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<日本橋弁松総本店>樋口社長の「日本橋の古い絵葉書」②  ~ 日本橋弁松総本店 ~

[rosemary sea] 2019年3月13日 14:00

『ギフト、そして自分も楽しむ』をポジショニングして取材します、rosemary sea です。」

前々回「歴史編」、前回「絵葉書編①」でも申し上げましたが、日本橋弁松総本店 樋口社長は、東都のれん会さんのホームページ内「大旦那のちょっといい話」のコーナーで『<日本橋弁松総本店>樋口純一さんの「日本橋絵葉書びっくり展覧会」』を連載されています。

現在第5回まで載っています。全10~12回の連載となる予定、と伺いました。

樋口社長は個人的に「日本橋の古い絵葉書」を蒐集しておられ、それを厳選してご紹介しています。

ぜひご覧になってください。

東都のれん会さんのホームページはこちら

⇒  http://www.norenkai.net/

樋口社長にお許しをいただき、このブログでも「日本橋の古い絵葉書」をご紹介させていただきます。

今回はその第2回です。

日本橋という橋の古い絵葉書を通して、古き良き日本橋の風景に浸ってください。

それでは・・・

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日本橋魚河岸の全景です。川には小舟がいっぱいです。右の橋は江戸橋です。

映っていませんが、日本橋は左手前でしょうか。

江戸開府以来、日本橋には魚河岸がありました。

「江戸の台所」と云われた日本橋の魚河岸でしたが、関東大震災消失してしまいました。

魚河岸は築地に移り、そして今は豊洲へと・・・。

320年間賑わった日本橋の魚河岸、時は移ろうものですね。

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江戸時代の橋です。橋の幅も狭いですね。

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今の石橋の前はこのような橋。

当然のことですが、昔の日本橋も木の欄干の橋でした。

麒麟の像も、獅子の像も、ありませんね。

橋のたもとの風景も、今とは大違い。馬車鉄道も走っていました。

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祝祭の日本橋です。今では考えられない風景ですね。

先ほどの一代前の日本橋に建造された、日露戦争の凱旋門です。

明治37年から38年、張りぼての巨大な建造物、このようなものよく建てましたね。

製作日数約1週間、だそうです。

日本橋以外にも、京橋・上野・浅草など、趣向を凝らした凱旋門が建ったそうです。

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その凱旋門、夜はライトアップです。

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こちらは大正4年11月の大正天皇即位の奉祝門

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東宮殿下(後の昭和天皇)御成年式。大正8年5月です。

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昭和3年11月、昭和天皇即位記念の奉祝塔です。

脇に立つ人物で比較すると、10人を縦に並べたくらいの高さでしょうか。

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日本橋の夜景です。幻想的ですね。

このような日本橋、歩いてみたいですね。

・・・最後に、いろいろな日本橋の風景を並べてみました。

   クリック拡大してご覧ください。

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・・・樋口社長の蒐集する日本橋絵葉書の展覧会、ご堪能いただけましたでしょうか。

   次回は樋口社長インタビューです。

日本橋 弁松総本店

日本橋室町1-10-7

東京メトロ半蔵門線・銀座線 三越前駅 より徒歩3分

03-3279-2361

営業時間  平日 9:30~15:00

      土日祝 9:30~12:30

電話受付  平日 8:30~16:00

      土日祝 8:30~13:00

日本橋弁松総本店さんのホームページはこちら

⇒ http://www.benmatsu.com/

 

 

銀座三河屋 健康志向の調味料 煎酒

[銀造] 2019年3月13日 09:00

「銀座 三河屋」さんは、銀座八丁目の金春通りにあります。

今日は、福島県の友人に贈り物をするため、銀座に買い物に来ました。

「銀座 三河屋」さんの煎酒は、江戸時代からの健康に良い調味料として、皇居外苑のレストランとか、有名な料亭でも使用されています。 妻は、TV放映を見て、送りたいと思ったとのことです。

