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岸田劉生 生まれも育ちも煉瓦銀座の天才画家

[与太朗] 2010年10月28日 13:30

IMG_0344.JPG 中央区は多くの文化人・芸術家を生んでいますが、銀座通り沿いで生まれ育った人となると少ないでしょう。何点もの麗子像で有名な岸田劉生は彼の回想文『新古細句銀座通(しんこざいくれんがのみちすじ)』によれば、明治24年(1891年)6月23日、京橋区銀座二丁目11番地(現在の銀座2-7メルサの辺り)で生まれ、「鉄道馬車の鈴の音を聞きながら青年時代までそこで」育ちました。

IMG_0346.JPG 父は明治の先覚者の一人、岸田吟香。生家は目薬「精錡水」(吟香がヘボン博士から製法を伝授されたもの)で名高い楽善堂。店と母屋と工場があり、隣の勧工場も岸田の家作、銀座通りをまたいで倉庫もありました。岸田麗子の『父 岸田劉生』によれば、店は間口八間、半分に区切って向かって右が「精錡水」や「薬シャボン」を売る薬房、左が中国の筆墨硯紙その他文房具類や書籍を売る書房でした。(楽善堂の「鐡飴煎」という薬の広告看板が郷土天文館に残されていますね。)当時としてはハイカラな家で、銀座通りに面した二階には洋風のバルコニーがあり、吟香はよくここで体操をしていたそうです。(『新古細句銀座通』には劉生画の生家図、隣の勧工場などの挿画があって楽しい。)

 子供のころの劉生はかなりのいたずら坊主で、銀座の舗道に糝粉細工で作った血まみれの小指を置いて大騒ぎを起こしたり、女の生首を作って女中の腰を抜かせたりしました。また、竹川町(現銀座七丁目)の勧工場にある西洋画の常設展覧所に通い詰め、木戸御免にしてもらうなど、将来の大画家にふさわしいエピソードも残しています。

IMG_0342.JPG 劉生は多くの麗子像をはじめとする肖像画、自画像や代々木の切通し坂の絵が広く知られています(「麗子微笑」「切通しの写生」は国の重要文化財)が、中央区内を描いた絵としては、銀座風景や築地居留地風景の油彩が初期に何点か描かれています。

【写真上】 生家辺の現在

【写真中】 生家跡近くにある銀座発祥の地碑

【写真下】 京橋跡近くの煉瓦銀座の碑

   ( ちなみに、京橋架け替えの際、父吟香と天狗                                        煙草の岩谷松平が渡り初めをしたことをよくおぼえていると劉生は書いています。明治34年の鉄橋の時でしょう。)

 

 
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