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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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築地本願寺と文明開化の跡をたどるコース(1)

[CAM] 2016年1月17日 18:00

土佐藩築地藩邸跡(バックの建物は中央区役所)

IMG_2547.JPG所在地 中央区築地1丁目1~6番、同2丁目1・6、9番地域

 

この地は、江戸時代前期に埋め立てられ武家地や町人地となりました。

文政9年(1826)、この一帯の土地がまとめられ、土佐藩山内家が拝領しました。山内家は中屋敷ないし下屋敷にしていたようで、幕末までこの地にありました。

・・・・・・・・・・・

 なお、幕末に土佐勤王党を結成して幕府打倒を掲げた武市半平太は、ここから程近い士学館道場に通っていました。

また、薩長同盟を成立させ、大政奉還を提言した坂本龍馬は、安政3年(1856)から同5年ころ、剣術修行のため江戸に来ていました。龍馬はこの地の土佐藩築地邸に寄宿しながら、桶町(現八重洲2丁目、京橋2丁目の一部)にあったとされる千葉定吉道場に通っていたようです。

平成223月         中央区教育委員会

 

京橋図書館

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活字發祥の碑

IMG_2550.JPG明治六年(一八七三)平野富二がここに長崎新塾出張活版製造所を興し後に株式會社東京築地活版製造所と改稱日本の印刷文化の源泉となった
[昭和四十六年(一九七一)六月 建設]

 

築地小劇場跡

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碑文・里見とん筆
大正末から昭和にかけ、新劇の本據として大いにその發展に寄輿した。戦災で焼失。

 

築地本願寺

 

 

 

厳冬のプランツウォーク

[サム] 2016年1月16日 14:00

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R0036828RSG.jpg 晴海トリトンスクエア内ポケットプラザ「花・水・樹」のグリーンアドバイザーの案内で園内を散策する毎月恒例のミニガーデンガイドツアー。

今月は1月14日に開催されました。(12:30~ 14:30~)

冬枯れの時期ではありますが、花壇には彩りの演出に工夫が加えられています。

ノーストリトンパークでは、正月の縁起物として使われるマンリョウ(万両)、センリョウ(千両)の他、カラタチバナ(百両)、ヤブコウジ(十両)が観察できます。

因みに一両はアリドオシ。

春の七草のナズナ、タビラコも顔を出しています。

サウストリトンパークでは日本の代表花木のひとつ「ツバキ」が開花中。

今期は暖冬を反映して、昨年12月26日、平年より45日早く昨年より20日早い、東京管区気象台の「椿開花」宣言でした。

花のテラスではギンヨウアカシア(ミモザ/マメ科)が早くも花を付け始めています。

稀少品種のツバキ "エリナ" の蕾姿も見ることができます。

細い枝と葉のしなやかな樹姿で、春先に淡いピンクの可憐な小花が咲きます。

葉を揉むとゴマの香りがするゴモジュ(スイカズラ科)、

金魚がパクパクと口を開けている様、鰭を広げてひらひらと泳いでいるような様子から

名付けられたとされるキンギョソウ(ゴマノハグサ科)、何れもユニークです。

英名は、花筒の部分を横から指で挟むと上唇弁と下唇弁との間がぽっかりと開いた様を

竜に見立て、「スナップドラゴン(噛みつき竜)」。

今回のテーマのひとつが春を待つ「花芽と葉芽」。

ソメイヨシノの花芽と葉芽を例に、「冬芽」を観察。

花芽は卵形~長卵形、葉芽は細長い紡錘形。

冬芽の中では、春への準備が着々と進められているものと想像が及びます。

命のメカニズムの巧みさを感じる一コマです。

厳冬のガーデンですが、「見て、聞いて、触れて」、またひとつ新たな切り口を学んだプランツウォークでした。

 

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左から、ツバキ "エリナ"、ゴモジュ、キンギョソウ、ソメイヨシノ 花芽/葉芽

 

 

新川周辺散策コース(3)

