうざぶろう

須原屋市兵衛と並ぶ江戸時代の代表的な出版業者。蔦重と俗称される。江戸吉原に生まれ,喜多川氏の養子となる。初め吉原大門外の五十間道に店を開き,細見(さいけん)(遊郭案内)を売っていたが,1774年(安永3)に初めて版元として《一目千本花すまひ》(北尾重政画)を出した。その後,日本橋通油町に店を構え,いわゆる田沼時代の開放的な世情を背景とする江戸出版業の隆盛の一翼を担う。商才は鋭敏,気骨も充困した人物で,多くの文人墨客,戯作者,絵師と交友をもち,世話をした。作家では大田南畝,恋川春町,山東京伝,曲亭馬琴など,浮世絵師では北尾重政,鍬形腿斎,喜多川歌麿,葛飾北斎,東洲斎写楽などと組んで,黄表紙,洒落本,狂歌絵本,浮世絵版画の評判作を相次いで出版し,天明後期から寛政中期の江戸の文化界をまさに席巻した。寛政改革に伴う出版取締令でとがめをうけ,財産の半分を没収されるが,その反骨精神は没するまで続いた。

                        (狩野 博幸・平凡社世界大百科)

 

郡代屋敷跡

IMG_2623.JPG

 所在地 中央区日本橋馬喰町二丁目付近
江戸時代に、関東一円及び東海方面など、各地にあった幕府の直轄地(天領)の、年貢の徴収、治水、領民紛争の処理などを管理した関東郡代の役宅があった跡です。
関東郡代は、徳川家康が関東に入国した時に、伊奈忠次が代官頭に任命され、のちに関東郡代と呼ばれるようになり、伊奈氏が十二代にわたって世襲しました。その役宅は初め、江戸城の常盤橋御門内にありましたが、明暦の大火(1657)で焼失し、この地に移りました。
伊奈忠尊が罪を得て失脚した寛政四年(1792)以後は、勘定奉行が関東郡代を兼ねてここに居住しました。
文化三年(1806)に焼失した後、代官持ちとなって、馬喰町御用屋敷と改称されましたが、江戸の人々はこの地を永く郡代屋敷と呼んでいました。
平成六年三月
中央区教育委員会

 

両国広小路記念碑

IMG_2619.JPG明暦の大火(1657年)は江戸の市街の大半を焼失し10万余の死者を出した。その際このあたりで逃げ場を失って焼死するものが多数出た このため対岸への避難の便を図り両国橋が架けられた 隅田川は当時武蔵下総両国の境をなしていた また延焼防止のため橋に向う沿道一帯を火除け地に指定し空き地とした やがてこれが広小路となり 江戸三大広小路の一つとして上野浅草に並び称せられる盛り場に発展した 明治維新のころここには新柳町元柳町横山町吉川町米沢町薬研堀町若松町があったが 昭和7年合併して日本橋両国となり現在に及んだ 維新後百年を経た今日 まちの近代化はめざましく 広小路や両国の名も過去のものとして忘れ去られようとしているが 300年前火除け地が設定され これが広小路に発展して行った事跡のなかには 先人の英知と努力が偲ばれてまことに意義深いものがある ここに由緒ある両国広小路の旧跡を永く保存するため 町会の総意により この碑を建てた
昭和44年11月3日
中央区日本橋両国町会 建碑
 

柳橋

IMG_2620.JPG

所在地 中央区東日本橋二丁目
    台東区柳橋一丁目 (神田川)
柳橋は神田川が隅田川に流入する河口部に位置する第一橋梁です。その起源は江戸時代の中頃で、当時は、下柳原同朋町(中央区)と対岸の下平右衛門町(台東区)とは渡舟で往き来していましたが、不便なので元禄十年(1697)に南町奉行所に架橋を願い出て許可され、翌十一年に完成しました。

