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「細雪」のなかの東京(4)

[CAM] 2015年12月22日 12:00

 

 細雪からの引用を続ける。

 

・・・・・・・姉ちゃんにこっちでお昼の御飯食べるつもりで早ういらっしゃい云うてほしい、と、そう云って電話を切ったが、悦子はお春に預けることにして、姉と二人で久々にゆっくり食事をするにはどこがよかろう、と考えた末、姉は鰻が好きであったことを思い出した。ついては昔、父と一緒に蒟蒻島とかいう所の大黒屋と云う鰻屋へたびたび行ったことがあったので、今もその家があるかどうかを聞かしてみると、さあ、どうでございますやろ、小満津なら聞いておりますがと、女将が電話帳を繰ってくれたが、なるほど、大黒屋ございますわ、ということなので、部屋を申し込んで置いて貰い、姉を待ち受けて、悦ちゃんはお春どんと三越へでも行ってみなさい、と、云いおいて出かけた。

・・・・・・・・・

「ここは大阪に似てるなあ、東京にもこんなとこがあるのんかいな」 と、座敷の外を取り巻いている川の流れを見廻した。
「ほんに大阪みたいやろ。── 娘の時分に東京へ来ると、いつもお父さんが此処へ連れて来やはってん」
「蒟蒻島いうて、此処は島になってるのん?」
「さあ、どうやろか。──たしか前には、こんな川附きの座敷はなかったような気イするけど、場所はここに違いないわ。──」 幸子もそう云って障子の外に眼を遣った。昔父と来た時分には、この河岸通りは片側町になっていたのに、今では川沿いの方にも家が建ち、大黒屋は道路を中に挟んで、向う側の母屋から、川附きの座敷の方へ料理を運ぶようになっているらしかったが、昔よりも今のこの座敷の眺めの方が、一層大阪の感じに近い。と云うのは、座敷は川が鍵の手に曲っている石崖の上に建っていて、その鍵の手の角のところへ、別にまた二筋の川が十の字を描くように集って来ているのが、障子の内にすわっていると、四つ橋辺の牡蠣船から見る景色を思い出させるのである。そしてここでも、その十文字の川から川へ、四つは架っていないけれども、三つは橋が架っていた。ただ惜しいことに、江戸時代からあるらしいこのあたりの下町も、災前には大阪の長堀辺に似た、古い街に共通な落ち着きがあったものだけれども、今では人家も橋梁も舗装道路も皆新しくなり、しかもそのわりに人通りが閑散で、何となく新開地の気分がするのであった。

・・・・・(396

 

 「こんにゃく島」については、湊橋の掲示板にも書かれている。現在の新川地区は、江戸時代には、霊岸島(霊厳島)と呼ばれていた場所で、霊岸橋際請負地は享保年間の埋め立てにより、富島町一・二丁目は弘化2年(1845)島西側の埋め立てによって成立したが、亀島川沿岸部は埋立が十分でなかったため足場が悪く、蒟蒻島と俗称された。

 

湊橋

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 湊橋

「この橋は、霊巖島(現在の新川地区で通称こんにゃく島と呼ばれていた。)と 対岸の箱崎地区の埋立地(隅田川の中洲)とを結ぶために、延宝7年(1679)に架けられました。
この地域は江戸時代から水路交通の要所として栄え、とくに江戸と関西〔上方〕を結んで樽廻船によって酒樽が輸送されていました。
『江戸名所図会』によると、この橋は当時の湊町を形成した日本橋川河口の繁栄を象徴しており、また橋を挟んだ川岸には倉庫が建ち並び、当時の賑わいが偲ばれます。
橋名の由来については、江戸湊の出入口にあったところから、湊橋と名付けられたものです。
現在の橋は関東大震災後の復興期に再建されたもので、平成元年度の整備事業において、装いを新たにしました。                   平成23月、中央区」

 

「四つ橋辺の牡蠣船から見る景色を思い出させる」という大阪の「四ツ橋」は通りの名(四ツ橋筋)や地下鉄路線名(四つ橋線)にもなっており、名称としての存在感は大きい。「十文字の川から川へ、四つは架っていないけれども、三つは橋が架っていた」というのは、距離的には三吉橋のことを言っているのだろう。三つ橋(ものしり百科;40頁)は少し距離がある。

