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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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銀座1~4丁目・京橋3丁目ウォーキングコース(2)

[CAM] 2015年12月 9日 18:00

宝くじを求めて列を作る人々とともに、燈臺(とうだい)をもう一度

(写真は2015年12月6日撮影、以下同じ)

IMG_2419.JPG 銀座発祥の地

IMG_2421.JPG 慶長十七年(紀元2272年 西暦1612年)徳川幕府此の地に の銀座役所を設置す当時町名を新両替町と称せしも通称を銀座町と呼称せられ明治二年遂に銀座を町名とする事に公示さる
昭和三十年四月一日建之
銀座通聨合会 

 

京橋の親柱

IMG_2422.JPG所在地 中央区京橋三丁目/銀座一丁目
京橋は、江戸時代から日本橋とともに有名な橋でした。橋は、昭和三十四年(1959)、京橋川の埋め立てによって撤去され、現在では見られませんが、その名残をとどめるものとして、三本の親柱が残っています。
橋北詰東側と南詰西側に残る二本の親柱は、明治八年(1875)当時の石造の橋のものです。江戸時代の橋の伝統を引き継ぐ擬宝珠の形で、詩人佐々木支陰の筆によって、「京橋」「きやうはし」とそれぞれ橋の名が彫られています。
一方、橋南詰東側に残る親柱は、大正十一年(1922)にかけられた橋のものです。石及びコンクリート造で、照明設備を備えたものです。
京橋の親柱は、明治、大正と二つの時代のものが残ることから、近代の橋のデザインの変化を知ることができる貴重な建造物として、中央区民文化財に登録されています。
平成四年三月
中央区教育委員会

 

IMG_2432.JPG 京橋は古来より其の名著える創架乃年ハ慶長年間なるが如し明暦以降数々架換へられ大正十一年末現橋に改築せらる此の橋柱は明治八年石造に架換へられたる時の擬寶珠欄干の親柱として橋名の書ハ明治の詩人佐々木支陰乃揮毫に係るものなり
昭和十三年五月

 

 江戸歌舞伎発祥の地

 

IMG_2423.JPG 寛永元年二月十五日元祖猿若中村勘三郎中橋南地と言える此地に猿若中村座の芝居櫓を上ぐこれ江戸歌舞伎の濫觴也 茲に史跡を按し斯石を鎮め國劇歌舞伎発祥の地として永く記念す
昭和三十二年七月
江戸歌舞伎旧史保存会

 

 京橋大根河岸青物市場跡

IMG_2424.JPG遠く寛文の初め江戸数寄屋橋邊に處の人数名打倚りさゝやかなる青物の市を立てしに遠近の村村より作物多く集りぬ是等の店はゆきゝの人或いは附近の人人に之をひさぐ数年ならずして店の数増加し漸く市場の形整い江戸府民のため無くてはかなわぬ機関とはなりぬその後火炎に罹りしにより東海道の要路にあたり且つ水運の便ある京橋川の北岸紺屋町へ移轉す偶この市場への大根の入荷殊更夥しきにより世の人大根河岸と呼び遂に京橋大根河岸と稱うるに至るかくて二百餘年を経たる明治十年京橋川南岸の太刀賣と稱する甘藷問屋数名を加入せしめ問屋三十七軒仲買十七名を數うるに至りしかば府尹の認可を得て組合を設立しこゝに始めて大市場としての規模完成す
大正十二年九月大震災の厄難に遭いしも組合員は鋭意復興に努力し以前に優る盛況を呈す時に問屋六十八名仲買百五名なり昭和十年二月中央卸賣市場法實施の一環として東京市中央卸賣市場の開設さるに際し國家の要請否みがたく父祖三百年愛着の絆を断ちて揺籃の地を去り築地本場に入り問屋は一体となりて会社を起こし仲買は舊態のまゝ開業すその後第二次世界大戦のため幾多の變革ありしも戦後再び舊状に復し業況益好調を極む斯る折柄舊京橋青物市場蹟記念碑建設の議起り期成会を組織して之が實現に努め漸くその工を竣えたり依ってここにその由来を記し開設以来二百八十餘年の歴史を回顧し其盛時を偲ぶたよりとなす
昭和三十四年六月 藤浦富太郎撰  江川碧潭書

 

 

 

関東大震災後の中央区(3)