その頃の柳橋辺りは隅田川の舟遊び客の船宿が多く、"柳橋川へ蒲団をほうり込み"と川柳に見られる様な賑わいぶりでした。
明治二十年(1887)に鋼鉄橋になり、その柳橋は大正十二年(1923)の関東大震災で落ちてしまいました。復興局は支流河口部の第一橋梁には船頭の帰港の便を考えて各々デザインを変化させる工夫をしています。柳橋はドイツ、ライン河の橋を参考にした永代橋のデザインを採り入れ、昭和四年(一九二九)に完成しました。
完成から七十余年、現在、区内では復興橋梁も少なくなり、柳橋は貴重な近代の土木遺産として平成三年に整備し、同十一年に区民有形文化財に登録されています。
平成十四年三月
中央区教育委員会

 

 

 

広島アンテナショップでのお買い物

[ジミニー☆クリケット] 2016年1月27日 14:00

広島県アンテナショップ、「広島ブランドショップTAU」は、銀座一丁目柳通り沿いにあります

ちなみに、「TAUたう)」とは、広島の方言で「届く」という意味です

hiros002.JPG 

この「TAU」は、ビルの4フロアを使っており、地下1階から3階までに、広島の名産品を集めた売場から、地元食材使用の料理を出してくれる飲食店、さらに工芸品プロスポーツ野球サッカー)のグッズコーナー、広島の魅力を発信するイベントスペースなど、本物の広島に触れ合えるモノとコトがぎっしり詰まっています。

hiros001.JPG 

中央区にたくさんある都道府県のアンテナショップに入ると、どうしても何かしら買ってしまうのですが、この日購入したのは、こちら焼えびのど飴サイダーでした

hiros003.JPG 

焼えびは、「瀬戸内海産焼えび」(歴史と文学の町尾道 おのみち味自慢)

のど飴は、「瀬戸田せとだレモンのど飴

サイダーは、「せとうち旅情 レモン&はっさくサイダー」(広島銘水 天然水使用)

三つとも、広島県、瀬戸内海の名産品を使ったもので、それぞれにおいしかったです 

広島ブランドショップTAUのHPはこちら ⇒

http://www.tau-hiroshima.jp/

 

 

 

問屋街と不動院コース(2)

[CAM] 2016年1月27日 12:00

銅鐘石町時の鐘

IMG_2606.JPG

 江戸城下の人々に時刻を知らせた時の鐘です。本石町三丁目(現、日本橋室町四丁目)に二代秀忠の時代(1605~1623)に、時の鐘が設置されたといわれています。この鐘は宝永8年(1711)に改鋳されたもので明治初期まで使用され、昭和5年(1930)に現在地に移転しました。
中央区教育委員会

 

石時町時の鐘宝永時鐘
工第四号  指定書
  石町時の鐘一口
所在地 中央区日本橋小伝馬町    所有者 東京都中央区役所
銅鐘   高さ一・七米口径九三糎    宝永辛卯四月推名伊予藤原重休
右を都重宝に指定する。
     昭和二十八年十一月三日   東京都教育委員会

 
江戸時代最初の時の鐘で、二代将軍秀忠の時は江戸城内の西の丸でついていたが鐘楼堂が御座の間近くで差障りがある為、太鼓にかえて鐘は日本橋石町に鐘楼堂を造って納めたのが起源で、明暦三年、寛文六年、延宝七年と三度も火災にあい破損したので、その後身として宝永八年に鋳造されたのがこの宝永時鐘である。音色は黄渉調長久の音という。享保十年旧本石町三丁目北側の新道の間口十二間奥行十九間三尺の土地に鐘楼堂を建て、時銭として一軒につき一ヶ月永楽銭一文ずつ当鐚で四文ずつを商業地区の大町小町横町計四百十ヶ町から集めて維持していた。鐘役は最初から代々辻源七が当たっていたので、辻の鐘とも呼ばれていた。鐘楼下では俳人蕪村が夜半亭と名づけて句会を催して深川の芭蕉庵と共に有名であった。当時江戸には日本橋石町、浅草、本所、横川町、上野芝切通、市ヶ谷八幡、目黒不動、赤坂田町、四谷天竜寺の九ヶ所に時鐘があったが石町時鐘はその最古のものである。石町鐘楼堂から二丁程の所に伝馬町獄があった。囚人たちは種々な思いをこめてこの鐘の音を聞いたことであろうし、処刑もこの鐘の音を合図に執行されたが処刑者の延命を祈るかのように送れたこともあって、一名情けの鐘ともいゝ伝えられている。幕末時鐘廃止後は石町松沢家の秘蔵となっていたが、十思後援会が寄進を受けて昭和五年九月十思公園に宝永時鐘々楼を建設し当時の市長永田秀次郎殿で初撞式を挙行した後東京に寄進した。