[CAM] 2016年1月16日 09:00

現在の霊岸島水位観測所

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日本の水準原点を生んだ霊岸島水位観測所も、その後の東京湾の埋立てや隅田川の河川水の影響があり、水準原点の検証をするための観測所としては、理想的な位置とは言えなくなり、現在では神奈川県三浦半島油壺の観測所にその機能が移されています。
現在の霊岸島水位観測所は、荒川水系の工事実施基本計画や改修計画の策定及び改訂のための基礎データの観測を続けていますが、隅田川のテラス護岸の施行に伴い平成6年5月に元の位置から約36m下流に観測所を移設しました。
元の観測所の位置には、その歴史的経緯を長く後世に伝えるため、観測柱を正面にシンボル柱として設置しました。また、新しい観測所の3角形のフレームは、土木や建築の設計図などに高さを表す記号として用いられるをイメージし、その下端部はA.P.0mを指し、その一辺の長さは観測所位置のある東経139°47'にちなみ13.947mとしています。
観測室については、斜方十二面体という形で立方体それぞれの面に勾配45°の四角錐を付加したような形をしていて、川に沿って視点を移動していくと正方形、正六角形、八角形と変化して見えるものです。

 

 

 南高橋(みなみたかばし)

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IMG_2539.JPG 所在地 中央区新川二丁目~湊一丁目(亀島川)
創架年代は、昭和六年(一九三一)に起工、同七年三月に竣工。
現在の南高橋の地には江戸時代には木橋は架橋されておらず、亀島川上流に高橋があったのみでした。大正十二年(一九二三)の関東大震災ののち、街路の大規模な区画整備が行われた時に当時の本湊町と対岸の越前堀一丁目との間の亀島川に新しく橋を架けることになりました。
東京市は、多くの橋を改架したため、予算も乏しくなりました。そのため明治三十七年(一九〇四)に改架され、大震災で損害を受けた隅田川の両国橋の三連トラスの中央部分を補強し、橋幅を狭めて南高橋として架設したのです。
都内において、珍しくも明治三十七年のトラス橋の一部が現在に残ることとなり、その意味でも近代の土木遺産として貴重です。都内に残る鋼鉄トラス橋としては江東区に移転した八幡橋(旧弾正橋)についで二番目に古く、車両通行可能な鋼鉄トラス橋としては全国で六番目に古い橋梁になります。区民有形文化財に登録されています。
平成十四年三月
中央区教育委員会

 

 鉄砲洲稲荷神社

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桜川公園と八丁堀跡説明版

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 江戸時代初期、京橋川の下流から隅田川へと流れ込む通船のための水路が開削され、この堀割を「八丁堀」と称していました。
八丁堀の開削年や名称の由来には諸説がありますが、『京橋区史』には、「南八丁堀一丁目と本八丁堀一丁目の間より東流し、桜橋、中ノ橋、稲荷橋を過ぎ亀島川に会いして海の入る。慶長17年(1612)に漕運の利を謀りこれを鑿つ、当時海口より凡そ八丁(約870m)なるを以ってこの名あり」と書かれています。
なお、地域名としての八丁堀は、堀を境に北側の一帯を本八丁堀(北八丁堀)、南側の河岸地一帯を南八丁堀と称し、広範囲にわたっていました。
通船堀としての八丁堀は、明治になって「桜川」と改称され、関東大震災後の復興事業を経て新桜橋・桜橋・中ノ橋・八丁堀橋・稲荷橋が架けられました。
昭和35年から昭和41年頃には、中ノ橋から稲荷橋までを残して桜川の上流が埋め立てられ、その後、桜川は完全に埋め立てられました。
埋立地の一部は、桜川公園として整備され、この辺りに堀割があったことをしのばせています。

  

八丁堀の与力・同心組屋敷跡(バックは京華スクェア)

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所在地 中央区八丁堀一~二丁目
日本橋茅場町一~三丁目の一帯
江戸初期に埋め立てられた八丁堀の地は、はじめは寺町でした。寛永十二年(一六三五)に江戸城下の拡張計画が行われ、玉円寺だけを残して多くの寺は郊外に移転し、そこに与力・同心組屋敷の町が成立しました。その範囲は茅場町から八丁堀の一帯に集中しています。
八丁堀といえば捕物帳で有名な「八丁堀の旦那」と呼ばれた、江戸町奉行配下の与力・同心の町でした。与力は徳川家の直臣で、同心はその配下の侍衆です。着流しに羽織姿で懐手、帯に差した十手の朱房もいきな庶民の味方として人々の信頼を得ていました。
初期には江戸町奉行板倉勝重の配下として与力一〇人、同心五〇人から始まってのち、南北両町奉行が成立すると与力五〇人、同心二八〇人と増加し、両町奉行所に分かれて勤務していました。与力は知行二〇〇石、屋敷は三〇〇~五〇〇坪、同心は三〇俵二人扶持で、一〇〇坪ほどの屋敷地でした。
これらの与力・同心たちが江戸の治安に活躍したのですが、生活費を得るため町民に屋敷地を貸す者も多く、与力で歌人の加藤枝直・千蔭父子や医者で歌人の井上文雄などの文化人や学者を輩出した町としても知られています。
平成十三年三月
中央区教育委員会

