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中央区の歩道っておもしろい!11 【続佃1・2丁目】

[湊っ子ちゃん] 2018年6月26日 09:00

前回、佃1・2丁目では、三角形をした空間と、それによって生まれた個性的な歩道をたくさんみつけることができました。今回は、三角形のできた経緯について考えてみたいと思います。

sankakuedo.jpg♪ 佃島のなりたち


江戸時代初代将軍徳川家康に招かれ、摂津国西成郡(現在の大阪市西淀川区)佃村から江戸入りした、森孫右衛門と漁師34人は、正保元年(1644)、隅田川河口の干潟百間(約180m)四方を賜り、ここに佃島を築造しました。

将軍への白魚献上の御用を務め、また、日本橋魚河岸のもととなる店を開いたとも言われています。
佃島は、江戸の町並みと向きがほぼ揃っているように見えます。

 
▲ 安政4年(1857)尾張屋板切絵図「築地八丁堀日本橋南絵図」の一部

 

sankaku05.jpg

◀ 佃島には正面があり、それは渡船場のあった面だそうです。(図色線)


その正面は、江戸城を向いていて、町の向きも江戸の町に沿っていると、本で読んだことがあります。
一方、明治に入ってから誕生した新佃島(現在の佃2丁目・3丁目)を含む月島地区は、築地や深川と向きが同じだということです。なるほど、深川との間には相生橋があり、まっすぐな道路でつながっていますものね。

ちなみに、相生橋の話ですが、明治36年、相生橋が架かると、水道の鉄管が橋の下を通り、深川から月島へ"飲み水"が供給されたそうです。それまでは、「水売り」という商人が、天秤棒をかつぎ、船から水を売りに来ていたそうです。mizuuri.png
月島が工場地帯として発展するにつれ、月島に暮らす人々への水の供給が急務になりました。相生橋はそんな中、月島の人々にとって、生活に欠かせない橋になったのですね。


sankaku07.jpg◀ 新佃島から相生橋を望む

調べてみますと、新佃島の埋め立ては、明治23年(1890)に着工し、6年後の明治29年(1896)9月に完成しています。明治21年(1888)には、東京市区改正計画の公布がありました。

同じ明治21年の出来事として、佃島年表のなかに、おもしろい記述をみつけました。以下、抜粋します。

― 5・12 東京湾内に二頭のサメが迷いこみ、海を荒して不漁が続くので、佃島の漁師達は住吉神社でサメ退散の祈祷を行った (めざまし新聞) ―

月島の埋立てが始まって、海の様子が変わったので、サメも迷子になってしまったのかもしれませんね。当時の漁師さんたちにとっては、必死の出来事だったと思いますが、私はなぜか、ほっこり心の温まる思いがしました。tukunenpyou.png



♪ 月島の埋め立て
月島1号地(現在の月島1丁目~4丁目)は、明治20年(1887)、佃島の南にあった佃島砲台を基点として始まりました。同年、石川島懲役場が、巣鴨へ移っています。
完了したのは明治25年(1892)です。月島という地名はこの年に、東京市参事会の決議により命名されたそうです。

同年11月には、土木請負業の鈴木由三郎氏が、私設で手漕ぎの有料渡船を開始しました。この渡船は、南飯田町(現在の築地7丁目)と月島1号地を結んでいました。これが、「月島の渡し」の始まりです。


sankakutukisima.jpg月島の渡し跡 
◀(所在地 中央区築地7丁目18番・明石町14番)
すぐ隣には、「史跡・月島の渡し跡 記念樹」が、築地7丁目の有志の方々によって植えられていました。


