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水上生活者(月島地区)

[yaz] 2018年6月22日 09:00

東京という都市は、今なお東京湾口に向けて伸び続けています。お台場の沖合で今も中央防波堤外側埋立地の造成が続いていますが、この事業は昭和52年(1977)に開始され、未だ事業半ばです。家康が埋め立てを開始して今なお続けるこの事業は、明治時代に入ると月島から始まりました。江戸時代には陸で壕や河川を造成するとき発生する土砂を廃棄して埋め立てましたが、明治時代には海底を浚渫して発生した泥土を埋め立てて陸地を造りました。

 
明治25年(1892)の東京湾澪浚(みおさらい)事業で海底泥土を浚って積み上げて生まれたのが月島1号地です。続いて2号地、3号地(現在の勝鬨、豊海)、4号地(現在の晴海)と沖合に細長く伸ばしていきました。この澪浚事業は、同時に隅田川河口改良工事でもありました。長年、隅田川が海底に運んだ泥土を取り除いて航路を整備したのです。

月島・佃島の川筋には、伝馬船や達磨船あるいは発動機船などの艀(はしけ)が多くみられました。貨物船で運ばれてきた品物を大艀と呼ばれる比較的大きな船で集配し、品物を積み替えた小艀で陸揚げしたら、川筋を輸送します。大正から昭和にかけて東京市とその周辺を流れる河川は69あり、輸送には水運が便利でした。水運に従事する艀の数は昭和2年(1927年)末の水上署の調査によれば11,290隻で、艀は所帯ごとの仕事場でもありました。その人口は31,036人(男性20,600人、女性10,436人)であり、その半数以上が陸上に家を持たない水上生活者でした。仕事場であり生活の場である艀は、大きくても50トン、小型では10トン以下でした。寝起きする部屋の大きさは2~3帖という小ささでした。ここで家族3人~4人が生活していたわけです。こうした住民の福利厚生を行うために水上会館や水上学校(陸上に建てられた寄宿形式の学校)が建てられたほか、治安を担当する水上警察署などが設置されました。昭和2年当時の中央区(=日本橋区・京橋区)の正確な人数は不明ですが、グラフからすると24万人程度でしょうから、水上生活者だけで10%以上を占めていました。

 

2018年2月現在の月島地区(月島・勝どき・晴海)の人口は72,780人・世帯数は37,443です。中央区の人口(=157,388人)46%を占めています。いつの時代も中央区の人口はウォータフロントで持っていると言っても過言ではないでしょう。

中央区の人口の推移(抜粋).png

水上生活者の方々には戸籍のない人も多くいたようですので、実際の割合は上記数字以上であったと予想されます。

水上生活(月島地区).png 水上生活(月島地区)(1).png

1960年代後半になると、貨物船コンテナ船化が進み、物流における艀の需要が減って職住一体となった艀は減少し、水上生活者も転職などにより激減します。一方で、艀の廃船を係留して住宅の代替として利用するケースが多くなりましたが、1980年代になると艀の老朽化が進み、使用に耐えられなくなりほぼ見られなくなりました。