[CAM] 2015年12月 8日 12:00

昭和7(1932)年4月には、地下鉄「三越前」駅が開業し、三越本店地下売場と連絡。

昭和10(1935)10月、三越本店の増改築工事が完了、中央ホールが完成し、パイプオルガンを設置。

 

 昭和7年10月3日、東京市は市政改革を行い、隣接5郡82町村を合併して35区とした。

 

「夜銀座に飯す。夕刊の新聞を見るに府下の町村東京市へ合併の記事および満州外交問題の記事紙面をうづむ」(『断腸亭日乗』)

 

 銀座の大きな変化は、昭和通りの建設と晴海通りの拡幅であった。昭和通りの完成は昭和3。当時東京市市長だった後藤新平の原案では道幅を108メートルとするものであったが、広い道路の重要性が当時は受け入れられず、結果現在の道幅に狭められた。また、狭い通りであった現在の晴海通りが拡幅された。

 

地下鉄銀座線の建設は震災後の大正14(1925)年に開始された。本来は新橋から浅草まで一挙に開通させることを目指していたものの、大震災後による不況のため、資金調達が困難になってしまい、当時は日本一の繁華街で高収益が見込める浅草から上野までの建設を先行させ、昭和2(1927)年に開業したが、昭和7(1932)年暮れには京橋まで、昭和9(1934)年には銀座まで延伸された。

 

 『断腸亭日乗』では、昭和71224日「地下鐵道京橋入口開通」、昭和933日「地下鐵道尾張町出入口この日より開通の由。乗客頗雑(とう)の様子なり」、昭和9316日「五時過雷門に出で始めて地下鐵道に乗り銀座尾張町に至る。十五分間なり」と記されている。

 

 昭和6年から9年にかけて『日乗』には、「銀座」が頻出してくる。荷風は、日が暮れると銀座に出かけ、食事をしたり、カフェーに行っている。

 

   しかしながら、昭和9年頃には、銀座の繁栄には陰りが見え始めたようで(というよりも日本の戦時経済化と言うべきだろうが)、荷風は、昭和9年11月4日「銀座通の景況日を追うて物寂しく、今夜は十時頃夜店そろそろ仕舞かける有様なり。銀座通の景気最盛なりしは昭和6年より翌7年軍人暴行の頃なりしが如し。酒館の繁栄したるもその頃にて、去年あたりより俄にさびれ出したり」(『日乗』)と記している。

 

『断腸亭日乗』が素晴らしいのは、自分たちが実体験をできなかった「時代」の姿を生き生きと描いてくれているからである。

 

 

歴史豊かな建造物をめぐるコース (1)

[CAM] 2015年12月 6日 20:00

日本橋三越本店  (2015年11月29日撮影、以下同じ)

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(三越サイトから) 日本橋三越本店は、平成11年4月に日本橋地区の顔として「東京都選定歴史的建造物」に選ばれました。

現在の建物は、昭和10年(1935)に完成、ルネッサンス式建築の威容を誇り、当時は「国会議事堂」「丸ビル」に次ぐ大建築物でした。

本館正面玄関には待ち合わせの場所として親しまれる「三越の守護神」とも言うべき「ライオン像」がお客様をお迎えし、メイン通路を抜けると、その豪華絢爛な美しさの、「天女(まごころ)像」がひときわ目をひきそびえ立っています。
この像をいただく中央ホールでは、各種催物やトークショーなどが日々開催されるイベントスペースとしてお客様に親しまれています。

中央ホールのメイン階段をあがると、美しい音色を奏でる「パイプオルガン」が設置されています。このパイプオルガンによる生演奏は毎週金・土・日曜の週3回行われ、お客様に喜ばれています。

この中央ホールからパイプオルガンをつなぐメイン階段。重厚感のある大理石をふんだんに使用しているのですが、じっくり目を凝らしてみてみると、アンモナイトなどの化石がはっきりと確認いただけます。御来店の際にお楽しみの一つとして化石探しをしてみるのもいかがでしょうか。

このほかにも、本館6階には、歌舞伎・演劇等が催される三越劇場が、本館屋上には三圍神社などが、百貨店ではめずらしい施設として、多くのお客様に喜ばれております。

                                                       

貨幣博物館

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(日本銀行サイトから) 日本銀行金融研究所貨幣博物館では、貨幣および貨幣に関する歴史的、文化的な資料を収集・保存し、それらの調査研究を進めつつ、広く一般に公開しています。