(所在地 月島3丁目24)▶

わたし公園内にある説明版より 当時の渡船場風景sankakutuki3.jpg


その後、明治27年(1894)に月島2号地(現在の勝鬨1~4丁目)が完成、そして明治29年(1896)に、新佃島(現在の佃2丁目・3丁目)が誕生しています。この年、月島にはボイラー工場、レール工場、製米工場など、多くの工場が開業しています。
その後も、大正2年(1913)月島3号地(現在の勝鬨5・6丁目)、昭和6年(1931) 月島4号地晴海町と続きます。



sankaku01re.jpg左図、新佃島の月島地区と向きの揃った部分だけ、色線で囲ってみました。右図、佃島と新佃島の間に、三角形の空間ができました。

▲ 明治44年(1911)番地界入 東京市京橋区全図 東京逓信管理局編纂 をもとに作成
 

♪ 佃島砲台跡
佃島砲台は、元治元年(1864)に築かれました。外国船の渡来に対処するための海防設備として、嘉永6年(1853)品川沖に砲台が築かれたのを始めとし、合計6基の砲台(品川台場)が、翌年までの短期間に築かれました。 佃島砲台ができたのはその10年後のことでした。

新設のきっかけは、文久3年(1863)に勃発した薩英戦争や、元治元年の下関砲撃事件があったことでした。幕府は、より強固な江戸湾防備体制を敷くため、品川から越中島までの間に新たな海岸砲台の設置を計画し、佃島砲台はそのひとつとして築造されたのです。

sankakuhoudai.jpg佃島砲台跡説明板より

(所在地 中央区月島1丁目1・2・13・14番地域)

佃島砲台を古地図で見ると、佃島とは違う方を向いています。私は、その後埋立てられる月島地区と、向きが似ているような気がしています。これも、いつか調べてみたいと思います。

 

♪ 佃大橋の誕生
佃大橋は、昭和39年(1964)に開通しました。これによって姿を消した、佃島渡船は、隅田川流域において最後まで残った渡船でした。その歴史は、300年以上におよびます。

sankakuwatasi.jpg佃島渡船場跡

◀(所在地 中央区湊3丁目18番)

(所在地 佃1丁目11番4号)▶sankakutuku1.JPG



ひとくちメモですが、昭和39年(1964)は、佃島砲台の築造された年から、ちょうど100年です。

砲台より、"架け橋"ができたことは、嬉しいことですね。


sankakutukoo.jpg◀ 春の佃大橋

さて、佃大橋と新月陸橋の一連の軌道も、三角形を作っているのではないかと、私は考えています。
新月陸橋は、月島の道路の上を走っています。佃大橋もその軌道に沿いますが、隅田川をはさみ、明石町・湊3丁目側に入ったところで、大きく軌道を変えています。両者の道路の向き、ないしは町の向きが違うからですね。

sankaku02re.jpg

左図、色線が佃大橋と新月陸橋の軌道。右図は、それによってできた佃島の三角形。
▲ 平成17年 現況図(東京地形図 中央区京橋地区)をもとに作成
 

♪ 三角形の歩道
そしてできた三角形の空間。そのほとんどは、公園になっています。そして、その公園を囲むように、歩道があります。その歩道たちは、三角形というとてもユニークな形をしているのと同時に、個性的な地形のなかにおいて、歩行者の安全を守ってくれているのですね。

sankaku04.JPG前回ご紹介できなかった、もうひとつの三角形があります。中学校のグラウンド裏にある、小さな空間。佃中学校南、と名付けられています。ここも、公園なのです。
この公園は、緊急時に避難通路となるよう、防災上確保されている空間です。目の前には、広く道が開けています。

sankaku03.jpgここも、冒頭で述べました、佃島と新佃島の間にできた三角形の空間の一部なのです。広い道路なので、横断歩道も四方に設けられています。
このように、地域の安全も守ってくれている道って、素敵ですね。
 

長い歴史のなかで生まれた、地形と、それに伴う道。 これからも、歩道との出会いを大切に、中央区を歩きたいと思います。
 

♪ 前回、歩道を中心にご紹介した内容は、
「中央区の歩道っておもしろい!10【佃1・2丁目】」をご覧ください。
 http://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/2018/06/post-5289.html

 

● 掲載地図  平成17年中央区立京橋図書館「郷土室だより」付録地図(旧京橋区の部)

 

中央区観光特派員 湊っ子ちゃん

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第18号 平成30年6月22日