 

三吉橋

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三吉橋


 「この橋は、築地川の屈曲した地点に、楓川と結ぶ水路(楓川・築地川連絡運河)が開削され、川が三叉の形となった所に、関東大震災後の復興計画の一環として、昭和4年12月に三叉の橋が架けられました。
ここに川が存在し、人々の暮らしも川を中心に営まれ、川筋を酒荷の船などが通った情緒ある風景も、今は埋立てられ高速道路と化し、陸橋となりました。
区では、平成4・5年にわたり、高欄には水辺に映える木立の姿を採り入れ、照明は架設した当時の鈴蘭燈に、又一時期高速道路のランプとなり一部撤去された歩道も復元し、古き風情を感じさせるデザインで修景しました。
   平成5年8月 東京都中央区」

 

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「細雪」のなかの東京(3)

[CAM] 2015年12月17日 12:00

「細雪」から、東京について述べられた部分の引用を続ける。

 

 雪子とお春が宿まで送ってきてくれたので、皆で銀座へ散歩に出て洋食でも食べようということになったが、そんなら尾張町のローマイヤアという店へいらしってごらんなさりませと、女将が教えてくれたので、そこへ行ってお春にも相伴をさせてやり、帰りに夜店を冷やかしてから服部の角で二人に別れて、幸子と悦子とが浜屋へ歩いて戻ったのは九時過ぎであったろうか。・・・・・・・・・・・・・ 幸子は七時頃に、自分はとても寝られないと諦めて、悦子の障りを破らないようにそうっと起きて新聞を取り寄せ、築地川の見える廊下に出て、籐椅子にかけた。・・・・・・・・東京へ来てからは大朝や大毎で読むのとは違って、馴染のうすいこちらの紙面で読むせいか、記事が頭へはいりにくく、何となく親しみが湧いて来ないので、じきに新聞にも飽きて、ぼんやりと川の両岸の人通りを眺めていた。昔、娘の時分に父と泊っていた采女町の旅館と云うのも、つい川向うの、ここから今も屋根が見えているあの歌舞伎座の前をはいった横丁にあったので、このあたりは全然知らない土地ではなく、ちょっと懐しい気持もして、道玄坂とは一緒にならないが、でもあの頃には東京劇場とか演舞場とか云うようなものは建っていず、この川筋の景色も今とは可なり違っていた。・・・・・(394

 

 上京した幸子と悦子の母娘は、姉鶴子宅から築地にある浜屋という旅館へ移るのであるが、 この「浜屋」という旅館の場所については、築地川縁にあって、歌舞伎座の屋根が見える場所で、東京劇場、演舞場の近辺ということであるから、現在の東劇会館の裏側あたりではないかと推測される。    

 「ローマイヤ」レストランは、現在は日本橋で「銀座ローマイヤレストラン日本橋店」という名称で営業を行っているようで、そのサイトを見ると「大正14年。銀座で一番初めに本格的なドイツ料理店を始めたレストランローマイヤ。日本で最初にロースハムを作ったことで知られる創業者アウグスト・ローマイヤが提供する本物の味と心温まるおもてなしは、長い間銀座の名店として多くの人々に愛され続けてきました。その名は、昭和23年に発表された谷崎潤一郎の代表「細雪」にも登場しています」とある。 

                                                  

東劇ビル(写真は、2015年12月13日撮影)

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「東京劇場」は昭和5年(1930年)3月に演劇場として開業。築地にひときわ目立つ重厚な建物で知られ、歌舞伎や軽演劇が上演されていた。歌舞伎座が東京大空襲で焼亡し、昭和26年(1951年)に再建されるまで、東京の歌舞伎の中心であった。昭和25年(1950年)3月31日、東劇は演劇場から映画館に転身している。昭和50年(1975年)、高層ビルに改築され、現在では松竹本社が入っている。平成23年(2011年)3月1日、松竹は映画興行部門をシネマコンプレックス「MOVIX」を運営する松竹マルチプレックスシアターズに継承した。(Wikipedia)