 「甘い物は控え、辛すぎる物も控え、健康に良い物を選びましょう」ということで、健康志向の食品か調味料ということで、品物を選定しました。 煎酒、煮ぬき汁の詰め合わせセットを購入しました。 地方発送もしてくれますし、他の商品も一緒に詰め込んで送ってもらえるとの事です。

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 自家用にも購入しました。 刺身にも良いとの事で、料理の幅とが広がります 。

銀座三河屋さんの詳細は、こちらをご覧ください。http://www.ginza-mikawaya.jp/

 

 

<日本橋弁松総本店>樋口社長の「日本橋の古い絵葉書」①  ~ 日本橋弁松総本店 ~

[rosemary sea] 2019年3月11日 18:00

『ギフト、そして自分も楽しむ』をして取材します、rosemary sea です。

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IMG_20190130_115238 (2)a.jpg前回「歴史編」でも申し上げましたが、日本橋弁松総本店 樋口社長は、東都のれん会さんのホームページ内「大旦那のちょっといい話」のコーナーで『<日本橋弁松総本店>樋口純一さんの「日本橋絵葉書びっくり展覧会」』を連載されています。

現在第5回まで載っています。全10~12回の連載となる予定、と伺いました。

樋口社長は個人的に「日本橋の古い絵葉書」を蒐集しておられ、それを厳選してご紹介しています。

ぜひご覧になってください。

東都のれん会さんのホームページはこちら

⇒  http://www.norenkai.net/

樋口社長にお許しをいただき、このブログでも「日本橋の古い絵葉書」をご紹介させていただきます。

今回はその第1回です。

それでは・・・

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最初にご覧いただくのは明治44年(1911年)4月3日、現在の日本橋が開橋された際の絵葉書です。

日本橋の風景の中で、とりわけ多いのがこのシリーズだそうです。

石橋は今のものと同じものですが、新しいですから橋の白さが際立っています。

首都高速道路はまだ橋の上に乗っていません。

首都高が川の上にできたのは前回東京オリンピック前のこと。眺めが良いですね。

麒麟の像も獅子の像も、もちろん今ご覧いただけるものと同じものです。

 

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麒麟・獅子どちらも妻木頼黄(つまき よりなか)さんの作。荘厳ですね。

特派員の大先輩、Sさんからいただいた情報によれば、橋の総工費は52万3692円、もちろん当時のお金でです。

そしてその約1割、5万円強が、この像にかかった費用、とのこと。

東京市の繁栄を表す4体の麒麟の像、同じく東京市の守護を表す4体の獅子の像、立派です。

獅子が片前足をかけていますのは旧東京市のマーク。

・・・それにしてもお金のかけ方が、とてもアンバランスに思えるのは私だけでしょうか?

  

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開通式のもようです。

dSKMBT_C22414021319460_0013.jpg午後1時からの式典だったようです。しかも当日は雨。小雨ですが傘が林立です。

番傘もありますが、さすがに明治の終わりの頃、こうもり傘がいっぱいです。

開通式、渡り初めには「木村さんご一家」が選ばれたそうです。

木村家は日本橋で3世代のご夫婦、しっかりと揃って日本橋を渡った、とのこと。

当時、このように繁栄を象徴するご家庭は珍しかったのでしょうね。

 

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橋のたもとのオブジェです。「祝開橋」と中央に書かれていますが、積み上げられていますのは酒樽。

日本橋の魚河岸が寄贈した「積樽」だそうです。粋な計らいですね。

 

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夜は橋も積樽もライトアップです。綺麗ですね。

 

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日本橋通り(現在の中央通り)もお祭り状態です。

  

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開通記念に植樹された。4月3日ですからちょうど開花期なのでしょうか。夜も綺麗です。

 

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時を戻しまして、完成前の日本橋、工事中です。

 

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・・・樋口社長の蒐集する日本橋絵葉書の展覧会、第2回へと続きます。

