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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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寒い季節も区内散策

[下町トム] 2010年1月28日 08:30

2009湊橋.jpg

寒い季節ですが、こんなときも中央区を歩けば様々な景色に出遭う事ができます。

今日は新川から霊岸島を抜けて湊橋を渡ってみました。茅場町の近くのこのあたりは掘割が多く、江戸時代の水運の名残りを感じさせてくれます。

湊橋の向こうには〝豊海橋〟が望めます。関東大震災で落橋し、昭和初期に再建されたそうです。

江戸時代にはこのあたりに〔御船手番所〕があり、平岩弓枝の小説「御宿かわせみ」の舞台としても知られています。

そんなかつての風景を思い浮かべながら散策するのも楽しいものです。note


 

 

「大好き・中央区!」 を寄り道しながら楽しく歩きませんか?

[銀造] 2010年1月25日 18:00

 もうすぐ東京マラソンがありますね。
コースには、銀座から日本橋経由浅草、折り返して銀座4丁目から歌舞伎座、築地本願寺、佃、月島という楽しい場所がコースに含まれていますね。

 「走りたいけど、走れない」、「歩きたいけど、一度には」、「歩くなら、楽しく、名所旧跡も訪ねながら・・・」という方に朗報。

無料のガイドがあります!
 
2月20日が銀座4丁目から浅草まで。
2月27日が銀座4丁目から東京ビッグサイトまで。
 銀造もご案内します(但し、本名で)
 
詳しくは、次のURLをご覧下さい。
NPO法人東京シティガイドクラブ
  

run 速歩きでなく、おしゃべりをしながらcoldsweats01、 ちょっと寄り道cake

日本橋の山本さん、月島の緑川さん、あづまやさん、お邪魔します。

 

3月は「龍馬が歩いた中央区」をご案内したいと思います。

 

 

 

 

東日本橋稲荷巡り

[北遊人] 2010年1月19日 09:00

 東日本橋にある寺社といえば薬研掘不動院が最も有名である。しかし神社の方は日本橋七福神巡りの陰に隠れて忘れられかけている。

 今日はそんなマイナーなお稲荷さんを廻ってみる。

先ず両国橋西、産業会館通り入り口の左側路地にひっそり佇んでいる"川上稲荷神社"から。

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 創建 寛永五年戊辰七月 (1628年である)

旧幕府の乗船場にありしが、明治2年4月神域を此の地に移し崇敬す。明治6年1月神田神社の兼務社となり、昭和20年戦禍により焼け、昭和63年360年祭記念として再建す、と説明書きがある。

 

 次に薬研堀不動院裏手通りの"矢ノ庫稲荷"へ参ります。

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 縁起によると

正保2年(1645年)幕府が米蔵を此の近くに建て、谷野蔵・矢之蔵と呼ばれていた。その庭中に御蔵の鎮神として三社を合殿した三社稲荷神社をまつった。中央に谷野蔵稲荷、左に福富稲荷、右に新左衛門稲荷から成り立っていた。元禄11年(1698年)お蔵を鉄砲洲に移転と共にこの三社稲荷も一緒に移されたが、明治6年(1873年)に新左衛門稲荷が、昭和7年(1932年)には福富稲荷が"初音森神社"に遷座合祀され、谷野蔵稲荷は、幾多の変遷場所を変え現存地に至った。名称もいつの頃からか"矢ノ庫稲荷"となった。

 

 では"矢ノ庫稲荷"縁起にある"初音森神社"へ参ります。                          浅草橋南、日本橋両国郵便局並びです。

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由緒によると

創祠は元弘年間(1330年頃)、当時奥州街道沿いに初音の里と呼ばれていた。

天文20年(1551年)社前に馬場が出来初音の馬場と呼ばれた。

江戸時代に入り浅草見附門建設にあたり境内地の半分が削られ、明暦の大火(1657年)後関東郡代屋敷となり、墨田区へ遷宮。昭和23年旧蹟の一部の地に神社建立、、、。

 この神社では明暦の大火の惨状が記されている「むさしあぶみ」の現代語訳本が手に入ります。

 また入り口脇に昭和36年土中より発見された"浅草御門の門柱"が見られます。

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 最後は東日本橋3丁目、清洲橋通り近くに"玉尾稲荷神社"がビルの谷間にあります。

