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◆新発見の赤穂浅野家「鉄炮洲上屋敷絵図」 ~江戸東京博物館企画展で公開中~

[巻渕彰/写楽さい] 2009年12月12日 20:32

いま江戸東京博物館で企画展「旗本がみた忠臣蔵-若狭野浅野家三千石の軌跡-」展が開催され、 兵庫県たつの市立龍野歴史文化資料館が所蔵する、播磨国赤穂郡若狭野(わかさの=現・ 兵庫県相生市若狭野)・若狭野浅野家の資料が展示されている。この旗本家は赤穂浅野家の分家で、大石内蔵助とも縁戚関係にあり、赤穂事件後の処理を担い、本家の文書類などを引き継いだそうだ。最近見つかったこれらの資料が見どころである。(写真は会場入口。会期は2月7日まで) 


0913_p_091212asano.jpg 展示品の中で特に注目されるのは、今回新たに発見された、赤穂浅野家の「鉄炮洲上屋敷絵図」だ。現在、明石町の聖路加看護大学脇に「説明板」と「浅野内匠頭邸跡」碑(都指定文化財)があるが、そこに建っていた屋敷の図面である。 


これまで敷地割図はあったが、屋敷地内部の様子は不明だった。それが改易から300年を超えた今、はじめて明かされた。


会場でこの屋敷絵図を目の前にすると、大きさと細かさに見とれてしまう。 


同展の関連フォーラム(12月12日開催)での解説によると、この絵図はヨコ(南北)2.32m×タテ(東西)1.44mの大きさ。台紙に建物などの形の色紙を貼ったもので「貼絵図」という。縮尺は約100分の1と正確で、精緻な描写、ていねいな仕上がりが特徴。作成年代は延宝9年(1681)~元禄14年(1701)、敷地縮小から改易までの間。御殿に住んだのは4代藩主浅野内匠頭長矩と夫人阿久利。敷地坪数は8,794坪(約30,000㎡)で、当初の半分くらいに縮小されたときの絵図のようだ。よって馬場が約50間(90m)と短い。能を演じる「舞台の間」が2つある、など赤穂事件前の様相が読み取れるという。 


この屋敷絵図と、現在の跡地を見比べながら、――西側に堀があり(現築地川公園)、このあたりに屋敷の顔である表御門があったのか。南側(現聖ルカ通り)には、掘割があり、竹簀垣囲いで荷揚げ場や荷置き場だったのか――、いろいろ思いを馳せることができる。そのほかにも関連する資料が展示されていて、興味ある方には見逃せない企画展である。


◇中央区HP「テレビ広報」企画番組で、「元禄赤穂事件-中央区の史跡・ゆかりの地・講談で振り返る-」が、女流講談師の語りと郷土天文館学芸員の解説で掲出されている。こちら>>

 

 

◆中央区 ここに歴史あり<16>~八丁堀に架かった稲荷橋の橋名標~

[巻渕彰/写楽さい] 2009年12月 8日 12:00

稲荷橋」名残の橋名標(写真上)が八丁堀地区と湊地区を結ぶ「鉄砲洲通り」にある。橋名の由来は、鉄砲洲稲荷神社があったことによる。寛永元年(1624)ころ、橋の南詰東側に遷宮し、明治元年(1868)現在地に移転したという。同神社は中央区民文化財・建造物に指定されている。


0913_16_091207_inaribashi.jpg ここは堀川の「八丁堀」が流れていたところだ。亀島川から京橋川結節点までの距離が八丁(約870m)あったので八丁堀とされるが、この稲荷橋は亀島川に注ぎ込む河口の第1橋だった。明治期に八丁堀は「桜川」と名を変えた。この付近は埋め立てられたが、今でも何となく舟入らしい地形が感じ取れる場所である。


この橋は、承応2年(1653)の承応江戸図にも描かれているので、元禄期の赤穂浪士引き揚げの際は、永代橋から高橋を経てここ稲荷橋を渡ったことだろうか。また、現鉄砲洲稲荷の東側あたりには、かの長谷川平蔵が住んでいたともいわれている。


京橋・大鋸町が終焉の地となった歌川広重の「名所江戸百景鉄炮洲稲荷橋湊神社』」(写真下)を見ると安政期の情景がはっきりと映し出されている。手前の亀島川に停泊した大型船のものであろう2本の帆柱の間に稲荷橋が描かれ、左(南)には朱塗りの塀に囲まれた稲荷社がある。水主たちの海上守護の神としても崇敬された。上り下りの船は荷を運ぶ。遠く西方には霊峰富士が望める。八丁堀河口の往時の賑わいが活写されている。


かつて稲荷橋の南岸側は「南八丁堀」と呼ばれた一帯だ。『江戸名所図会』には、「湊稲荷の社」の条で「南北八丁堀の産土神(うぶすな)なり」と著している。南八丁堀にあった「鈴木学校」には明治17年(1884)に鏑木清方が入校し学んだ。


昭和40年代に桜川(旧八丁堀)は次第に埋め立てられ、この稲荷橋をはじめ5つの橋が歴史から消えていった。この「稲荷橋」橋名標は埋め立て直前のものであろうか。この橋の付近は八丁堀にしろ、湊町(湊)、入船町(入船)などの地名・町名はかつて江戸湊の水辺であったこと示している。戦後も回漕店や船具店が軒をならべていたのが思い出される。

 

 
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