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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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べったら漬け、江戸文化の華

[CAM] 2015年10月29日 16:00

 

   本日(2015年10月27日)の日経夕刊に下記の記事が出ています。

 

>べったら漬け、江戸文化の華――甘くて色白、粋な味わい(食ナビ)
2015/10/27  日本経済新聞 夕刊  7ページ  2053文字

 

 

この中で、

 

「他の漬物と同様、チルド流通の整備でべったら漬けは全国へ広まった。現在、業界トップといわれるのが東京にいたか屋(東京・中央)。戦後に本格生産を始め、べったら市の復興にも尽力したが、東京の漬物であることをどうアピールするかに苦心した。工場は埼玉県に移し、原料も全国から調達するため地元産を売り物にできないためだ。 そこで全国観光土産品公正取引協議会の認定を受け、中央区観光協会から推奨名産品の指定を受けるなど東京名産にこだわってきた。」

 

 

 と述べられ、「中央区観光協会の推奨名産品」という制度も紹介されています。

  

 

 

中央区 まるごとミュージアム2015

[之乎者也] 2015年10月28日 09:00

2015年も残すところあと2か月、11月といえば文化の日(祝日)を始めとして学校の文化祭等のイベントが目白押しの季節ですが、中央区でも今週末の日曜日(11月1日)、年に1度の中央区まるごとミュージアムが開かれます。既に区内の掲示板にポスターの案内が出ています。marugotoM1.jpg

まるごとミュージアムは今年で8回目の開催ですが、区内各地で開かれる公認イベントを中心に、その名の通り中央区の持つさまざまな魅力を楽しめる博物館のような1日です。江戸開府以来400年の歴史・伝統を伝えるイベントはもちろんのこと、現代・未来型のイベント、アート(展示、パフォーマンス)、環境活動、バリアフリーなど東京、そして日本をリードする中央区ならではのテーマの催しが目白押しです(イベントの詳細は、文末「まるごとミュージアムホームページ」の情報をご参照下さい)。marugotoM3.jpg

(昨年の「中央区民文化祭」ロビーコンサートの様子。築地社会教育会館会場)

 

区内全域の広い地域が会場となりますが、当日は通常の公共交通機関に加え、無料の巡回バス(左廻り、右廻り)、船ルート(4ルート、周遊ルートも含む)、江戸バス(当日は無料!)があるので移動も心配ありません。スタンプラリーに参加してイベント会場でスタンプを3つ以上集めてアンケート記入をすれば、景品が当たる抽選会にも参加できます。

 

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(昨年の巡回バス乗り場(築地)の様子。オレンジ色のウェアを着たスタッフがご案内します)

 

最後に一つお知らせです。巡回バスは都バスなどの公共交通機関があまり通らないルートを廻りますので、車窓から新しい中央区を発見するチャンスです。さらにはバスには中央区観光協会特派員が同乗してご案内しますので、とっておきの観光情報を聞くことができるかも。。。

お楽しみに!

 

【中央区まるごとミュージアム】

日時:11月1日(日)午前9:00~午後5:00

場所:区内全域。詳しくはHPをご覧下さい。

まるごとミュージアムホームページ: http://marugoto-chuo.jimdo.com/

 

 

海水館跡

[CAM] 2015年10月24日 16:00

 『ものしり百科』では、109頁と146頁に説明があります。なお、147頁にある写真の掲示板は新しくなっていました(英文と絵画入り)。

 

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ここは明治29年に完成した新佃島埋立地の一部で、当時は房総の山々も雲霞のうちに望むことのできた閑静な景勝地でした。
 ここに坪井半蔵氏が建てた下宿旅館「海水館」は、文士、詩人、画家など多くの文化人が下宿しました。
 明治40年、島崎藤村が『春』を、翌年には藤村の紹介で、小山内薫が『大川端』を執筆したのを始めとして、大正2~3年頃には、佐藤惣之助、木村荘八、竹久夢二、三木露風、日夏耿之助、松崎天民、横山健堂等がここに寄宿し、文士たちの集会もしばしば行われたといいます。
 この碑は昭和43年、藤村の母校である明治学院大学の藤村研究部によって建てられたもので、裏には『春』の執筆由来の記が記されています。