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 以上、東日本橋町内で四つのお稲荷さんに巡り会えました。

 

 

◆中央区 ここに歴史あり<17> ~ヤン・ヨーステン拝領地の八代洲と八重洲~

[巻渕彰/写楽さい] 2010年1月15日 12:00

慶長5年(1600)、1隻のオランダ船が豊後国臼杵(現大分県)に漂着した。その船に乗っていたヤン・ヨーステンウイリアム・アダムス(三浦按針)は幕府の外交顧問として重用された。いま、中央区にゆかりの跡が残っているのはご承知のとおりである。


0913_17_100115yaesu.jpg船の名は「リーフデ号」、その彫刻モニュメント(写真4)が丸ビル南側に飾られている。これは昭和55年(1980)、オランダ王国の首相が来日した際に同王国政府から贈られたもの。帆いっぱいの風を受け、荒波を航海する勇躍の姿を表現している。「リーフデ」とは"愛"を意味する。 


ヤン・ヨーステンが屋敷地を拝領したのは、その名から命名されたという「八代洲河岸(やよすかし)」であった。のちの寛政9年(1797)には歌川広重が定火消組同心・安藤家で生まれたところ。現在の場所でいえば、皇居前の日比谷通り、馬場先濠に面した、丸ビルと同じ 千代田区丸の内二丁目あたりである。 


明治5年(1872)に馬場先門から鍛冶橋にかけての一帯が八重洲町一丁目、同二丁目と呼ばれた〔注:東京市15区成立は明治11年(1878)〕。明治17年(1884)、外堀に「八重洲橋」が架橋。現在の東京駅八重洲口前である。昭和4年(1929)に「八重洲町」が麹町区丸ノ内二丁目と改称され、現 千代田区内から八重洲の町名が消えた。


震災復興事業では東京駅に東口(八重洲口)を建設し、当時の京橋区と日本橋区の区境の道を拡幅、延伸した幹線7号街路が「八重洲通り」と名付けられた。このころから、本来の「八代洲河岸」とは隔てた場所であったが、東京駅の東側、つまり現中央区側が「八重洲」と総称されるようになったのであろうか。 


それから25年後、戦後の昭和29年(1954)になって、こんどは中央区に町名の「八重洲」が一丁目から六丁目まで復活した。と同時に呉服町、槙町など旧町名がなくなった。東京駅東側の外堀が埋め立てられ、八重洲口も整備されつつあるこの時期に、大丸東京店も開店した。


昭和48年(1973)には八重洲一・二・三丁目が統合され八重洲一丁目に、昭和53年(1978)に八重洲四・五・六丁目が八重洲二丁目となって現在に至っている。ちなみに、現八重洲一丁目は旧日本橋区域だが、唯一「日本橋」の冠を付けていない町名であり、八重洲二丁目は旧京橋区域である。


八代洲から八重洲へ――、幾多の変遷を経て、いまも歴史を刻んでいる。 


現在、 中央区内にある2人の碑などは、「ヤン・ヨーステン記念碑」(写真1)が八重洲通り中央分離帯に、「ヤン・ヨーステン像」(写真2)が八重洲地下街に、「三浦按針屋敷跡碑」(写真3)は旧按針町があった日本橋室町に建っている。

 

 

第55回 寒中水浴大会(鐵砲洲稲荷神社)

[ゆりかもめ] 2010年1月12日 12:00

1月10日(日) 鐵砲洲稲荷神社で寒中水浴大会が行われました。

新春に神前で冷水を浴びて心身を清め、禊祓(みそぎはらえ)と無病息災を祈願する神事です。

江戸時代では寒禊(かんみそぎ)、寒垢離(かんごり)と呼ばれていましたが戦後に「寒中水浴大会」と現代語に置き換えて復活しました。

 

男性は越中褌、女性は白の着物を着て氷水に入ります。

2010年で 55回目を迎える伝統の祭礼です。

 

 9時半より神楽殿では 笛・太鼓・鼓による 鐵砲洲稲荷囃子が 奉納演奏されていました。

 

      鉄砲洲いなり笛太鼓笙.JPG 

 

 氷柱が トラックで運びこまれました。

空はよく晴れ渡り 絶好のコンディションです。

11時より宮司さんの御話の後、鳥船(とりふね)などの準備運動を行い、公道に出て神社1周のランニングの後、道彦さんの指導で和歌を何度か歌い、掛け声を掛け、声を出す事によって 呼吸を整え 霊魂の浄化を促しました。