 

IMG_20190130_105709 (2)a.jpg日本橋 弁松総本店

日本橋室町1-10-7

東京メトロ半蔵門線・銀座線 三越前駅 より徒歩3分

03-3279-2361

営業時間  平 日 9:30~15:00

      土日祝 9:30~12:30

電話受付  平 日 8:30~16:00

      土日祝 8:30~13:00

日本橋弁松総本店さんのホームページはこちら

⇒ http://www.benmatsu.com/

日本橋という橋の古い絵葉書を通して、古き良き日本橋の風景に浸ってください。

それでは・・・

 

 

楓川・築地川連絡運河跡を歩く!

[株式会社 彦晴] 2019年3月10日 18:00

楓川・築地川が埋め立てられ首都高速になったことは誰もが知っていると思いますが、昭和5年に震災後の帝都復興事業として、楓川と築地川の間に新たに運河が開削され、その30年後の昭和35に埋め立てられ高速道路に生まれ変わったことを知らなかった人も多いと思います。実は私も中央区観光協会の特派員になるまでは、知りませんでした。

今回は、その楓川・築地川連絡跡を歩いてみようという企画です。

現在の銀座一丁目と新富町二丁目の間の運河であり、この運河により日本橋と築地が水路で結ばれたことになります。新金橋、新富橋、三吉橋が架橋されていました。

スタートは楓川の弾正橋付近から南下して、三吉橋を目指すコースとしました。

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左の写真は弾正橋から下流をつまり新金橋方面を撮ったの写真です。楓川跡右岸を新金橋を目指します。

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われ等が聖地、京橋プラザが見えてきました。中央区観光協会事務局は当ビル三階です。京橋プラザの植え込みには木挽町の由来についての説明板があります。案内板の植え込みの囲いの石は地中より掘り出された石を利用しているそうです。

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また、この京橋公園の中には蜊河岸の説明板もあります。この二枚の説明文には楓川より先がカーブして三十間堀へと続いています。江戸時代についての案内板なので間違いはないのですが、昭和5年に三つ橋の先に開削され築地川に分流した運河跡を歩いてみようというのが今回の企画です。それから公園内は白いプラカード等でいっぱいになっていました。何かな~?と思い近づくと、それは明日の東京マラソン用のプラカードどでした。そうかと自分でも合点がいきました。

それでは、白金橋を目指して進みましょう。するともう一枚の案内板を発見しました。

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三つ橋跡の説明文です。

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新金橋に到着しました。新金橋は首都高の京橋入口があります。右の写真は新金橋から新富橋方面を撮影しています。橋名は新富町と金六町を結ぶため新金橋とつけられたそうです。左岸上流部分に小さいながらも児童遊園、そして交差点に新金橋の名前が残されていました。

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それでは新金橋を後に、楓川・築地川連絡運河跡左岸を新富橋方面へ進みます。

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楓川・築地川運河跡の左岸に小さな祠がありました。名前をチェックすると「新富復興稲荷神社」でした。この付近も以前に何回か通ったことがあったのでこの神社の存在は知っていたのですが・・・

復興という言葉から震災あとの創建らしく、以前は数メーター離れた場所に鳥居もありもっと大きな神社だったらしいことぐらいしかわかりませんでした。また、神社の祠の裏手には五重の石塔が建ってました。ここも神社のの敷地内なのでしょうか?相輪部分が折れていたのも、少し気になります。

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そこは新富橋です。新富橋の名前が公園・交差点に残ってました。

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右の写真に写っている日本家屋どっかで見たなと思いましたら、国登録有形文化財の「大野屋總本店店舗」でした。大正時代の町屋建築とのことです。

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右の写真は新富橋より三吉橋を撮影したものです。

新富橋より楓川・築地川連絡運河右岸を三吉橋方面へと進みます。

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そこには、東京都選定歴史的建造物に認定されている「鈴木ビル」がありました。確かに馬蹄型や丸型の窓などバラエティに富んでいるなーと感じました。