 貨幣博物館の所蔵資料の中核となっているのは、古貨幣収集家・研究家であった田中啓文氏(1884~1956年)が収集した銭幣館コレクションです。田中啓文氏は、わが国の古代から近代にいたる貨幣だけでなく、中国を中心とする東アジアの貨幣や、貨幣に関するさまざまな資料を収集していました。これらの資料が展示・保管されていた博物館が「銭幣館」で、1944年、戦火による喪失を避けるため、収集資料は日本銀行に寄贈されました。

 貨幣博物館は、これらの資料を公開するため、日本銀行創立100周年(1982年)を記念して1985年11月に開館しました。

 

 

常盤橋

IMG_2391.JPG常盤橋門跡 (工事中)

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(観光協会サイトから)  江戸城外濠の表正面で、現在は枡形門の石垣だけが残っています。この門は、浅草・千住を経て行く奥州街道の出口であったので、浅草口と呼ばれ、江戸五門のひとつにも数えられています。昭和3年(1928年)国の史跡に指定されました。

 

 日本銀行本店本館

IMG_2388.JPG(日本銀行サイトから) 日本銀行本店は現在、旧館、新館、分館の3つの建物から構成されています。
 このうち、本館は現在の日本銀行の建物の中でもっとも古く、明治29年に完成しました。明治中期の西洋式建築物としては、東京・赤坂の迎賓館(げいひんかん)とならぶ傑作(けっさく)といわれており、国の重要文化財にも指定されています。

 

三井本館

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 (三井広報委員会サイトから)  明治35年(1902)に竣工した駿河町三井本館(旧三井本館)は完成から20年後の大正12年(1923)、関東大震災で大きな被害を蒙った。建物の躯体そのものは、それほど致命的なダメージを受けていなかったが、問題は内部の焼失であった。そのため改修するか、完全に改築してしまうかの決定が迫られていた。

三井合名としては、当初改修する方向で進んでいたといわれるが、震災復興に対して三井が範を示す必要があるということ、また三井の諸事業の発展拡大により、今後、旧三井本館では手狭になると予想されたため、方針を転換。旧三井本館を解体し、新本館を建てることとなった。

・・・・・・・・・・昭和2年(1927)、新たな三井本館の建築工事が開始された。

三井本館の意匠については「壮麗」「品位」「簡素」の3つのコンセプトが定められた。

外観デザインは20世紀におけるアメリカの新古典主義的なデザインを採用。クラシカルではあるが、過度に華やかさを強調しない抑制された美ともいうべきデザインで、これは3つの要素のうちの「品位」と「簡素」を表している。残りの「壮麗」については、ローマ風のコリント式大オーダー列柱にその要素が見出される。オーダーとは階を貫いてそびえる柱のことで、本館の大オーダーは建物の3面にわたって用いられ、無用な変化をつけることなく整然と並べられた。

三井本館は、約3年の歳月をかけて昭和4年(1929)3月に竣工した。総事業費は2,131万円(現在の約1,000億円)。地上7階(竣工時は5階)、地下2階の鉄筋コンクリート造りで、外装にはすべて花崗岩を使用。インテリアには大理石をふんだんに用い、あらゆる面で近代的な業務に応じられる設備を備えており、三井合名をはじめ、三井銀行・旧三井物産・三井鉱山・三井信託など直系各社入居し、本社機能を集中させた。

・・・・・・終戦を迎え、連合軍は進駐を開始。GHQは多くのビルを接収し、三井本館も4、5階の接収が行われた。・・・・・・・・・・・・辛酸をなめた三井本館だが、占領終了後は再び三井のオフィスビルとして使用され、平成10年(1998)に「意匠的に優秀」「歴史的価値が高い」との評価を受け、国の重要文化財に指定された。

 

 

 

歴史豊かな建造物をめぐるコース (2)

[CAM] 2015年12月 6日 20:00

三井記念美術館

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    三井家が収集した美術品約4,000点を所蔵する「三井記念美術館」。国宝・重要文化財をはじめとする三井11家から寄贈された名宝の数々を展示・公開し、文化財の保存とともに研究活動や芸術文化の発信に努めている。

三井家は元々、三井高利の時代から茶の湯が嗜まれ、生活文化として定着していたが、それに加え、北家(総領家)は長年にわたって表千家との親交を持っていた。また金融御用を務めていた紀州徳川家との茶の湯を介した交流もあり、そうした中で多くの茶道具が収集されてきた。また、北家は京都画壇とのつながりも深く、特に円山応挙の作家活動を援助していたことから、応挙をはじめとする円山四条派の作品も多く見受けられる。