采女橋

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このあたりは、江戸前期に松平采女正の屋敷があり、享保9年(1724年)の大火で焼けたあと火除地になって、俗に采女が原と呼ばれました。橋名の由来はここからきたものと思われます。
采女が原は、明治2年に采女町と称する市街地となり、銀座煉瓦街と築地の外国人居留地との間に位置して和洋混合の新興市街地が形成されていったようです。
震災復興時に架け替えられた現在の橋は、当時意匠的に優れていたといわれるアーチが採用されました。また橋の下は昭和37年に築地川から現在の高速道路に姿を変えました。
区では平成2年度に、幻のホテル"築地ホテル館"(明治元年、近代的な洋式ホテル第一号として誕生し、栄華を誇ったが明治5年焼失)と"銀座の柳"を題材にした意匠で高欄等を整備しました。
平成3年3月
東京都中央区

新橋演舞場(手前は采女橋)

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「新橋演舞場」は、大正14年(1925)に開場した(ものしり百科;48頁)

 

 

 

関東大震災後の銀座

[CAM] 2015年12月16日 12:00

 

 本日(12月13日)の日経新聞朝刊の24面、『文学食べ物図鑑(28)』(特別編集委員 野瀬泰申)で、関東大震災後の銀座について述べられており、そこで、荷風の『濹東綺譚』「作後贅言(ぜいげん)」から下記の部分が引用されていますね。

 「銀座の町がわずか三四年見ない間にすっかり変った、其景況の大略を知ることができた。震災前表通に在った商店で、もとの処に同じ業をつづけているものは数えるほどで、今は悉く関西もしくは九州から来た人の経営に任ねられた。裏通の到る処に海豚汁や関西料理の看板がかけられ、横町の角々に屋台店の多くなったのも怪しむには当らない」

 そして、さらに荷風は

「飲食店の硝子窓に飲食物の模型を並べ、之に価格をつけて置くようになったのも、蓋し已むことを得ざる結果で、これまた其範を大阪に則ったものだという事である」

 と述べています。大震災後になって飲食店の店頭に食品サンプルがあふれる光景を見て、荷風は料理のように関西発祥のものが東京にやってきたと思ったのでしょうが、実は食品サンプルの発祥は大阪ではなく東京生まれで、震災後に始めたのは日本橋・白木屋百貨店だったことが、このコラムで述べられています。

 

 

「細雪」のなかの東京(2)

[CAM] 2015年12月12日 18:00

「細雪」から、東京について述べられた部分の引用を続ける。

 

・・・・だが、そう云う幸子も、そんなに東京をよく知っているわけではなかった。ずっと昔、十七八の娘時代に父に連れられて上京し、築地采女町の旅館にしばらく泊まっていたことが一二回あって、その時分には随分方々を見て歩いたものだけれども、それは大正十二年の大震災の前のことで、復興後の帝都へは、箱根へ新婚旅行に来た帰りに帝国ホテルに二三泊したことがあるに過ぎない。 ・・・・・・・・・・

 しかし正直なことを云うと、彼女はそんなに東京が好きなのではなかった。瑞雲棚引く千代田城のめでたさは申すも畏いこととして、東京の魅力はどこにあるかといえば、そのお城の松を中心にした丸の内一帯、江戸時代の築城の規模がそのまま壮麗なビル街を前景の裡に抱え込んでいる雄大な眺め、見附やお濠端の翠色、等々に尽きる。まことに、こればかりは京都にも大阪にもないもので、幾度見ても飽きないけれども、ほかにはそんなに惹き着けられるものはないと云ってよい。銀座から日本橋界隈の街通りは、立派といえば立派だけれども、何か空気がカサカサ乾枯らびているようで、彼女などには住みよい土地とは思えなかった。分けても彼女は東京の場末の街の殺風景なのが嫌いであったが、今日も青山の通りを渋谷の方へ進んでいくに従い、夏の夕暮であるにもかかわらず、何となく寒々としたものが感じられ、遠い遠い見知らぬ国へ来てしまったような心地がした。 ・・・・・・・・・・・・ 東京というところは、いつ来てみても自分には縁もゆかりもない、餘所々々しい土地なのである。そして幸子は、こういう都会のこういう区域に、生粋の大阪ッ子であり、紛う方なき自分の姉である人が、今現に住んでいるということが、どうしても信じられないことのような、・・・・・・それにしてもよくまあ姉がこういう街で暮していられるものよと思い、実際そこに行き着くまではまだ本当でないようにも感じられた。 (377

 