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今回の街歩きの終点三吉橋に到着です。三吉橋の後ろにそびえる茶色の建物は中央区役所です。右の写真は三吉橋より新富橋方面を写してます。

そして右岸上流部分に三吉橋の説明板があります。説明板の中には、三島由紀夫の「橋づくし」の一遍が引用されています。私はこの小説を読んだことはないのですが、この三吉橋が三又橋になっている部分がポイントとなるそうです。

私、個人的にはこの三吉橋はもっと注目されてもいいような気がします。

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中央区では平成4‣5年に改修工事を行い照明器具に架設当時の鈴蘭燈などを取り入れています。右の写真には「昭和四年十二月復興局建〇」の文字が確認できます。

今回の街歩きの前から、なぜこの運河は開削したのにたった30年で再び埋め戻さなければならなかったのか?が不思議に思ってました。自分なりに調べてみたのですが、関東大震災後の「帝都復興事業」により東京も新しくなりました。道路、橋梁、河川などその大部分が現在でも活用されています。しかし戦後の復興及び東京オリンピック開催のための高速道路建築等ににより再び計画が変更となった事項もあるということです。

今回の楓川・築地川連絡運河は震災後の帝都復興事業として新しく開削された運河であり、震災後築地に移設した中央卸売市場からの物流などに大いに活躍していました。しかし戦後の自動車化を止めることはできなったということでしょうか?

 

参考文献:川の地図辞典(江戸・東京23区編)菅原健二著

     「郷土室だより」152号 156号 中央区立 京橋図書館 編集・発行

 

 

沼津兵学校資業生が築地にできた海軍兵学校に人材が流れていた!

[桜やよい] 2019年3月10日 09:00

明治2年9月に築地に海軍操練所が創設されました。明治3年に海軍兵学寮と、明治9年に海軍兵学校と改称され、明治21年に江田島に移転され、海軍士官の養成学校として我が国の海軍を支えてきました。多くの旧幕臣が明治新政府に出仕し、日本の近代化に貢献したように、海軍兵学寮へも旧幕臣が出仕し、特に、静岡藩(徳川家)の沼津兵学校から教授赤松則良、教授山本淑儀、第一期資業生西尾政典など多くの優秀な人材が供出されました。

今回は、築地にあった海軍兵学校とともに、それに関係の深い沼津兵学校を紹介します。

沼津兵学校

 幕府は解体されたが、徳川家が移封された静岡藩では士官養成を目的とする兵学校を設立すべく、明治元年に沼津城二の丸の跡に沼津兵学校が開設されました。単なる士官養成にとどまらない時代の最先端を行く最高学府が沼津に誕生しました。    

 沼津兵学校の設立にし、阿部潜と江原素六が尽力しました。初代の学校長にし、当代きっての啓蒙学者である西周が就任しました。 資業生といわれる生徒は、徳川の藩士から試験により選ばれました。 試験は第一期から第八期まで行われ、200名ほどが合科し、資業生となりました。    

 学科には、英語・フランス語、漢学、数学、器械学、図画、乗馬、鉄砲術、操練などがありました。教授には、語学の渡部温(イソップ物語の翻訳者)や乙骨太郎乙がいました。普及していなかった数学を積極的に教えたため、「数学の沼津」といわれ、工兵関係の将校を多数輩出しました。

 兵学校の評判が全国的に高くなり、人材の他藩への貸し出しが行われるようになり、次第に兵学校から優秀な人材が消えていきました。特に明治政府では、陸海軍兵学寮の設立が計画されると一層優秀な人材が引き抜かれていきました。明治5年5月に新政府の陸軍兵学寮に吸収され、3年余りで消えました、しかし、その人材は、陸海軍、官吏、教育界、経済界など広範な分野で活躍し、日本の近代化に貢献しました。         