 

 

大安楽寺

IMG_2602.JPG

伝馬町牢屋敷跡

IMG_2603.JPG

都旧跡 伝馬町牢屋敷跡
所在 中央区日本橋小伝馬町一町目五番地先
指定 昭和二十九年十一月三日
江戸の牢屋敷は慶長年間(一五九六~一六一五)に、常盤橋外からこの小伝馬町に移転した。代々大番衆の石戸帯刀が牢屋敷預りに任命されており、管理していた。そして、明治八年(一八七五)五月廃止されるまで存続していたものである。
「御府内備考」の記録によれば、その規模の広大であったことがわかる。すなわち、面積は二、六一八坪(八六三九.四平方メートル)あり、さらに、これの敷地の四方を堀でめぐらしていた。南西部に表門があった。獄舎は、揚座敷、揚屋、大牢および女牢部屋に分かれ、明暦三年(一六五七)の収容因人は一三〇人であり、安政大獄(一八五九)には吉田松陰ら九十余名が収容されたこともある。
昭和四十四年十月一日 建設
東京都教育委員会

 

 

江戸伝馬町牢屋敷跡
史第二十九号  指定書
  伝馬町牢屋敷跡
所在地 中央区日本橋小伝馬町一の五先    所有者 東京都(中央区管理)
地積   一三・四五坪(二二尺四方)
右を都史蹟に指定する。
     昭和二十九年十一月三日   東京都教育委員会
伝馬町牢は慶長年間、常盤橋際から移って明治八年市ヶ谷囚獄が出来るまで約二百七十年間存続し、この間に全国から江戸伝馬町獄送りとして入牢した者は数十万人を数えたといわれる。現在の大安楽寺、身延別院、村雲別院、十思小学校、十思公園を含む一帯の地が伝馬町牢屋敷跡である。当時は敷地総面積二六一八坪、四囲に土手を築いて土塀を廻し南西部に表門、北東部に不浄門があった。牢舎は揚座敷、揚屋、大牢、百姓牢、女牢の別があって、揚座敷は旗本の士、揚屋は士分僧侶、大牢は平民、百姓牢は百姓、女牢は婦人のみであった。今大安楽寺の境内の当時の死刑場といわれる所に地蔵尊があって、山岡鉄舟筆の鋳物額に「為囚死群霊離苦得脱」と記されてある。牢屋敷の役柄は牢頭に大番衆石出帯刀、御□(木+豕)場死刑場役は有名な山田浅右エ門、それに同心七十八名、獄丁四十六名、外に南北両町奉行から与力一人月番で牢屋敷廻り吟味に当たったという。伝馬町獄として未曾有の大混乱を呈した安政五年九月から同六年十二月までの一年三ヶ月の期間が即ち安政の大獄で吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎等五十余人を獄に下し、そのほとんどを刑殺した。その後もこゝで尊い血を流したものは前者と合わせて九十六士に及ぶという。これ等愛国不尽忠の士が石町の鐘の音を聞くにつけ「わが最期の時の知らせである」と幾度となく覚悟した事であろう。尚村雲別院境内には勤王志士九十六名の祠と木碑が建てられてある。
          昭和二十九年十一月
  江戸史跡保存協賛会

 

杵屋勝三郎歴代記念碑

IMG_2607.JPG

松陰先生終焉之地

IMG_2608.JPG

(裏面)
萩城址の東麓
宮崎八幡宮の附近より
掘り出したる石
萩市有志者寄贈

句碑
 身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも
  留置まし 大和魂

 

 