 上記は、幸子(次姉)が東京へ転勤した長姉を訪ねた際の述懐であるが、「銀座から日本橋界隈の街通りは、立派といえば立派だけれども、何か空気がカサカサ乾枯らびているようで、彼女などには住みよい土地とは思えなかった」と言っている。また、渋谷、青山あたりを「場末」と言っているのもおもしろい。

 私自身も、大学に入り、幼少期を過ごした大阪市(現)中央区から初めて東京へ移り住んだ〇十年前、吉祥寺、下北沢、そして渋谷さえもが、やはり単なる「場末」としか感じられなかったから、こうした記述をよく理解できる。

 「大阪も近頃は御堂筋などが拡張されて、中之島から船場方面に近代的建築が続々そそり立つようになり、朝日ビルの十階、アラスカの食堂あたりから俯瞰すると、さすがに壮観であるけれども、何といっても東京には及ばない」とも述べられているが、かつての大阪・御堂筋はビルの高さが一定に規制されており、東京・丸之内一帯等とはまた異なった壮観さがあったように思う。東京も、皇居の周囲等では、かつてはビルの高さが制限されており、優れた修景であったが、近年は高層ビルが不調和に立ち並んできており、景観という点からすると劣化しているように思う。銀座については、まだ相当の調和が保たれているように思うが、これも経済性という点から考えるといろいろな議論があるのだろう。

 

「銀座の街区と建物」については、「銀座街づくり会議」のサイトで説明されている。

 

http://www.ginza-machidukuri.jp/column/column1-2.html

 

 

「細雪」のなかの東京(1)

[CAM] 2015年12月11日 18:00

 

「細雪」は、言うまでもなく関西を主な舞台とした物語であるが、主人公の姉妹たちの旅行などによって、東京の情景を描いた場面もかなり多い。

 下記は、関西における婦人たちの会話である(引用は中公文庫による)。

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 >「でも、聖路加病院ならいつまで入院していらしったっていいでしょう」

「海が近いから涼しくって、ことにこれからがあすこはいいのよ。でも中央市場が近いもんだから、時々生臭い風が吹くの。それに本願寺の鐘が耳について。――――」

「本願寺はああいう建物になりましても、やっぱり鐘を鳴らすのでございましょうか」

「はあ、そうであんすの」

「何だかサイレンでも鳴らしそうだわね」

「それから教会の鐘も鳴るのよ」                  (167

 

 それから続く以下の部分は、震災後に関西へ移住し、関西の女性と再々婚した谷崎ならではの叙述であろう。幸子とはもちろんその谷崎夫人・松子がモデルである。

 

>彼女(幸子)は相良夫人のような型の、気風から、態度から、物云いから、体のこなしから、何から何までパリパリの東京流の奥さんが、どうにも苦手なのであった。彼女も阪神間の奥さんたちの間では、いっぱし東京弁が使える組なのであるが、こういう夫人の前へ出ると、何となく気が引けて―――というよりは、何か東京弁というものが浅ましいように感じられて来て、故意に使うのを差し控えたくなり、かえって土地の言葉を出すようにした。それにまた、そういえば丹生夫人までが、いつも幸子とは大阪弁で話す癖に、今日はお附合いのつもりか完全な東京弁を使うので、まるで別の人のようで、打ち解ける気になれないのであった。なるほど丹生夫人は、大阪っ児ではあるけれども、女学校が東京であった関係上、東京人との交際が多いので、東京弁が上手なことに不思議はないものの、それでもこんなにまで堂に入っているとは、長い附合いの幸子にしても今日まで知らなかったことで、今日の夫人はいつものおっとりしたところがまるでなく、眼の使いよう、唇の曲げよう、煙草を吸う時の人差指と中指の持って行きよう、―――東京弁はまず表情やしぐさからああしなければ板に着かないのかも知れないが、なんだか人柄がにわかに悪くなったように思えた。       (168

 

「何か東京弁というものが浅ましいように感じられて来て」とか、「東京弁はまず表情やしぐさからああしなければ板に着かないのかも知れないが、なんだか人柄がにわかに悪くなったように思えた」とか、関西人の「東京弁」についての感じ方がよく描かれていて、おもしろい。この「東京弁」を「英語」に置き換えても、そのまま通用するだろう(笑)。

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銀座1~4丁目・京橋3丁目ウォーキングコース(3)