       沼津城絵図歴史MAP

沼津兵学校観光

沼津駅南口の方面には、沼津城本丸跡である中央公園があります。沼津城ニ之丸御殿は徳川家・静岡が設置した沼津兵兵学校の校舎となり、近くに兵学校寄宿寮・付属小学校・医局・医学所も設置され、兵学校が使用した旧沼津藩の馬や馬場もありました。

大手町の城岡神社境内には、明治27年徳川家旧臣によって建てられた沼津兵学校の碑があります。

わずか4年の短期間だったが、次のような人がいます。

陸海軍(将校)では、井口省吾、加藤定吉、矢吹秀一早川省義赤松則良黒田久孝古川宣誉西紳六郎村田惇向山慎吉山口勝など多数、軍人以外では西周田口卯吉島田三郎真野文二などがいます。

沼津市明治資料館ー沼津兵学校の資料が多く展示されている。

展示室

図書室

平成31年1月20日に沼津兵学校創立150周年記念式典が沼津市民文化センターで開催されました。

徳川宗家18代徳川恒孝当主の「沼津兵学校創立150周年に寄せて」、国立歴史民俗博物館の樋口雄彦教授が「沼津兵学校から学ぶべきもの」と題してそれぞれ講演する。当日、「沼津兵学校記念誌」(1部1000円)の販売。

静岡藩を治めた徳川家が設置した沼津兵学校がことし創立150周年を迎え、20日、記念式典と同校付属陸軍医局(静岡藩立沼津病院)の記念碑除幕式(いずれも実行委主催)が沼津市内で開かれた。先進的な教育制度を実践し、日本の近代化に貢献する人材を輩出した同校の功績を知ってもらおうと企画した。
第18代徳川家当主徳川恒孝さんの長男家広さん(53)らを招き、病院跡地の市立第一小北側で沼津病院の記念碑除幕式を行った。病院の初代院長杉田玄端のひ孫鈴木富子さん(83)=東京都世田谷区=らも出席し、司会の合図で一斉に幕を引き下ろした。完成した碑を見た鈴木さんは「言葉にならないほどの感謝でいっぱい」と話した。
除幕式に先立ち行った式典では、家広さんと国立歴史民俗博物館の樋口雄彦教授が記念講演した。家広さんは兵学校設置の経緯や教育内容などを説明した。樋口教授は自由貿易論を推進した田口卯吉や政界で活躍した元学生らを紹介した。反骨精神や外国語と異文化の学習など5点を挙げ、「兵学校からくみ取るべきものは無数にある」と強調した。

日本で初めての小学校が明治元年9月に沼津城内に代戯館として、のちに沼津兵学校付属小学校として開校し、沼津市立第一小学校として現在に至っています。

沼津に移住した旧幕臣は、苦しい生活の中にあっても子弟の教育には力を入れ、明治元年(1868年)9月、「代戯館」という学校をはじめた。添地にあった長屋を校舎にあて、ござをしき、黒板には雨戸を使うなど粗末なものであった。 12月には、沼津兵学校附属小学校に引き継がれ、日本最初の小学校とよばれる学校になった。

生徒は7、8歳以上の士族、庶民の子弟であって、学科は算術・地理・体操・乗馬・水泳などがあり、後に英語・フランス語も加わった高度の小学校であった。 明治5年(1872年)、「学制」が定められ、この小学校は、「集成舎」という学校になった。その後、「沼津黌」などと何回も校名を変えながら、統合・分立・新設などをくりかえしつつ、現在の第一小学校や第二小学校に発展していった。


築地にできた海軍兵学校

海軍兵学校沿革

草創時代

明治2年9月 18日(1869) 東京築地安芸橋内に海軍操練所(海軍学校の前身)創設

軍務官の実権者 大村益次郎が西洋式西洋式近代海軍学校を起こすべし

明治2年7月    兵部省が新設・海軍操練所創設

明治2年9月18日 海軍操練所を東京築地の元芸州屋敷・安芸橋内に置く(元中央市場の一角)諸藩進貢の海軍修学性(18歳~20歳ー大藩5名・中藩4名・小藩3名)

