中央区観光協会オフィシャルブログ

中央区観光協会特派員ブログ

中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

執筆者一覧

>>このブログについて

最近のブログ記事

九番目の義士 間新六が見せた壮烈な切腹 (1)

[CAM] 2016年9月21日 18:00

 築地本願寺境内には、吉良邸に討ち入った赤穂浪士の一人である間新六の供養塔が存在する(『ものしり百科』;69頁)。しかし、なぜ赤穂浪士の内、間新六の供養塔だけが築地本願寺に存するのかについては疑問であった。この点について、雑誌『歴史通』の2016年1月号で、作家・伊藤成郎氏が「九番目の義士間新六が見せた壮烈な切腹」と題する論文を寄せておられる。入手がやや困難な文献であると思われる(中央区立図書館では収蔵していない)ので、以下に要点だけを紹介しておきたいと思う。

 
>赤穂浪士の墓所といえば、誰しも思い浮かべるのが東京都港区の泉岳寺である。仇討ち後、同志と離れた寺坂吉右衛門を除く46人の浪士たちは、四大名の江戸藩邸に分散して収容され、翌年2月4日に、幕命によって切腹した。それぞれの遺体は、主君である浅野家の江戸での菩提寺となる泉岳寺へ運ばれ、埋葬された。

 

 だが、ただ一人だけ、切腹後に泉岳寺へ送られなかった赤穂浪士がいる。それが間新六であった。

 
>現在、本願寺の境内の東北側に沿って、6基の墓石が並んでいる。歴史散策に赴く人以外には、ほとんど顧みられることもない。かつて本願寺は、本堂境内から南西部の、西北にあたる場所に広い墓域を持っていた。昭和11年(1936)に、この墓地は杉並区の和田堀へ移転したが、その際、わずかな名士の墓石が、築地に残されたのである。

 
>赤穂藩邸は明暦3年に、それまでの上桜田の地から築地へ移転し、長矩の刃傷事件によって幕府に接収されるまでの44年間、この地にあった。現在の聖路加看護大学全域や、中央区立明石小学校の敷地の半分などを包括する場所にあった上屋敷は、総坪数が8970余、建物の総面積は、3335坪となっている。寛文7年(1667)に長矩が生まれたのもこの地であった。

 

 こうした事蹟も踏まえ、赤穂浪士たちは、幕府への接収後、越前小浜藩の江戸上屋敷になっていたこの地へ立ち寄り、主君の産土の地の神へ、快挙を報告したのである。