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築地市場の歴史的変遷 1の1(河岸の資産価値は、過去に2億円)

[kimitaku] 2012年1月21日 08:30

築地市場には、多くの魚介類を扱う魚類部と、青果類を扱う青果部とがあります。
どちらも早朝から営業し、多くの客で賑わっています。

  sakanabu.jpg seikabu.jpg青果部は市場内の新大橋通り沿いに、魚類部は隅田川沿いにそれぞれ位置しています。

魚類部に比べれば、青果部は大声の飛び交うことなく、静かに営業されています。
魚類部は、世界最大の取り扱い規模を誇っています。

 

 いま 築地市場は移転問題で、いろいろと話題にあがっています。昨年末からは、本格的に移転交渉も始まったようです。11月には都側の桟橋調査でも、いろいろあったとのこと。まだ、先は大変かも知れません。

TUKIJISANNBASI.png ところで、市場では、魚介類を扱う場所を河岸と言います。河岸の権利はバブル期には2億円と評価されていました。
これは金融機関が、この権利を抵当して2億円を融資する価値があると査定した額なのです。いまはそれほどの価値は無く、数百万円が相場ではないか(関係者の話)と言われています。

 

 ここで、市場の歴史を、江戸時代からひも解いてみたいと思います。

 江戸城は中世、江戸氏の館跡に長禄元年(1457年)太田道灌が築城しました。

当時は、人口も3000人に満たぬようで、天正18年(1590年)徳川家康移封までは、市場は、芝浜:今の港区芝神明(立川談志の落語:芝浜で有名)、それに、皇居平川門の前(いまの毎日新聞社前)に四の日に市の立つ四日市場(主に干物類)がありました。

  HIRAKAWAMON.jpg 家康は、入城後、江戸振興策の一貫として、神田山を崩し、その土砂で日比谷入江を埋め立て、日本橋一帯を造成しました。 その際に北から南に流れる平川の流れを東に変え、それが日本橋川となりました。
日本橋が架けられてのち、日本橋川の両岸に市が立ち、各方面から、魚介類、青果、またあらゆる物資がもたらされ、江戸の町を潤しました。
また、青果類は、関東一円、特に川越方面から、荒川を下り、魚介類は、江戸湾、佃島、芝や、遠く行徳方面から船で運ばれ、隅田川を上り、日本橋川に入り、河岸に並びました。


次回に続きます。

 

 

 
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