吉田松陰先生終焉之地
吉田松陰先生は天保元年(西暦一八三〇年)八月四日長州萩の東郊松本村で杉家の二男として生まれた。幼い頃に吉田家をついだ。成人しての名を寅次郎という。吉田家は代々山鹿流兵学師範の家であったので、早くから山鹿流兵学その他の学問を修め、その道を究めて、子弟の教育につとめた偉人である。安政元年三月師の佐久間象山のすゝめで海外渡航を計画し、下田から米艦に便乗しようとして失敗、下田の獄につながれたが伝馬町獄送りとなって途中、高輪泉岳寺の前で詠んだのが有名な次の歌である。「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」同年九月まで約六ヶ月間伝馬町獄に留置されていたが、国元萩に謹慎の身となって帰って後の松下村塾での教育が最も偉大な事業であろう。薫陶を受けた中から有爵者六名、贈位者十七名、有位者十四名等多くの著名の士が出て中でも伊藤博文、山県有朋、木戸孝允等は、明治維新の大業に勲功のあった人物である。わが国歴史の上での三大変革といえば大化の改新、鎌倉幕府の創立、明治維新の三であるが、その明治維新にこれら松下村塾生の動きが大きな力となったことを深く考えたいのである。後松陰は安政の大獄に連座して再び伝馬町獄に入牢となった。安政六年七月九日江戸の長州藩邸から初めて評定所に召出されたが、その時「まち得たる時は今とて武蔵野よいさましくも鳴くくつわ虫かな」と決心を歌にのべている。しかし幕府の役人を動かすことが出来ず、その後の三回の取調べで死刑を覚悟した十月二十二日に父、叔父、兄へ宛て永訣の書を送っているがその中にあるのが「親思ふ心にまさる親ごころけふのおとづれ何と聞くらん」の一首である。また処刑の時の近づいたのを知って十月廿五日より廿六日の黄昏までかゝって書きあげたのが留魂録でその冒頭に「身はたとひ武さしの野辺に朽ちぬともとゞめ置かまし大和魂」十月念五日 二十一回猛士 と記してある。松陰はこれを同囚で八丈島に遠島になった沼崎吉五郎に托したが二十年後当時神奈川県令で塾生であった野村靖に手渡したものが現在残っている留魂録である。それによって当時の法廷の模様、訊問応答の次第、獄中の志士の消息等がわかり、自己の心境と塾生の行くべき道を示したもので崇高な松陰魂の指南書ともいえるものである。安政六年十月二十七日は処刑の日であった。揚屋を出る松陰は次の詩を高らかに朗吟して同囚の士に訣れを告げたのである。「今吾れ国の為に死す 死して君親に背かず 悠々たり天地の事 鑑照明神に在り」継いで刑場では「身はたとひ」の歌を朗誦して従容として刑についた。行年三十歳明治廿二年二月十一日正四位を贈位され昭和十四年六月十思小学校々庭に留魂碑が建設された。

 

 

 

 

 

小舟町をブラリ

[お江戸のマーシャ・堀内] 2016年1月27日 09:00

お昼に小舟町をブラリ、

 

1)最初に、「舟すし」さんで握りランチをいただき、weekendのご褒美です。
静かな佇まいで、テキパキとした板前さんの握るお寿司は美味しい。

 

2)そして、少し右手へ行くと岩代稲荷神社、出世○○と書いた幟があります。
やはり、江戸時代、"伊勢屋、稲荷に、犬の糞"と言われただけあって、どこにでも
お稲荷さんはありますね。

ck1515_20160126 (4).JPG

  

3)それから、家へのお土産に、御菓子司の「日月堂」のどら焼きを買いました。その場で
餡子を入れてくれて(うさぎと桜の焼印)、こんな素敵な袋に入れてくれました(200円)。
こちらでは、オリジナル焼印入りでどら焼きを作ってくれるって知ってました?是非、どうぞ。
http://nitigetudou.com/

ck1515_20160126 (5).JPG

  

4)最後に、ズット気になっていた「伊場仙」さんの漢字アート展へ、
近くで見て、ようやく、"喜"ぶという字がこんなに人の笑い顔に見えて書かれているのだと
わかりました(口が開いていてニコニコ顔に見えますね-口の部分はここがお酒や料理を入れる器を表します-
古代漢字学の大家である白川静が解き明かした象形文字の説明)。

ck1515_20160126 (1).JPG ck1515_20160126 (2).JPG

ck1515_20160126 (3).JPG

 

