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◆ 隅田川の清洲橋・よみがえる記憶

[隅田の花火] 2018年2月16日 09:00

今年は寒い日が続きます。東京にも何度か雪が舞いおりました。1月22日の雪は、4年ぶりとなる大雪と伝えられ、テレビには、雪に慣れない東京人や、立往生する車の姿が映し出されていました。

 

その4年前の大雪も、たいへんだったことを記憶しています。その時に、私は寒々しい写真を撮っています。

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2014年2月15日。この日は第6回中央区観光検定の日。初めての受検を終えた私は、隅田川に架かる清洲橋の雪の風景を、少し遠くから眺めたくて、中央区の対岸、江東区の隅田川テラスを歩いていました。

 

この写真を見ると、ある出来事が頭によみがえってきます。

 

 

先日、その4年前の記憶をたどりながら、隅田川を歩いてみました。

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前日のバレンタインデーから夜半にかけて、雪がふり続きました。受検日の朝、ふり積もった雪の量に心配があったものの、あまり目にすることのできない、隅田川の雪の風景を見てみたいと思いました。

 

受検会場は、中央区・水天宮前のロイヤルパークホテル。その頃、江東区に住んでいた私は、地下鉄で行くのをやめて、隅田川を歩いて渡り、会場に向かうことに決めます。

 

江東区から中央区に歩いて渡れる橋はいくつもありますが、雪が似合いそうな橋は、やっぱり清洲橋です。

関東大震災の復興の時に架けられた清洲橋。同じ隅田川の永代橋が男性的と言われるのに対し、清洲橋はその優美さから女性的とされ、「震災復興の華」とか、「隅田川の貴婦人」などと言われます。

 

雪化粧された清洲橋さま。美しい白無垢のようなお姿を想像し、この橋に向かわせていただくことにしました。

 

 

しかし、清洲橋さまのそのご化身ぶりは、想像以上でした。まさに、この年に流行ったディズニー映画のような、「雪の女王」。

 

橋の袂に来てみると、雪の女王は、ふり積もらせた雪で排水口の穴を氷浸けにし、長い橋の歩道を、氷の水たまりにしています。深さ20センチ以上、たぶん80メートルくらいは続いています。

 

城門のように立ちはだかる、雪の女王。受検するどころか、中央区に渡ることも難しい、第一関門でした。何度も渡るのを躊躇し、受検するのをやめて、引き返してしまうことも考えたりします。

 

 

次第に時間が迫ってきました。

いろいろな思いが交錯しましたが、「もう、渡ってしまえ!」。中央区への道に足を踏み入れることを決断します。

 

御神渡りの氷の湖は、雪の女王からのバレンタイン。息を殺しながら、橋のむこうの世界へと足を進めていったのでした。

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検定は、足を凍らせたまま受検しました。あまり記憶がありませんが、空席が多かったことだけは覚えています。

 

 

あの時の氷の道は、辛かったけれど、今思うと、とても心に残っているプレゼント。

試験の終わった後、特派員になることができそうな感触を掴み、その報告のためなのか、清洲橋さまを、遠くのほうから眺めました。あの寒々しい写真は、その時の思いをよみがえらせてくれる一枚です。

 

 

 

さて、そんな思い出のある清洲橋さまですが、いま、お色直しをされています。橋を飾る装飾性の高い照明器具を、建設当時のデザインのものに付け替える工事です。

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今の装飾照明でも、とてもお似合いです。曲線を取り入れているデザインで、よく考えられていると思います。いつしかこのデザインに変えられたようで、昔の写真を見る限りだと、30~40年くらいの間ずっと、このお飾りを付けられています。

 

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ですが、清洲橋さまは国の重要文化財に指定されている吊り橋で、その設計思想が評価されている橋です。

 

建設当初から、力強い男性的な永代橋と対比して、女性をイメージして設計されている土木遺産。

なので今回の工事は、その設計思想に基づくお姿にお戻りになる、というお色直しです。永代橋でも同様のお色直しが行われています。

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(今回変わるデザインの一部。清洲橋の橋詰には、

このデザインの照明がモニュメントのような形で残されている。) 

 

 

 

関東大震災の復興で、隅田川には多くの橋が架けられました。しかしそのデザインは、ひとつとして同じものがありません。

 

それらの橋の中でも、いちばん費用がかかったのが、清洲橋さま。女性にはお金がかかると言われますが、それは橋でも同じでした。

 

当時のドイツのケルンにあった大吊り橋を模して造られていますが、橋が造られた頃、今の江東区・小名木川の萬年橋辺りから見える橋の景色は、「ケルンの眺め」と称賛され、まるでヨーロッパにいるような雰囲気を味わえたのだといいます。

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竣工は昭和3(1928)年3月。もう少しで90年という節目の時をお迎えです。