三井各家のコレクションは茶道具、絵画、書跡、能面、能装束、拓本、刀剣、調度品、切手など多岐にわたる。

これらは戦後、第11代三井総領家当主・三井八郎右衞門高公の決断により、段階的に三井文庫に寄贈されていく。昭和59年(1984)には三井文庫別館が竣工し、翌年から美術品の一般公開を開始した。それに伴い、三井各家からは伝来の美術品や文化財の寄贈が繰り返され、その他の法人や個人からも寄付を受けるようになった。三井文庫が膨大な美術品を収蔵するに至ったのは、こうした経緯による。

やがて、三井文庫別館の展示活動は三井記念美術館に引き継がれ、平成17年(2005)、日本橋室町にある重要文化財・三井本館内7階に開館した。所蔵する美術品は国宝6点、重要文化財71点、重要美術品4点など約4,000点。切手類は13万点に及ぶ。

江戸時代の絵師の巨匠・円山応挙筆の国宝「雪松図屏風」は墨と金泥と紙の白色のみで、雪の中にきらめく光を照り返して屹立する松の姿を情感豊かに描き出している。松は輪郭線を用いない没骨技法。余白が空間の広がりを感じさせる。

室町家からの寄贈は、書画、茶道具など約800点あり、中でも国宝「志野茶碗 銘卯花墻」はその中の白眉ともいうべき名品で、日本で焼かれた茶碗での国宝指定は、本阿弥光悦作の白楽茶碗(銘不二山)と、この卯花墻の2碗のみとなっている。

このほか、茶道具では長次郎作「黒楽茶碗 銘俊寛」や「大名物 唐物肩衝茶入(北野肩衝)」など重要文化財も数多く所蔵している。

館内の中央の展示室には、三井家とゆかりの深い国宝茶室「如庵」の内部を再現。三井家の美術品だけでなく、様々なテーマによる「特別展」を企画・開催し、東京駅周辺の3美術館とも連携して新しいアートスポットを創出している。 (三井広報委員会サイトから)

 

 十軒店 跡 (写真は2015年11月30日撮影、以下同じ)

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所在地 中央区日本橋室町3-2-15
十軒店は雛市の立つ場所として知られていました。『寛永江戸図』に「十間たな」と記された、石町二・三丁目と本町二・三丁目に挟まれた小さな町で、日本橋通りの両側に面していました。江戸時代の初め、桃の節句・端午の節句に人形を売る仮の店が十軒あったことから、この名があるともいわれています。
江戸時代中期以降、三月と五月の節句や十二月歳暮市には内裏雛(だいりびな)・禿(かむろ)人形・飾道具・甲人形・鯉のぼり・破魔弓・手毬・羽子板など、季節に応じた人形や玩具を売る店が軒を並べていました。
『江戸名所図会』には「十軒店雛市」と題し、店先に小屋掛けまで設けて繁昌している挿絵が描かれています。明治時代以降もこの地は「本石町十軒店」と称されていましたが、明治四十四年(1911)に十間店町となり、昭和七年(1932)、旧日本橋室町三丁目に編入されました。
平成十年三月
中央区教育委員会

 

 長崎屋跡

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所在地 中央区日本橋室町四丁目二番地
江戸時代、ここは長崎屋という薬種屋があり、長崎に駐在したオランダ商館長の江戸登城、将軍拝謁の際の定宿になりました。将軍拝謁は諸外国のうち、鎖国政策のため外国貿易を独占していたオランダが、幕府に謝意を表するために献上品を携えて行った行事でした。江戸出府は江戸初期から毎年一回行われましたが、長崎からの随行の人々は、商館長の他、通訳、学者などが賑やかに行列して江戸に来ました。しかし、経費のことなどで、江戸中期からは四年に一回となっています。

商館長に随行したオランダ人の医者の中には、ツンベルクやシーボルトなどの一流の医学者がいたので、蘭学に興味を持つ桂川甫周や平賀源内はじめ日本人の医者、蘭学者が訪問し、長崎以外における外国文化の交流の場として、あるいは、先進的な外国の知識を吸収していた場として有名になりました。
鎖国下における数少ない西洋文明との交流の場として貴重であり、区民史跡に登録されています。

 