 

 

 

鉄砲洲稲荷神社 寒中水浴大会

[四方の風] 2016年1月15日 14:00

 四方の風です。

久しぶりの投稿になります。申年も早くも半月が経過。私事ですが、今月が誕生月なので年明け早々、ひとつ歳を重ねることになります。

 

さて、わたしの中央区のまち歩きは1月5日、今年が終いの年になった築地の初セリ見学と当日が初戌で賑わう水天宮詣ではじまりました。

年はじめの記事は、5日のことではなく1月10日{日) 鉄砲洲で行われた、中央区新年の極め付け行事である寒中水浴大会(寒中禊)を

書きます。昭和30年以来今回で61回目を迎えた今回は、神社改修工事のため神社境内ではなく隣接する鉄砲洲公園で行われました。

 今年は暖冬といわれますが、当日も快晴に恵まれ、水槽に予め入れられた大きな氷柱も少し解けるのが早まっていたようです。

寒中水浴は、神前で冷たい水を浴び心身を清め無病息災を祈願する行事。実際に水浴される方だけではなく、見物している私たちも供に

祈願をさせていただきました。

 当日の進行は、氏子会会長、鉄砲洲神社宮司、中央区区長の挨拶に続き 板橋氷川神社篠直嗣宮司の指導の下、準備体操として

神社一周ランニングで始まりました。 舟をこぐ仕草とともに 指導者にあわせ歌う和歌と 艪押すとき「エーイツ」引くとき「イーエツ」の掛け声

は新春の青空に力強く響き渡っていきました。このあと振魂(ふりたま)以下邪気を払う行事を幾つか済ませ、氣吹と呼ぶ深呼吸動作を

へて、いよいよ「エイ!」の掛け声とともに寒禊がスタート。胸の前で玉子を包むように両手を上下にかさね、目を閉じず前を見据え

「祓戸大神、祓戸大神」と唱えていました。参加者が多くふたグループに分かれておこなわれましが、若い女性と外国人の参加が印象に

残りました。水浴が終わると最初の動作が繰り返され行事は終了となりました。

 

 伝統の行事を目の当たりに触れ元気をもらうことができた一日でした。

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新川周辺散策コース(2)

[CAM] 2016年1月15日 12:00

永代橋

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 永代橋は、元禄11年(1698年)に隅田川の第四番目の橋として、現在の永代橋の場所より上流約150mに架けられていました。当時、橋の左岸を永代島と呼んでいたことから「永代橋」と名付けられましたが、一説には5代将軍徳川綱吉の50歳を迎えた記念として、その名を付けられたとも伝えられています。当時諸国の廻船が航行していたため、橋桁をを十分高く取ったので、「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総、限りなく見え渡り眺望よし」といわれる程の橋上からの景観でした。

永代橋が現在の場所に移されたのは明治30年(1897年)のことで、わが国の道路橋としては初めての鉄橋に生まれかわりました。その後、関東大震災で大破し、大正15年(1926年)12月に現在の橋に架替えられました。その姿は、上流の清洲橋の女性的で優美な雰囲気とは対照的に、男性的で重量感にあふれており、隅田川の流れとともに広く都民に親しまれています。 

 

新川の跡

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所在地 中央区新川一町目地域
新川は、現在の新川一町目三番から四番の間で亀島川から分岐し、この碑の付近で隅田川に合流する運河でした。規模は延長約五百九十メートル、川幅は約十一メートルから約十六メートルと、狭いところと広いところがあり、西から一の橋、二の橋、三の橋の三つの橋が架かっていました。
この新川は、豪商川村瑞賢が諸国から船で江戸へと運ばれる物資の陸揚げの便宜を図るため、万治三年(一六六〇)に開削したといわれ、一の橋の北詰には瑞賢が屋敷を構えていたと伝えられています。当時、この一帯は数多くの酒問屋が軒を連ね、河岸にたち並ぶ酒蔵の風景は、数多くの挿絵や浮世絵などにも描かれました。
昭和二十三年、新川は埋め立てられましたが、瑞賢の功績を後世に伝えるため、昭和二十八年に新川史跡保存会によって、「新川の碑」が建立されました。
平成六年三月
中央区教育委員会