明治3年1月11日 海軍操練所の始業式挙行・海軍初めの式の起源となる。

明治3年2月23日 「千代田形」を海軍操練所付稽古鑑と定める。

明治3年3月    生徒2名に英鑑乗組を命じる。

明治3年5月    「海士の教育」は軍艦は海軍士官を以て精神とす。

明治3年11月4日 海軍操練所を海軍兵学校と改称する。寮生70余名・幼年生徒15那・壮  年性と29名を選抜し、全部官費で入寮。

明治4年1月8日  有栖川兵部卿臨場・生徒はこの日から金釦一行の短上着を着用

明治4年1月10日 「海軍兵学校寮規則」公布   

明治 4年2月22日 海軍兵学寮生徒11名と軍艦生徒6名(東郷平八朗見習士官) 第1回海外留学生英米派遣  

明治4年6月15日 「富士山」軍艦配置

明治4年8月5日  教官を武官とする。

明治5年2月27日 兵部省廃止に伴い、海軍省と陸軍省設置 海軍兵学寮は海軍省所管

幼年生徒は予科生徒・壮年生徒は本科生徒と改称。壮士気取の豪傑肌の生徒が多く帆風が漂っていた。歴戦の荒武者は戦場を知らない教官の拝斥を行い、教官室に闖入し、教官と格闘することもあったという。

明治6年7月  英国からアーチボールド・ルチアス・ダグラス海軍少佐他各科士官5名、下士官12名、水兵16名の教官団が着任したのを契機として、兵学校中牟田倉之助少将が海軍士官教育を一任。ダグラス少佐は「士官である前にまず紳士であれ」と、英国海軍士官流の紳士教育を前提とした。学科は英語と数学に重点を置いて、教科書も抗議もすべて英語、しかも座学よりも実施訓練に重点を置く、教育方針を打ち出した。

明治6年11月19日 第1期卒業生2名

明治7年 学科は英語と数学に重点を置いて、教科書も抗議もすべて英語、しかも座学よりも実施訓練に重点を置く、教育方針を実施。教育の成果が上がり、初級士官教育も本格的に軌道にのる。生徒に様式体育と遊戯を行い、日本初の運動会を開催。

明治7年11月1日 第2期卒業生17名 山本権兵衛・日高壮の壮之丞

明治9年8月31日 海軍兵学寮は海軍兵学校と改称

明治9年10月  海兵士官学校が海軍兵学校付属しなり、東京兵学分校と呼ばれる。

明治11年6月 本校機関科生徒全員を横須賀海軍兵学校付属機関学校に編入

明治12年  東京兵分校廃止で本校に編入

明治14年7月 海軍兵学校から分離独立して、海軍機関学校となる。

明治16年6月 東京で最初の赤煉瓦造である生徒館が新築落成のちに海軍大学校の校舎と使われた東洋一大きな2階建の堂々たるものであった。地続きにあった木造の海軍省が粗末で小さな物置のように見えた。設備内容も整った。

明治21年8月 (1888) 海軍兵学校、江田島に移転

幕府の海軍士官養成教育が軍艦奉行 勝海舟を筆頭に軌道を敷いていた路線を引き継いだ形となった。

幕臣から沼津兵学校から海軍に行った人材名簿

校長         矢田堀鴻 幕末の幕臣、海軍総裁、明治期の官吏

教授         赤松則良 明治期の海軍軍人(中将)。佐世保鎮守府司令長官

                   横須賀鎮守府司令長官、男爵

教授並       山本淑儀 明治期の海軍軍人(大佐)

生徒         中川将行 幕末の幕臣、明治期の海軍軍人、数学者

            永嶺謙光 明治期の海軍軍人(少将)

