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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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平成27年住吉神社例祭(本祭)始まる!

[CAM] 2015年7月31日 18:00

 いよいよ始まりました。

 

 写真は17:00前のものです。

 

 それにしても暑い!

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7月27日の佃

[CAM] 2015年7月29日 08:00

 猛暑が続きますが、住吉神社大祭まで1週間を切った佃の街を少し歩いてきました。

 大幟の柱と抱木も組み立てられ、祭り気分もいよいよ盛り上がってきています。

 仮所もところどころに設置されています。

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江戸っ子の二重構造

[CAM] 2015年7月25日 18:00

  

 西山松之助氏は、「江戸ッ子という人たちは、単純な階層による単純な構造をもつ特定の存在ではなく、二重構造をもっているということである」として、

 

「主として化政期以降に出現してきた『おらぁ江戸ッ子だ』と江戸っ子ぶる江戸っ子」(自称江戸っ子)と、そうではなくて「日本橋の魚河岸の大旦那たち、蔵前の札差、木場の材木商の旦那たち、霊岸島や新川界隈の酒問屋とか荷受商人というような、元禄以前ごろから江戸に住みついて、江戸で成長してきた大町人ならびに諸職人たち」(本格的江戸っ子)とに分けられる(西山松之助『江戸ッ子』吉川弘文館、1980年;9)という。

 

 そして、西山氏は、「劣等感の裏返しと考えられるような優越感に独りよがりを楽しんでいたような、"自称江戸ッ子"だけではなく、もっと高度な文化を持った豊かな人たちもいたという、二重構造をもった江戸ッ子の全体像を明確に論じたい」という。(10)

 

この西山氏の『江戸ッ子』という著書は、「長い間の通説を打破した画期的な成果」(竹内誠)とも評されている。

 

 西山氏の「江戸ッ子の二重構造」論は、池田弥三郎氏の以下の論と同旨のものと云ってよいだろう。

 

>江戸の「本町」の商家の旦那衆に加えて、職人階級に属する人々が増加し、江戸っ子を形成していったということになる。だから、金銭についての気質を説くにしても、江戸の本町を中心にした、商人の階級に属する人々を対象にした時には、宵越しの銭は使わないどころか、堂々と貯めた人々の気質をみつけなければならない。講釈や落語の世界に出没する概念の江戸っ子から気質をひき出すことは、危険が多いのである。(『日本橋私記』88)

 

 

江戸っ子(3)

[CAM] 2015年7月22日 18:00

  

1787年の洒落本《通言総籬(つうげんそうまがき)》(山東京伝作)には、〈金の魚虎(しやちほこ)をにらんで,水道の水を産湯に浴て,御膝元に生れ出ては,拝搗(おがみづき)の米を喰て,乳母日傘にて長(ひととなり)(中略),本町の角屋敷をなげて大門を打は,人の心の花にぞありける。江戸っ子の根生骨,万事に渡る日本ばしの真中から〉とある。

 

しかしながら、「金の魚虎をにらんで」と云うが、江戸城の天守閣は1657年に明暦の大火で消失して以降は再建されていないのではないか。

 

 また、江戸の都市計画、下町の大都市化が進むにつれ、飲料水対策上、大規模な土木工事によって水道が実用されていたので、水道の水を産湯に浴」びることは、たしかに江戸自慢の一つにはちがいなかったかもしれないが、水質は必ずしも良いものではなかったし、水量も豊かではなかったようである。

 

    享保元年(1716)、太田南畝(蜀山人)は、在阪中に出した手紙の中で、「江戸では水道(神田上水や玉川上水など)のドブのようなきたない水を飲んでいて、よくあたらないものだと大坂の人はいっていますが、実際、大坂の川の水はきわめて清冷で、お茶にも格別適しています」といっている。(岡本良一『大阪の歴史』71)

 

   上田秋成も、明和3年(1766)刊の『世間妾形気』で、大坂から江戸へ出ようとする者に、このころの江戸の状況を述べて、「水道の泥水さへ呑まれるゝ事にあらず・・・淀河の水の味おわすれなく、江戸の濁水の御しんばうは・・・・」と述べている。(西山松之助『江戸ツ子』168)

 

