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◆ 京橋物語4~震災から昭和へ

[隅田の花火] 2019年2月14日 09:00

京橋物語の4回目。前回からの続きです。

前回まで→ 京橋物語 【①】 【②】 【③】

 

大正時代、大きく変貌していった南伝馬町の街並みが写された絵葉書です(大正10(1921)年頃)。絵葉書には「京橋通り」と書かれています。現在は「中央通り」という名前ですが、昔の絵葉書にはその場所毎に「銀座通り」「京橋通り」「日本橋通り」と印刷されました。それぞれの通りの名前が全国各地に写真付で届けられ、東京の発展が視覚的に知れ渡ったのです。

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しかし東京は、大正12(1923)年9月1日の出来事に襲われてしまいます。

 

この日の学校は始業式で、土曜日だったこともあり、子ども達は家路について昼御飯を食べようとしていました。被害の原因は、11時58分の地震の揺れによる建物の倒壊というよりも、そのあとに各地で発生した火災でした。それは南伝馬町も例外ではなく、街が焼かれてしまいます。

 

京橋川の少し上流、紺屋橋辺りから見ています。京橋川の護岸の先に写る大根河岸は焼失しています。しかし、南伝馬町の大きなビルは倒壊していないように見えます。

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京橋に近づいて確認してみます。下の絵葉書は、銀座側から京橋川越しに、橋と南伝馬町を見たものです。京橋は崩落を免れ、中央の背の高い第一相互館、左の大同生命、三十四銀行、右の豊国銀行のビル達は倒壊していません。あのモコモコした「3つのドーム屋根」は残ったのです。

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この関東大震災では、多くの有名な建物が崩れ落ちました。一番背が高いとされていた浅草の凌雲閣(浅草十二階)も被害を受けてしまい、南伝馬町の第一相互館がこの辺りで一番背の高い建物に成り代わります。第一相互館はこの後、復興してゆく東京を、一番高い場所から眺めていくことになるのです。

 

第一相互館から、震災の被害の状況を確認してみます。まず銀座の反対側、日本橋方面です。真下の街は、現在の京橋2丁目、当時の南伝馬町2・3丁目になります。

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瓦礫の山と化していますが、震災の3ヶ月前に竣工した千代田館は倒壊しませんでした。この葉書を作成したのは、千代田生命保険。葉書を各地に送り、本社の建物が倒れていないことを伝えました。それは契約者に安心してもらう目的があったようです。当時はまだラジオが無い時代。各地で情報が錯綜するなか、絵葉書は震災の情報を視覚的に伝えるメディアとして大きく機能したのです。

 

一方の第一相互館。この葉書も第一生命保険が作った絵葉書です。千代田館辺りから撮られた、9月28日の京橋通りになります。

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道路脇には小屋やテントのようなものが建てられ、通りには多くの人が集まっています。混沌としている様子も伺えますが、復興に向けて立ち向かう人びとのパワーも伝わってきます。

 

第一相互館から銀座方面を確認してみます。右下の京橋の袂には瓦礫が積まれているものの、その奥の大根河岸の建物は、仮屋のようなものが建ち始めているのがわかります。

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橋上には、荷馬車、リヤカーのような物が見え、復旧の真っ最中です。通り沿いの右側に建つ大きなビルは、震災を乗り越えた大倉組本館。通りの左側には、のちに開店する松屋の鉄骨が、僅かながら見えています。

 

銀座通りは、明治時代の煉瓦街から発展してきた高級街でした。しかしここでその時代の終わりが告げられ、新たな街へのスタートが切られることになったのです。

 

他のビルの状況を確認してみます。奥に東京駅が見える方角です。家々が建てられて、復興してきている様子も伺えます。

s_hanabi_71-7.jpg左のビルは片倉館、右は真四角窓の星製薬です。片倉館はこの後増築を繰り返して大きくなっていきますが、星製薬のビルは被害を受けてしまったため、この後、建て替えられることになります。真ん中に走る鍛冶橋通りは、震災復興事業による道路の拡幅が行われていきます。

 

この大震災の影響で、11月に行われる予定だった東宮殿下(のちの昭和天皇)の婚儀が延期となっていました。翌年の1月26日にご成婚、6月5日に祝賀となり、京橋には奉祝塔が建てられます。

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南伝馬町から銀座方面を写したものですが、銀座の新しい街並みが、もう形作られてきていることが分かります。この祝賀は、復興してゆく銀座通りに新たな希望と勇気を与えたのではないでしょうか。この5ヶ月後、銀座通りの尾張町には百貨店の松坂屋が開店することになります。

 

一方の南伝馬町。この界隈の大きなビルは倒壊しなかったため、銀座側から見ると震災前からほとんど景色が変わっていないように見えてしまいます。実際に絵葉書を見て、震災前なのか後なのか、時代を特定するのにとても苦労しました。

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手掛かりとなったのは、絵葉書に書かれている文字と、一番左手前に写るバラック風の建物です。この建物が写っていれば、震災後の南伝馬町の風景になります。

 

乗り合いバスが多く写るようになってくるのもこの頃から。大正14(1926)年の風景です。この年は、ラジオ放送が開始された年でもあります。

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震災があったにもかかわらず、大正時代の香りを残した南伝馬町の街並みは、何も起こらなかったかのように『昭和』の時代を迎えます。生まれ変わる為に最善の道を探る銀座の街からすれば、この南伝馬町の街並みは、ノスタルジックでもあり、見守ってくれているようでもあり、異様にも見えたかもしれません。

 

しかしここで突然、南伝馬町の街並みに変化が起こりました。

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左側の大同生命ビルのドーム屋根が、なんと、グィ~ンと伸びたのです。

 

このトンガリ屋根はまるで、大正時代の京橋の親柱の意匠が乗り移ったかのよう。橋を架け替える時にまさか将来を予見して、親柱の意匠をトンガリ風にしたというわけではないでしょう。南伝馬町の街はどちらかと言うと、新しく生まれ変わるというよりも、昔へと回帰しているように感じられてしまいます。

 

いずれにしても、南伝馬町の街並みと京橋の意匠が一体化したのは事実のように思います。

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このように、関東大震災を乗り越えた南伝馬町の街並みは、大正時代の雰囲気をそのまま昭和時代へと継承し、復興してゆく銀座の街を見守り続けていくことになったのです。

つづく。