この日は一般公募も含め 80名の方が参加し、中には75歳位の方もいらっしゃいました。

女性は7人程でした。       

北海道、宮城、福島、石川、静岡、福岡等、飛行機での参加者も あったそうです。

       

 鳥船行事(とりふねぎょうじ)・・・船を漕ぐ動作が中心となります。

 振魂(ふりたま)・・・・・・・・・・・・・心と霊魂の浄化統一する作法です。

 雄健行事(おたけびぎょうじ)・・・下腹に力を入れて雄叫びを上げます。 

               道彦さんが全体の纏め役で 身体の動かし方や 和歌を先導します。

 雄詰行事(おころびぎょうじ)・・・大地の霊気を受ける作法です。

                     二本の指で邪気を切る動作。

  気吹行事(いぶきぎょうじ)・・・・・深呼吸のことです。

       

 

      鉄砲洲 入水前の氷柱.JPG

 

寒禊(かんみそぎ)

 「エイッ!」と剣印で水を切った後、氷水に身を投じます。

 「祓戸大神(はらえどのおおかみ)、はらえどのおおかみ・・・・・」と何度も唱え 振魂(ふりたま)という動作を行いながら 心身を祓い清めます。

水槽から上がっているグループは 道彦さんの指導で 鳥船行事その他を行います。(道彦とは この儀式を先導して執り行う方です)

 

      鉄砲洲 冷水修業 大勢.JPG

 この神聖な行事の最中に 事故は今まで一度も おきていないそうです。

又、これに参加する事により 風邪は絶対にひかないとの事です。

お正月や 年の初めを意識する事が少なくなった現代では、この様な事に参加する事に大変な意義を感じました。 

 

     鉄砲洲 冷水修業.JPG

 氷水につかって居る人は 振魂(ふりたま)を行っています。

今年は 80人が 2組に分かれ 交互に3度水に入りました。

何度はいるか?とか、どの位 氷水に入っているかは、全て その時の道彦さんの判断で決められます。

         鉄砲洲 氷とニコニコさん.JPG 

行事がすっかり終った後 氷を抱いて見せる豪傑さんがいました。

 

・・・・・感謝・・・・・・

この記事を取材するにあたり 鉄砲洲稲荷神社「弥生会幹事長」の石川辰夫様に大変に御世話になりました。

突然に お訪ね致したにも拘らず 御家族で応接間に迎えて下さり親切に ご説明下さいました。

伝統文化を守り維持継承しておられる石川様はじめ 弥生会の皆様に感謝するとともに 江戸っ子の優しさと 懐の深さに触れた思いでした。

 

 

 

松飾り。中央区名店の竹飾り (第二弾)

[銀造] 2010年1月 8日 12:00

 お正月の松飾りも、もうそろそろお片づけ。 その前に、第二弾で取材した名所名店の

松というか竹の切り方をチェック。

 聖路加タワーの新阪急ホテルの松飾り。江戸、武家風にスッパリ切っていますね。

「郷に入れば郷に従え」というところでしょうか?

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 同じ聖路加タワーの入り口。切り方は同じの様でも左右の並べ方が違うかな。

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 日本で最初に饅頭を作った「塩瀬総本家」の松飾り。竹の切り方は「寸胴型」

奥には1mほどの大きな羽子板。 「新春の寿ぎ」が伝わってきます。fuji

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 築地の宮川。本店という呼び方で良いのですね。この店という漢字は当用漢字では出てこない。

ここの竹は、「笑い口」で、しかも先端は切り口を削っています。安全安心ですね。

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 料亭「つきじ田村」 こちらは、関西風に「寸胴型」の切り口。

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 築地本願寺角の蕎麦屋「更生庵」。篠でお飾り。

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 しんがりは、築地中央市場向かいの、庶民的な値段で河豚を提供してくれ、ランチも

お手ごろな「天竹」。 こちらは、年中看板に竹飾り。お正月には松飾りはしないのかな。

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 では、今年も皆様が竹の様に、アクセントのある楽しい一年となります事を

祈念します。 

 次回は、東京マラソンコースを寄り道しながら楽しくご一緒に歩きませんかrun