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木挽町狩野画塾跡にて

[小江戸板橋] 2013年3月24日 09:00

銀座5丁目13-9~14付近。

中央区教育委員会の示す説明板から、「狩野画塾」は相応の広さがあったことが分かります。

昭和通りとみゆき通りが交わる北東側、サンビルの角に説明板が立っています。

その奥一帯に画塾があったようです。

4月に杮落しが行われる新装歌舞伎座から、南に1ブロックの位置です。

このあたりは、江戸の地名で言えば「木挽町」界隈。

江戸時代を通して脈々と続いた狩野派の画塾とはどんなものだったのでしょう。

 

狩野派と言えば、日本史の教科書にも、金色地に「唐獅子」や「松」などの花木を大胆に描いた障壁画が載っています。

室町幕府の御用絵師だった狩野正信を始祖とします。

室町以降も、信長、秀吉、徳川将軍家といった時の権力者と結びつき、画壇の中心に地歩を固めていました。

 

私の中にある、安土桃山文化の「絢爛豪華」というイメージは、狩野派の絵師たちが創りだした障壁画が強く影響しています。

宮内庁三の丸尚蔵館に収められている、狩野永徳の「唐獅子図屏風」からは、桃山の豪放な輝きを感じます。

 

江戸時代は、狩野四家が奥絵師として権勢をふるいました。

狩野探幽(守信)、尚信、安信の三兄弟が、それぞれ鍛冶橋、木挽町(当初は竹川町)、中橋に幕府からの拝領屋敷を持ち、各狩野家の祖となりました。後に、木挽町から分家した岑信の浜町狩野家と合わせて、狩野四家と称されました。

江戸の古地図を見ると、拝領屋敷は武家地の白で表示されています。

奥絵師は将軍へのお目見え帯刀が許されたといいますから、旗本と同等の格式を持っていました。

その奥絵師を狩野一族が継承していたのですから、勢いのほどが分かります。

 

絵の需要はあったのでしょうか。

江戸城の広間を囲む襖(ふすま)絵だけでも、膨大な量になります。

将軍家の権威を誇示する、格調高い作品群を創り出すとなると、建設工事にも似た組織的な制作体制が求められたはずです。

襖絵、屏風などから、、掛軸、扇子に至るまで、延々と制作と修復作業が続きます。

なるほど、プリンターの無い時代においては、熟練の絵師集団が必要になってくるものです。

そして狩野家は、絵師集団を率い、全体を指揮するプロデューサーでもあったのです。

 

狩野四家の中で最も繁栄を誇ったといわれる木挽町狩野家の画塾は、諸藩のお抱え絵師の子弟が14・5歳で入門し、10年以上の修行期間を過ごしたといいます。

常に50・60名を超える塾生が技を磨き、世に出る機会をじっと待っていました。

多くの塾生を抱え、多岐にわたる画材を蓄え、多様な作品をも収蔵していたのですから、屋敷も広大。

その画塾には、若き絵師たちの野望も渦を巻いていたことでしょう。

 

奥絵師の四家を頂点に、「表絵師」と言われた15家が幕府や寺社の画業に当たりました。

町人の需要に応えていたのは、「町狩野」と呼ばれた絵師たちです。

こうした絵師たちの活動が、江戸文化の基礎をしっかりと築いていったのです。

 

狩野派の学習方法は、お手本をひたすら模写することだったといいます。

集団による組織的な制作を行う上で、個性を出さないことが、ある意味、必要な要素でした。

しかし、庶民感覚からすれば、狩野派は形式的で停滞した画業として映り、自由闊達に個性を主張する浮世絵の方に拍手喝采するのです。

今もこの感覚は続いており、江戸期の狩野派の作品はあまり人気がないですよね。

しかしながら、室町中期から江戸末期に至る400年間、画壇の中心にあった狩野派は、日本文化へ大きな影響を与え続けた存在であることに変わりはありません。

 

狩野四家の拝領屋敷は、江戸城への登城に便利なように、みんな中央区内にありますよ。

 

 

 

 
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