 

新川公園

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 於岩(おいわ)稲荷田宮神社の鳥居・百度石

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所在地 中央区新川二ー二十五ー十一
於岩稲荷田宮神社は、四代目鶴屋南北の戯曲で、文政八年(一八二五)に初演された「東海道四谷怪談」の主人公、お岩の伝承を持つ神社です。社地は歌舞伎俳優の初代市川左団次の所有地であったと伝えられ、花柳界や歌舞伎関係などの人々の参詣で賑わいました。
境内の本殿横にある石造の鳥居は明治三十年(一八九七)一月に造立されました。花崗岩製のこの鳥居は、中央区に現存する中では二番目に古い鳥居です。鳥居の形式は「神明鳥居」に属し、柱下部には断面が花形の根巻と四角い台座が付いています。
鳥居の奥にある百度石は民間信仰である「お百度参り」のための石塔です。中央区内に現存する百度石のうちでは最古のものです。左側面には「大阪浪花座興行記念 四代目市川右団次」と刻しており、市川右団次がお岩の上演を記念して奉納したものです。戦前・戦後を経て、現在もこの百度石でお百度参りを祈願する人も少なくなく、庶民の信仰とともに生きています。
鳥居・百度石は共に中央区民有形文化財に登録されています。
平成十一年三月
中央区教育委員会

 

 中央大橋上の「メッセンジャー像」

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  両都市と両河川をつなぐ有効を記念して、パリ市は東京都へオシップ・ザッキン作「メッセンジャー」を寄贈する。 

19921027日 東京にて   ジャック・シラク

 

「メッセンジャー」(Le messeger

 本作品は、1937年オシップ・ザッキン(Ossip ZADKINE47才の時の作品である。

 この都市に開かれた「パリ万国博覧会」に出品された作品であり、オシップ・ザッキンの作品の中でも大作の一つのに数えられている。

 当時の万国博覧会の案内書によるとこの作品は「希少木材を求めて海外に船を派遣するフランスの守護神を表したもの」とされている。

 「メッセンジャー」は、パリ市の徽章にも描かれている帆船を思わせる船を描いている。

 

 

 

 

 

 

中央区観光検定試験に向けた学習方法

[みど] 2016年1月15日 09:00

第8回(2月11日開催)中央区観光検定試験に向けて勉強されている
方に、これまでの私の経験から効果的な学習方法をご案内させて
いただきます。

 
当然ですが、公式テキスト『歩いてわかる中央区ものしり百科』と
過去問題集は必ずご用意してください。

まずはテキストを斜め読みして概要をインプットします。ここでは
詳細は覚えようとしなくて良いので、全体のイメージを把握します。
次に過去問題集を集中的にトライしてみてください。おそらく50%
くらいしかできないかも知れませんが、さほど気にしなくても良いです。
過去問題を3ケ年分、解くことでだいたいの「出題傾向」がわかって
くると思います。易しいものもあれば、かなりマニアックなものまで
様々ですが、こんなところからも出題されるのかというニュアンスが
なんとなく理解できるようになってきます。

 

たとえば、「・・・の由来」「・・・と関係する人物」「・・・の作者」
「・・・の前身、旧名、別名、現在の名前」はよく出題されています。
「数」も問題にしやすいので数字に関わる箇所は覚えておきましょう。

このようにおおよその出題傾向がわかってきたら、今度はテキストを
じっくりと読み返します。ここは出そうだと思える箇所にはマークして
繰り返しテキストを読みこなします。
自分なりに穴埋め問題を想定しながら読み込むと良いと思います。
テキストに掲載されている写真や地図もしっかりイメージできるように
しておきましょう。
また2015年にあったイベント、ニュース等を覚えておくとベターです。
第8回試験のテーマ「築地エリア」ということなので、詳細な問題が
予想されるので、何度も熟読してください。

 

合格ラインは75点なので、100点は目指さず、80点をターゲットにします。
つまり20点はできなくても良いという心の余裕が生まれます。
落ち着いて頑張ってください。

 

第8回 中央区観光検定についてはこちらを参照してください。
http://www.chuoku-kentei.jp/

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