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月島散歩 佃島砲台跡、西仲橋の歴史など

[銀造] 2016年2月 6日 09:00

 月島を散歩して、江戸時代末期から明治にかけての月島の歴史に触れることが出来ます。 

月島は明治20年から埋め立てが開始されたのでしたね。

そんなことを教えてくれる案内板を2つご紹介します。

 

 一つ目は、月島1丁目14の辺りに設置されている「佃島砲台跡」の説明版です。 その説明では、

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江戸時代末期、佃島の南に位置するこの場所には、外国船の渡来に対処するための海防施設「砲台」が築かれました。
 江戸防衛・海防策の一環で砲台が築造されたのは、嘉永6(1853)年6月にアメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀に来航し、日本の開国・貿易港の開港などを求めた出来事が契機でした。

ペリー来航から2か月後の同年8月、幕府は非常事態に備えて品川沖に江戸防衛用の台場(砲台)築造を始め、翌年11月までの短期間に「第一~第三・第五・第六・御殿山下」の六基(品川台場)を完成させました。
佃島の南に砲台が築かれたのは、品川台場の築造から約10年後の元治元年(1864)のことでした。

砲台新設の契機となったのは、文久3年(1863)に勃発した薩英や元治元年の四国(英・米・仏・蘭)連合艦隊による下関砲撃事件などの出来事でした。

幕府は、より強固な江戸湾防備体勢を敷くため、品川から越中島までの間に新たに海岸砲台の設置を計画し、佃島砲台もその一つとして築造されました。
 佃島砲台の規模は「東京市史稿」の「東京通志」によると「京橋区佃島南端海中ニアリ。東西凡三拾九間(約70メートル)、南北凡四拾間(約72メートル)、面積凡千三百七拾坪。元治元年甲子幕府之ヲ築キ、明治に至リ修理ヲ加ヘ、陸軍省ニ属ス」とあります。
 明治期には、陸軍省所管の砲台となりましたが、明治20年(1887)に始まった月島築造工事の際に、佃島砲台を基点として月島第一号埋立地(現在の月島1~4丁目)の埋立が進められ、工事の過程でその姿を消しました。

       平成23年3月(案内板の設置年月)

 

また、西仲通り商店街から勝どき方面に向かって歩いていくと、西仲橋がありますが、

この橋の架け替えについての記事も興味深いのでご紹介しますと、

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現在の西仲橋は、平成26年(2014)3月に架け替えられました。

架け替え前の西仲橋は、昭和31年(1956)に架橋され、橋脚・橋台の基礎として、合わせて70本の木杭(米松)が使われていました。

この木杭は、現在の西仲橋架橋の際に、月島川から取り出して展示するとともに、ベンチとしても再利用しています。また、以前の西仲橋の橋台前面にあった石積みは、擁壁や植栽まるとして再利用しています。

との説明です。

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 明治時代から昭和にかけてのビルの土台や橋の基礎には、米国産あるいはカナダ産の松が沢山使用されたのですね。

そんな事も考えながら、再利用のベンチに座って、月島散歩を楽しみました。