[CAM] 2015年12月 9日 20:00

 

煉瓦銀座の碑、煉瓦とガス燈

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  明治五年二月二十六日
皇紀2532年 西暦1872年
銀座は全焼し延焼築地方面に及び焼失戸數四千戸と称せらる
東京府知事由利公正は罹災せる銀座全地域の不燃性建築を企劃建策し政府は國費を以て煉瓦造二階建アーケード式洋風建築完成す
煉瓦通りと通称せられ銀座通り商店街形成の濫觴となりたり
昭和三十一年四月二日

 


 (1987年記)
明治初期我が国文明開化のシンボルとして、 銀座には煉瓦建築がなされ、 街路照明は、ガス燈が用いられた。
床の煉瓦は、最近発掘されたものを、当時の ままの「フランス積み」で再現。ガス燈の燈柱は、 明治七年の実物を使用、燈具は忠実に復元。

 

三つ橋跡

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所在地 弾正橋 中央区京橋二・三丁目~八丁堀三・四丁目
白魚橋 中央区京橋三丁目~銀座一丁目
真福寺橋 中央区銀座一丁目~新富一丁目
ここから北方約三〇メートルの地点には、明治の末年まで、北東から楓(もみじ)川、北西から京橋川、東へ流れる桜川、南西へ流れる三十間堀が交差していました。この交差点に近い楓川に弾正(だんじょう)橋、京橋川に白魚橋、三十間堀に真福寺が架かり、この三橋を三つ橋と総称していました。
三つ橋は、すでに寛永九年(一六三二)作成といわれる『武州豊嶋郡江戸庄図』に図示されていますが、橋名の記入はなく、橋名についても幕末までいろいろ変遷がありました。
明治末に真福寺橋、昭和三十四年に白魚橋がいずれも河川の埋立てによって廃止され、弾正橋は昭和三十七年、高速道路工事によって現在の姿となりました。
平成八年三月
中央区教育委員会

 

弾正橋
弾正橋は古く江戸寛永年間には既に、楓川上に架かっているのが記されており、北八丁堀に島田弾正少弼屋敷があったのがその名の由来のようである。弾正橋は当時交差した堀川上に真福寺橋、白魚橋と共に三つの橋がコの字状に架けられていたことから、江戸名所図絵に「三ツ橋」として紹介されており、江戸における一つの名物であったようである。
その後たびたび架替えられたが、明治11年に工部省の手により、我が国最初の国産の鉄を使った橋として架替えられた。その時の橋は現在でも江東区富岡一丁目に保存され、昭和52年に国の重要文化財として指定され、平成元年にはアメリカ土木学会の栄誉賞も受ける等その歴史的貴重さを増している。
現在の橋は大正15年12月に復興局によって架替えられたもので、従来の弾正橋よりやや北側に位置している。その後昭和39年の東京オリンピックの時に、弾正橋の両側に公園が造成され、平成5年2月に公園と一体化された、くつろぎのある橋として再整備された。尚、公園にあるモニュメントは、明治11年、楓川に架かる弾正橋を象徴化して復元したものである。
平成5年2月 中央区

 

蜊河岸 (バックの建物は京橋プラザ)

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現在、ここから日本橋方面にのびている高速道路はかつての楓川で、川はこの先で京橋川と三十間堀に合流していました。そこは、それぞれの川筋に弾正橋・牛の草橋(白魚橋)・真福寺橋の三つの橋が架かっていたことから「三ツ橋」と呼ばれていました。蜊河岸は、その三ツ橋のひとつ、三十間堀に架かる真福寺橋の東岸、築地方面の河岸の呼び名です。江戸時代後期、この蜊河岸には江戸三大道場のひとつ、鏡新明智流の剣客桃井春蔵の「士学館」がありました。嘉永六年(一八五三)発行の平野屋版切絵図には、蜊河岸の築地側南端に、その名を確認することができます。
平成十二年三月
中央区教育委員会

 

歌舞伎座

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施設概要(歌舞伎座サイトから)

 

敷地 6,790㎡ (都市計画道路 約 190 ㎡を除く)

建築面積 5,985.2㎡

客席数 1808席(幕見席96席を除く)

舞台 間口91尺(27.573m)、高さ21尺(6.363m)

廻り舞台 直径60尺(18.18m)