 

 藤村は、『春』執筆の準備から連載を終えるまでの間、明治40年(1907)9月から約1年を過ごしたようです。この「春」は夏目漱石の「坑夫」の後をうけて明治41年4月7日から朝日新聞に135回掲載されました。

 

 執筆中、藤村はこの海水館の様子などを知人に「今年中に半分を―出来得べくんば三分の二位を書き置く必要より ・・・ 小生は閑静なる境地に身を置くべく考え ・・・ 昨日よりこの海岸にある宿へ引移り申候。この宿は友人にも告げず ・・・ 朝日新聞執筆のことも、未だ世上には発表いたさず候。二階の西隅にある一室にて、寺院の如き閑静と、旅舎の便利とを兼ね候」と伝えています。

 

 現在の海水館跡近くから豊洲方面を臨む(20151018日撮影)

 

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東京駅~日本橋 "昭和レトロめぐり"

[サム] 2015年10月24日 12:00

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 10月10日(土)~11月3日(火・祝)、東京駅~日本橋エリアでは、「東京駅~日本橋 "昭和レトロめぐり"」が開催中。

東京ステーションシティ運営協議会、大丸東京店、日本橋高島屋、日本橋三越本店、三井不動産、八重洲地下街の6者共同のイベント。

昨年は、東京駅開業100周年を記念した「あるこう!東京駅~日本橋 "百年散歩"」が開催されましたが、2015年は仮に昭和の元号に直すと "90年" の節目に当たり、界隈は歴史が息づき "昭和" にまつわるスポットも数多く点在することから、"昭和" をテーマに、過去と現在が交錯する東京駅~日本橋エリアを散策し、街の魅力を再発見して貰おうとの趣旨で企画されたもの。

昭和に建てられた建築など、各々エピソードが添えられた同エリアの「散策マップ」*を見ながら各ポイントを巡ると、かつて鉄道の切符として広く使われていた厚紙の乗車券の「記念レプリカ硬券」*が貰えます。

 *「散策マップ」「記念レプリカ硬券」配布場所

      東京駅八重洲口グランルーフ2階特設会場、大丸東京店1階案内所、

      日本橋高島屋1階正面案内所、日本橋三越本店1階ライオン口案内所、

      コレド室町1地下1階日本橋案内所、八重洲地下街案内所 

元駅員による入鋏実演イベントも期日限定で開催。

東京駅八重洲口グランルーフ2階デッキ上には昭和レトロな特設会場が出現。

昔懐かしい駄菓子屋、畳敷きに卓袱台が設えられ、6種の硬券が収納できるオリジナル台紙はこちらで手に入ります。フォトスポットも設置され、懐かしい改札と一緒に写真が撮れます。

期間中、期日限定(10月10日・12日・17日・18日・24日・31日、11月1日・3日、11:00~19:00)にて、都電全盛期の昭和30年代の "黄色に赤帯" の形式6000形、車号6012をモチーフにしたデザインの "都電ラッピングバス" がエリア内を巡回。

実際に都電が走っていた中央通りに懐かしい風景が甦ります。

「散策マップ」に掲載の昭和当時の写真と見比べ、街の景観の移り変わりに思いを馳せ、"昭和レトロ" に暫し浸ってみるのも一興です。

 