            向山慎吉 明治期の海軍軍人(中将)。向山黄村の養子、舞鶴

                   佐世保海軍工廠長、男爵

            小笠原賢蔵 海軍操練所

            横井時庸   海軍中機関士

付属小学校生徒  加藤定吉 明治期~大正期の海軍軍人(大将)、第二艦隊司令長官

                    呉鎮守府司令長官、男爵 

             西紳六郎  明治期~昭和初期の海軍軍人(中将)

                     佐世保鎮守府参謀長、侍従武官、馬公要港部司令官、男爵           

沼津兵学校は陸軍養成が主な目的だったが、併せて海軍にも人材が活躍したということは近代的な兵法をフランスから学び、明治新政府がすぐ軍隊を構成できたのは、沼津兵学校の教育が先達にあったればこそと知った。

今までは徳川幕府が倒れて、明治政府に代わって幕府の人材はどうしたのかと思っていた。勝海舟・山岡鉄舟・榎本武揚等は活用された人材で有名であったが、明治新政府は幕府の人材を活用していたのだということも合わせてわかった。

(国立民族博物館教授 樋口雄彦様 沼津郷土史研究談話会様 沼津市明治史料館 

木口 亮学芸員の了承を得て記事を記載しております。)

 

 

店舗前、松尾芭蕉に由来する句碑  ~ 日本橋鮒佐 ~

[rosemary sea] 2019年3月 9日 18:00

『ギフト、そして自分も楽しむ』をブリリアントに取材します、rosemary sea です。

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先日、日本橋鮒佐さんの商品と歴史につきまして、それぞれご紹介させていただきました。

今回は、店舗前の「松尾芭蕉に由来する句碑」につきまして述べます。

 

株式会社日本橋鮒佐 統括本部長 宮内悠(みやうち ゆう)さんにお世話になりました。

それでは・・・

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「発句也 松尾桃青 宿の春(ほっくなり まつおとうせい やどのはる)」

 

1年の初めは歌仙(いわゆる連句)に例えれば、発句(最初の句)。

今、私の草庵にも春が来た。この正月は私の俳諧人生の発句とも言うべき。

 

迎春の心意気を高らかに詠み上げた、とされています。

併せて、自己確立の句、と云われています。青年・芭蕉の、人生スタートの決意が顕された句。

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説明板によりますと・・・

松尾芭蕉は1672年(寛文12年)、29歳の時に故郷の伊賀上野から江戸に出てきました。

そしてそれ以後1680年(延宝8年)、37歳までの8年間、ここ日本橋鮒佐さんのあたりに住んでいたようです。

この辺りは今は日本橋室町1丁目ですが、当時は小田原町と言いました。

ここに小沢太郎兵衛という名主の屋敷があり、その借家に、芭蕉は住んでいた、とのこと。

小沢太郎兵衛は俳号「小沢卜尺(おざわぼくせき)」、俳人でもありました。

芭蕉の門人とされる人です。

 

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もっとも日本橋にやってきた頃の芭蕉は、松尾桃青と称していました。

延宝7年正月に桃青として詠まれたのがこの句。

 

延宝8年、突然宗匠家業をやめて日本橋を去り、深川に退隠します。何があったのか、不明です。

芭蕉を名乗ったり、「野ざらし紀行」や「奥の細道」の旅に出るのはまだまだその後のことです。・・・

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日本橋鮒佐 本店

日本橋室町1-12-13

東京メトロ銀座線・半蔵門線 三越前駅 A4出口より徒歩3分です。

03-3270-2735

営業時間 月~土 10:00~18:00

     祝日 11:00~16:00

定休日  日曜日(12月の日曜は営業します。)

 

日本橋三越 支店

日本橋室町1-4-1 三越日本橋本店

03-3241-3311(大代表)

営業時間・定休日 百貨店に準じます。

日本橋鮒佐さんのホームページはこちら

⇒ http://www.ganso-tsukudani.com