 

90年前のお姿にお戻りになる清洲橋さま。そのお姿にお会いできることを、また楽しみにしております。

 

 

 

日本橋中洲地区

[五月雨ジョージ] 2018年2月 6日 09:00

 日本橋中洲(にほんばしなかす)は、日本橋本町や日本橋人形町のように末尾に「町」は付きませんが、れっきとした東京都中央区の町名です。中州には「丁目」もありません。日本橋地区唯一の単独町名です。

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この中洲地域と、隅田川を挟んだ向こう岸(江東区)とはもともと「中洲の渡し」で行き来していたようです。現在は清洲橋で結ばれています。ちなみに「清洲橋」の名前は建設当時の両岸である深川区の深川清住町(現・江東区清澄)と日本橋区中洲町から付けられました。

 

 中洲はかつて文字通り隅田川の中洲でした。この一帯は「みつまた」(三ツ俣など)とも呼ばれましたが、どの流れを指してそう読んでいたかには諸説あるようです。いずれにしても隅田川、箱崎川、浜町川に囲まれた「中洲」であったことは間違いないようです。

 浜町川が隅田川に注ぐ付近は「浜町河岸」と呼ばれ、また、砂洲の埋め立てにより浜町と地続きになり、大川中洲新地が整備され、富永町と号し、江戸中期は花街のような賑わいを見せていた時期もあったようです。
 その後、度重なる洪水などから葦の生い茂る浅瀬に戻ったりしたようですが、明治になると再び埋め立て整備が行われ、真砂座が出来たりして料亭がひしめく娯楽街になっています。しかし、この繁栄は長く続かず、大正年間の頃には早くも衰退したと言います。

 

【江戸時代の中洲】
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 江戸時代の中洲の様子は、歌川広重の図絵で想像することができます。この絵は、江戸の名所を描いた広重の10冊の絵本の中の1枚。絵の右上にある詞書には

「新大橋より南の方、むかしこゝに茶坊ありて、その賑ひ、はんかたなし。今とり払ひて洲となれど、猶月雪の風景よし」

と紹介しています。

 
【金刀比羅宮】
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 清洲橋北西の袂には金刀比羅宮があります。境内を取り巻く玉垣には、歓楽街だったことを忍ばせる料亭の名がたくさん刻まれています。

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【真砂座】
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 真砂座の劇場跡の石碑は、マンションのエントランス脇の植栽の中に、ひっそりと佇んでいます。この真砂座は、夏目漱石の『吾輩は猫デアル』が小山内薫によって脚色され演劇「猫」として上演された劇場としても知られています。「真砂座跡」の石碑の横には碑文には以下のように書かれた石板があります。

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  夏目漱石の『吾輩ハ猫デアル』は、
  小山内薫によって脚色された。
  伊井蓉蜂らが出演し、
  日本橋区中洲の真砂座跡で、
  明治三十九(一九〇六)年
  十一月三日から三十日にかけて
  上演された。
  平成十五年十月吉日
   早稲田大学第十四代総長
      奥島 孝康 識

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【女橋】
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 中洲の町と隣の浜町との間にあった箱崎川。昭和46年(1971)埋め立てられて、現在は頭上を首都高が走っていますので、水路跡の面影が確認できます。
 その箱崎川には男橋と女橋、二つの橋が架かっていました。
 マンションの入口に埋め込まれた記念プレートには、以下のように刻まれています。

 

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おんなはし

     由来

           おんなはし
    女橋伊井を見むとてそのむかし
            幾たび渡りい往きける子ぞ
    真砂座の幟の音に誘はれて
            君もかへらぬわれもかへらぬ
    かにかくに中洲風流は
            おもしろし声舟もたまたま来て
    宵ながら闇ふかき夜は男橋
            君とわたりてゆくへ知らず
                吉井 勇「大川端」より
                        昭和二年

 

 日本橋中洲は明治四十年版「東京安寧」によれば「浜町三丁目
東南の大川中に築立たる市街地。安永元年一旦填築して三町余の
地を得、三股富永町と称せしが寛政元年之を撤し、後漸次洲渚と
なし、?葦叢生の地たりしが、明治十九年再び埋築して、今の町
名を加ふ」と記されている。
 当時、中洲は小さな島の町で、浜町との間には箱崎川をまたい
で、男橋と女橋の二橋が架せられていた。
 その後昭和の戦災で男橋は焼けおち女橋だけとなったが、箱崎
川埋立と高速道路の建設により姿を消した。
            女橋 明治三十四年十一月創架 木橋
               長さ二十一間 幅三-四間
            経費 六五九五円七〇銭
            その後昭和四年六月に架替
                 中洲青年部 吉田  尚
                       吉沢 伸明
                     贈   正志会一同

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