 以上は、つまりは江戸が飲料水に乏しかったということであろうが、当時の江戸では、水にかぎらず物資が不足しており、結局つまらぬものしか自慢できないのであった。江戸では、上方から下ったものが上等品で、地回りものは「下らぬもの」ということになる。これは「江戸はわきて人心不敵なる所、後日の分別せぬ所ぞかし」(西鶴)であり、さらに、「江戸のものは小児のやうなり、馬鹿者のやうなり、甚だ初心なり」(升小談)という見方に通じることになる。 (宮本又次『関西と関東』416)

 

    ただし、ここでいう「小児のやうな、馬鹿者のやうな、甚だ初心な江戸のもの」とは、主として後になって江戸っ子に含まれてきた人間たちであって、商家に働く旧日本橋区の人々(主として関西の出身者)ではない。そして、江戸の商業の実権はこうした商人が握っていたのであった。(宮本又次『関西と関東』416)

 

 

 

江戸っ子(2)

[CAM] 2015年7月20日 18:00

  

「江戸っ子」については、西山松之助『江戸っ子』(吉川弘文館、1980年)という書が委細を尽くしているが、竹内誠氏の執筆された「平凡社大百科」における説明が簡明でわかりやすい。以下、この竹内説によると、

 

江戸っ子という言葉は,18世紀後半の田沼時代になってはじめて登場してくる。江戸っ子意識とか江戸っ子気質といわれるものも,ほぼこの時期に成立したのであろう。 ・・・・それには二つの契機が考えられる。一つは,この時期は経済的な変動が激しく,江戸町人のなかには金持ちにのしあがる者と,没落して貧乏人になる者との交代が顕著にみられた。 おそらく,この没落しつつある江戸町人の危機意識の拠りどころ=精神的支柱として,江戸っ子意識は成立したといえよう。(竹内誠)

 

>この時期(田沼時代)には,江戸に支店をもつ上方の大商人たちが大いに金をもうけ,江戸経済界を牛耳っていたので,とくに経済的に没落しつつあるような江戸町人にとって,〈上方者〉への反発は大きかった。そこに金ばなれのよい気風のよさを強調する,江戸っ子意識が成立する背景があった。〈江戸っ子は宵越しの銭を持たねえ〉と突っ張るのも,金もうけの上手な上方者に対する経済的劣等感の,裏返し的な強がりとみられる。 (竹内誠)

 

>江戸っ子意識が18世紀後半に成立したもう一つの契機は,重い年貢や小作料の収奪に苦しみ,農村では食べていけなくなった貧農たちが,この時期にいまだかつてないほど大量に江戸へ流入したことである。そのため江戸には,田舎生れが大勢生活するようになった。しかもこれら〈田舎者〉が,江戸者ぶりをひけらかすことに対して,江戸生れどうしの強烈な〈みうち〉意識が芽生え,やがてこの面からも江戸っ子意識の成立が促されたといえよう。(竹内誠)

 

 

 

江戸っ子

[CAM] 2015年7月20日 14:00

 

 よく、「芝で生まれて神田で育った」のが江戸っ子といわれる。しかしながら、「往時、神田堀を境界とし、以南を江戸とし以北を神田とした」のだとすれば、神田は、元来は、江戸という地区には含まれないことになる。

  

 池田弥三郎氏は、以下のように述べる。

 

>歴史的には、江戸っ子とは、もし、将軍のおひざもとの江戸の町の出生者ということになれば、今の中央区の、旧日本橋、京橋区内の人々が、その中心をなしていて、ごく古くは、神田も芝も、江戸ではなかった。もちろん、浅草も江戸の外だ。しかし、時代とともに、芝で生まれて神田で育った者も、江戸っ子となって来たし、川向うの本所深川も、江戸の中にはいってきた。(『日本橋私記』88)  

 

 元来の江戸っ子とは、今の中央区の中の、旧日本橋区、京橋区の主として商家に働く人々のことであったはずであり、最狭義では、「擬宝珠と擬宝珠との間」の地に生まれ育った者になるかもしれない。その後、徐々に、神田、芝、本所深川に生まれ住んだ人間まで含まれるようになってきたのである。

 

 池田弥三郎氏は、次のように述べる。

 

>江戸の「本町」の商家の旦那衆に加えて、職人階級に属する人々が増加し、江戸っ子を形成していったということになる。だから、金銭についての気質を説くにしても、江戸の本町を中心にした、商人の階級に属する人々を対象にした時には、宵越しの銭は使わないどころか、堂々と貯めた人々の気質をみつけなければならない。講釈や落語の世界に出没する概念の江戸っ子から気質をひき出すことは、危険が多いのである。(『日本橋私記』88)