スッキリしたところで、皆さんもよい週末をお過ごしください。

 

 

 

人形町コース_1

[皐月の鯉の吹き流し] 2016年1月26日 16:00

人形町コース_1

1..椙森神社 → 2. 西郷隆盛屋敷跡 (日本橋小学校) → 3.小網神社

 

人形町コース_1.jpg

 
1.椙森神社 日本橋七福神の恵比寿神

 
椙森神社_01.JPG

椙森神社_富塚.JPG 

椙森神社は、中央区日本橋堀留町にある神社です。
江戸時代には、江戸城下の三森(烏森神社、柳森神社、椙森神社)の一つに数えられ、
江戸庶民の信仰を集め、当たりくじ富興行も行われていたといいます。
ここには、富塚があり大正9年に建立されましたが、関東大震災時に倒壊してしまい
その後、昭和28年11月に再建されたのがこの富塚です。
この富塚は、他に類を見ないと言われ、日本で唯一の物だそうです。

落語の宿屋の富に登場する、富くじが行われたのは
ここ椙森神社と思っていたのですが残念ながら湯島天神でした。
ただし宿屋は、馬喰町と言うことです。
落語の宿屋の富のエビソードです。 ある噺家さんが
この「宿屋の富」の落ちを「お客さん、草履履いたまま寝ている」と言うべきところ
「草履抱いたまま寝ている」と間違えたことがあると言っていた事を思い出しました。

 

 

西郷隆盛屋敷跡_00.JPG西郷隆盛屋敷跡_02.JPG

 

2. 西郷隆盛屋敷跡 (日本橋小学校)
 現在の日本橋小学校があった周辺、ここは西郷隆盛の屋敷があった場所です。
歴史教科書に掲載されている西郷隆盛の写真、信頼性がないということで
近年疑問視されているようです。
写真の上半分は弟の西郷従道、下半分は従弟の大山巌だという説が濃厚です。

 

中央区を離れますが、上野の西郷隆盛の銅像も似ていないという話もあります。
これは除幕式に立ち会った妻の西郷いとが、「うちの人はこげんおひとじゃなか。」と言って
関係者を愕かせたエピソードがあります。

ただこの似ていないのは、なにが似ていない、あるいはどこが似ていないのかはハッキリしないそうです。
また、飼っていたのはお気に入りの薩摩犬、雌犬名前は「ツン」という犬ですが
銅像作成時は死んでいたため、雄犬をモデルにして作成されたとのことです。
さらに実際の薩摩犬は像よりもっと小さいらしいです。

 

小網神社_01.JPG小網神社_04.JPG

3.小網神社
修復工事が終わり屋根が綺麗に葺かれました。この写真を撮ったのは大晦日ですが、
この日も御参りに来る人が途切れませんでした。

 

 

寒い冬にホット一息(甘酒)

[橘] 2016年1月26日 14:00

23日の寒い土曜日に人形町の甘酒横丁に行ってきました。

甘酒横丁の名前の由来は、甘酒横丁と人形通りの交差点に現在ある京菓子「玉英堂」さんの場所に、嘗てあった「尾張屋」さんが甘酒を販売していたところから、付いた名前と言われています。

futaba1.jpgowariya.jpg

 

現在、甘酒横丁で甘酒を頂けるのは豆腐屋さんの「双葉」さんです。

futaba3.jpgfutaba2.jpg

 

お店の前にはベンチがあって、この日も甘酒を寒い中飲んで温まっている方々がおられました。

そして、甘酒で有名なのは千代田区になりますが、神田明神随神門前にある2軒の甘酒屋さんの「三河屋」さんと「天野屋」さんですね。
myoujin.jpgmikawaya.jpgamanoya.jpg

「三河屋」さんは江戸時代の初期から、「天野屋」さんは江戸の後期からあったそうです。

こちらでも、美味しそうに甘酒をを飲んでいる方がおられますね。

寒い最中ですが、寒い時こそ皆さんも是非甘酒で体を温められては如何ですか。

 

 
<<前のページへ 1234567891011