石町時の鐘 鐘撞堂跡

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 江戸時代には鐘をついて人々に時刻を報せていました。この鐘は、石町(現在の日本橋室町4丁目付近)にあったもので、近くに長崎屋があったため、「石町の鐘はオランダまで聞こえ」の川柳があります。宝永8年(1711年)に鋳直したもので、(徳川家宣時代)高さ1.7メートル、口径93センチの和鐘です。現在は、十思公園に鐘楼を、設けて納めてあります。(観光協会サイトから)

 

 

夜半亭 (与謝蕪村旧居跡)

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歴史豊かな建造物をめぐるコース (3)

[CAM] 2015年12月 6日 20:00

於竹大日如来縁起

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於竹大日如来は 寛永十七年(十八才の時)山形県庄内よりでて 当時の江戸大伝馬町馬込家の召使いとなるその行いは何事にも誠実親切で一粒の米 一きれの野菜にも決して粗末にせず貧困者に施した そのため於竹さんのいる勝手元からはいつも後光がさしていたという 出羽の国の行者乗蓮と玄良坊が馬込家をおとづれ「於竹さんは羽黒山のおつげによると大日如来の化身である」とつげた。主人は驚き勝手仕事をやめさせ 持仏堂を造り その後念仏三昧の道に入る これが江戸市中に拡がり 於竹さんを拝まうと来る人数知れずと言う
於竹さんの詠んだ歌に
手と足はいそがしけれど南無阿弥陀仏
口と心のひまにまかせて
延宝八年五月この世を去る 行年五十八
五代将軍綱吉公の母堂桂昌院の歌に
ありがたや光と共に行く末は
花のうてなに於竹大日
於竹さんが愛用し貧困者が市をなしたと言う有名な於竹井戸はこの地にあった
昭和四十六年五月吉祥
史蹟 於竹大日如来保存会 

 

小津資料館

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Internet Museumサイトから)承応二年(1653年)小津清左衛門長弘が伊勢松阪より出府し、江戸大伝馬町(現在本社社屋の地)に紙商を開業して以来、時代とともに私たちの生活をより豊かに発展させてきた紙と小津の歴史の関わりを展示公開する「小津史料館」を本社社屋の二階に開設しております。
現在までに東京都中央区登録有形文化財として保存指定を受けた古文書千二百余点のうち約千点を順次展示公開しています。小津三百六十年の歴史をご覧ください。

 

 

 馬込勘解由の碑 (べったら市の由来)

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徳川家康による江戸城築城のおり、寳田村が城の拡張により移転のやむなきに至った。譜代の家臣である馬込勘解由が寳田村の鎮守の御本尊を奉安して住民と共に現在地に移転した。
この大業を成し遂げた功により、勘解由は江戸の筆頭名主となり年間役料は二百十両の最高であった。後に三伝馬取締役に出世し、徳川家繁栄を祈願された恵比壽神を授けられ、寳田神社に安置して江戸の平穏を祈願した。
御神体は鎌倉時代の名匠運慶の作と伝えられ、以来商業の守り神として十月二十日の恵比壽講の前夜に市が開かれるようになった。
恵比壽講に使う鯛や神棚などと共に江戸名物の浅漬大根が売られ、売り子が大根に付いた糀を若い女性の着物に近づけ「ほら べったら べったら 買わないで通ると着物にくっ付くよ」と戯れたことからべったら市の名がついた。
徳川家康公江戸出府四〇一年を壽ぎ、ここに馬込勘解由の功績を讃え碑を建立するものである。

 

 塩河岸


所在地 中央区日本橋本町2ー4先
かつて、この付近には、江戸初期に川を埋めてつくった堀の西堀留川がありました。この堀は、江戸橋から北に入り、この通りの東側で船入堀が西へと曲がっていました。カギ状に曲がったその先には、道場橋と雲母橋が架かり、その橋の間にあった北岸を塩河岸と呼びました。江戸時代、ここに塩問屋があったことから、そう呼ばれるようになったといいます。
『江戸名所図会』には、「伊勢町河岸通 米河岸 塩河岸」と題された挿絵が掲載され、往時の様子を知ることができます。明治十年には、東京府によって対面南岸が「南塩河岸」、北岸を「北塩河岸」と定められました。
平成十二年三月
中央区教育委員会

 

  三浦按針屋敷跡

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ウイリアム・アダムスは西暦1564年イギリスのケント州に生まれ、慶長5(1600)渡来、徳川家康に迎えられて江戸に入り、この地に屋敷を給せられた。造船・砲術・地理・數學等に業績をあげ、ついで家康・秀忠の外交特に通商の顧問となり、日英貿易等に貢献し、元和6年(1620)424日平戸に歿した。