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新富座跡

[CAM] 2015年10月23日 18:00

「新富座跡」については、『ものしり百科』 61頁で述べられています。

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 新富座は万治3年(1660)木挽町5丁目(現在の銀座6丁目、昭和通り西側)に創建された「森田座」を引き継ぐ歌舞伎の劇場でした。
 森田座は代々森田勘弥(かんや)が座元で、天保14年(1843)浅草猿若町(現在の台東区浅草)に移り、安政5年(1858)に「守田座」と改めました。明治五年(1872)には、守田座十二代勘弥が新富町に移転進出し、同8年(1875)に「新富座」と改称しました。
新富座は市川団十郎・尾上菊五郎・市川左団次などの名優を集めて積極的な興行を行いました。劇場は近代的な様式を取り入れた大規模な建物で「東京第一の劇場」と称され、周辺には歌舞伎関係者が多く居住し、一帯は芝居町となっていました。
 明治22年(1889)に歌舞伎座が開場するまで芝居興行の中心的存在でしたが、大正12年(1923)の関東大震災で焼失しました。
 明治期の錦絵には海鼠壁(なまこかべ)の上に絵看板を並べた大劇場の様子が見え、往時の繁栄ぶりがうかがえます。

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(wikipediaからコピー、下の写真は明治15-16年頃。いずれもpublic domain 確認済)

 

 その母が大の芝居好きであった荷風も、しばしば訪れています。例えば、

 

大正7年10月9日、「三十間堀春日にて昼餉をなし夕刻新富座楽屋に松莚子を訪ふ」

大正7年10月13日、「新富町の妓両三人を携えて新富座を見る」

大正8年7月7日、「夜新富座に往き岡本綺堂君作雨夜の曲を観る」

大正9年3月23日、「新富座を立見して家に帰る」

 

 また、随筆「監獄署の裏」(明治42年)では、次のように書いています。

 

「(私の母は)江戸の生れで大の芝居好き、・・・・私は忘れません。母に連れられ、乳母に抱かれ、久松座、新富座、千歳座などの桟敷で、鰻飯の重詰を物珍しく食べた事、・・・」 (4-54)

 

 久松座、千歳座は、明治座の旧称、明治26年に明治座に改称しています(ものしり百科;91頁)。

 

 

谷崎潤一郎 「瘋癲老人日記」

[CAM] 2015年10月23日 14:00

 

 谷崎潤一郎は「瘋癲老人日記」の中で、卯木督助の日記の一節として、次のように書いている。(原文カタカナをかなに変換)

 

・・・今の東京をこんな浅ましい乱脈な都会にしたのは誰の所業だ、みんな田舎者の、ぽっと出の、百姓上りの、昔の東京の好さを知らない政治家と称する人間共のしたことではないか。日本橋や、鎧橋や、築地橋や、柳橋の、あの綺麗だった河を、お歯黒溝のやうにしちまったのはみんな奴等ではないか。隅田川に白魚が泳いでた時代のあることを知らない奴等の仕種ではないか。死んでしまえば何処に埋められたって構はないやうなものだけれども、今の東京のやうな不愉快な、自分に何の因縁もなくなってしまつた土地に埋められるのはいやだ。・・・・・・さう云ふ点では何と云っても京都が一番安全である。・・・・兎に角京都に埋めて貰へば東京の人も始終遊びに来る。「あ、こゝにあの爺さんの墓があつたつけな」と、通りすがりに立ち寄つて線香の一本も手向けてくれる。(19-139

 

 これは、言うまでもなく谷崎自身の心情だろうが、谷崎は昭和401965)年730日、79歳で亡くなり、京都市左京区鹿ヶ谷法然院に葬られている。

 

 「瘋癲老人日記」は昭和36年月号から昭和375月号まで『中央公論』誌に発表されたものだから、まだ日本橋は高速道路で覆われてはいなかったはずである。上記では、川の水質汚染を嘆いてはいるものの、景観破壊については述べていない。

 

 昭和8年の日本橋(中央区観光協会・移りゆく町の姿)

 

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昭和32年の江戸川から日本橋(中央区観光協会・移りゆく町の姿) 

 

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 現在の日本橋と日本橋川(2015年10月18日撮影)

 

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