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新川跡を歩く!

[株式会社 彦晴] 2018年11月10日 14:00

今回の企画は、1659年に河村瑞賢によって開削された新川跡を歩いてみようという企画です。

亀島川と新川の合流地点(新川一丁目3番付近)より隅田川と新川の合流地点の新川公園の「新川之跡」の石碑までを歩いてみました。

新川は現在の新川一丁目内を流れていました。新川には西より一ノ橋、二ノ橋、三ノ橋と三つの橋が架けられていました。江戸期より、両岸には酒屋や酒蔵が並び、明治・大正期まで下り酒問屋、地廻酒問屋、回船問屋などが多く集まっていました。しかし関東大震災、さらに東京大空襲で東京の酒類卸業の中心地、新川は全滅してしまいました。

そして、新川は昭和23年(1948)に埋め立て工事がはじまり翌24年に工事が完了しました。

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スタートは霊岸橋からです。霊岸橋のたもとにある自転車置き場から対岸を見ると緑の濃い場所が確認できます。こちらが新川と亀島川の合流地点です。護岸を注視してみましたがそれらしき痕跡は発見できませんでした。

 

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上の写真は一ノ橋付近です。そして永代通りに少し戻ると河村瑞賢屋敷跡の説明板があります。

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そして新川左岸には新川大神宮があります。

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新川大神宮については少し調べてみました。

"新川大神宮 霊岸島四日市町にあって、この地産土神である。大神宮とも神明宮ともいった寛永年間、伊勢内宮の社僧慶光院比丘尼が江戸に参府した際、ここに屋敷を拝領して旅亭とし、伊勢内外両皇太神宮を勧請し、遥拝所としたのがその草創とされている。文政・天保の間、江戸市中でも最も盛んに富突の行われた場所の一つである。"

『中央区史』より

 

奉納板をみてみましょう。今でも酒類に関係する企業名が確認できます。

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2018年の例大祭10月17日に執り行われた後だったので、境内北西部には清酒積樽が飾られていました。

 

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現在でも新川大神宮の隣には酒フーズ健康保険組合のビルが建っていました。新川跡付近に酒類の企業名が若干ではありますが、今でも確認できます。

そしてこの先が、新川公園となります。新川公園内に「新川の跡」の石碑及び新川の跡の説明板が立っています。

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そして、蔦に覆われた水門も確認できました。

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この隅田川との合流地点、左岸に以前から気になっていた渡海稲荷神社があります。

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この渡海稲荷神社の表示はあるものの中はどうなっているのかわかりません。

このシャッターの中には鳥居や祠があるのでしょうか?まずは『渡海』稲荷神社の名前が海を渡ると書き、また場所が新川入口というのが個人的にすごく興味があり少し調べてみました。

「渡海稲荷神社 祭神 宇賀魂命 創建宝永元年 明治初年上地、市部共有地となり改め二二坪を無料借地。戦後連合軍に接収され、解除後再建に着手した。崇敬者二千人。」

『中央区史』より

 

宝永元年は西暦1704年であるから新川が開削された後の創建となる。また、昭和20年代の火保図をチェックするとその付近は『 U.S.N.COMMANDER NAVAL FORCES FAR EASTMOTOR POOL 』と記載されており、進駐軍の集中配車場として利用されていたみたいです。今現在、この渡海稲荷神社の中はどうなっているのか気になりますね。

そして最後に、隅田川テラスへ出てみました。なんと、そこには「鷺」らしい鳥が出迎えてくれました。これには『びっくり』しました。

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今回この新川跡を歩いてみて、戦災復興のため埋め立てられてしまった新川の直接的な痕跡は発見できなかったが、新川に酒類業者が集まり繁栄していたこと、敗戦国として一時期占領されていたことなど多くのことを再認識する街歩きとなりました。