日本名三浦按針は相模國三浦辺見に領地を有し、またもと航海長であったことに由来し、この地も昭和初年まで安針町と呼ばれた。

 

熈代勝覧

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(三井不動産サイトから) 名橋「日本橋」保存会および日本橋地域ルネッサンス100年計画委員会は、日本橋を訪れる人々に街の魅力を実感していただくために、約17メートルにわたる「熈代勝覧」の複製絵巻を、東京メトロ「三越前」駅地下コンコース壁面に本日(平成21年11月30日)設置しました。

 「熈代勝覧」絵巻とは、文化2年(1805年)頃の日本橋から今川橋までの大通り(現在の中央通り)を東側から俯瞰し、江戸時代の町人文化を克明に描いた貴重な絵巻物(作者不明)で、原画はベルリン国立アジア美術館に所蔵されています。今回の複製絵巻の設置により、日本でも「熈代勝覧」を鑑賞することが可能になりました。

 「熈代勝覧」とは、「熈(かがや)ける御代の勝(すぐ)れたる景観」という意味で、本絵巻には「熈代勝覧 天」と記載されており、「天地人」の全三巻の可能性がありますが、他の巻は現在所在不明です。題字は当時著名な書家であった佐野東洲の描いたもので、絵巻には沿道にある88軒の問屋や店に加え、行き交う1,671人、犬20匹、馬13頭、牛4頭、猿1匹、鷹2羽ならびに屋号や商標が書かれた暖簾、看板、旗、などが克明に描かれています。なお、1806年の「丙寅(ひのえとら)の大火」で建物の多くは焼失したとされており、その直前の貴重な記録といえます。

 名橋「日本橋」保存会および日本橋地域ルネッサンス100年計画委員会は「熈代勝覧」を日本橋の歴史、文化を後世に伝える貴重な作品と捉え、ベルリン国立アジア美術館から制作、設置の許可を得て、江戸東京博物館による全体監修のもと複製いたしました。

 複製絵巻の絵画部分は、江戸東京博物館が所蔵するカラーポジフィルムから約1.4倍に拡大した印刷用の画像データを作成し、原画を忠実に再現するため和紙にも鮮明な印刷が可能なプリンタを使用し、和紙8枚に出力した後、1枚仕立てに加工しました。絵画を囲うパネルには、建物や職業、商売など江戸時代の町人文化に関する解説を記載しています。

 

 

 

銀座1~4丁目・京橋3丁目ウォーキングコース(1)

[CAM] 2015年12月 5日 14:00

関東大震災の記念塔 

(写真は2015年12月1日撮影、以下同じ。内蔵小型ストロボのため光量が不足で悪しからず。後ろは、宝くじを求める人  の列です)

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 この塔は大正十二年(1923年)九月一日午前1158分 東京を中心に関東一帯をおそった大震災を記念するため広く浄財を集めて十周年の昭和八年九月一日に建てたものでわが国彫刻界の巨匠北村西望先生が「平和の神」を象徴して制作されたものであります 標語の「不意の地震に不断の用意」は当時朝日新聞社が全国から懸賞募集した十余万の応募の中から選んだもので長くこの日をしのび二度と惨害をくりかえさぬよう注意を喚起するものであります
昭和三十五年九月一日
震災共同基金会 朝日新聞厚生文化事業団
震災の被害状況
死者99,331 負傷者103,733 行方不明43,476 
倒壊家屋 全壊128,266 半壊26,233 焼失家屋447,128

 

銀座の柳 碑

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 銀座の柳は明治十年頃に植えられ銀座の象徴とされたが三度の変遷を経て昭和四十三年銀座通りの改修と共に姿を消した
このたび西銀座通りが東京都のシンボルロードとして歩道拡張と共に御影石鋪装を施し面目一新されたことを機に並木を柳に代え銀座の象徴復活を果たした
西銀座通会はこの柳が末長く人々に愛され親しまれ続けることを願いここ数寄屋橋公園に碑を建立する
平成十一年十一月
西銀座通会会長 柳澤 政一

 

 銀恋の碑

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デュエットソングの定番中の定番「銀座の恋の物語」(昭和36年/1961 作詞 大高ひさを、作曲 鏑木 創 歌 石原祐次郎 牧村旬子)の歌碑(銀恋の碑)はその名を後世に残すため、平成二年七月、西銀座通会、銀座通連合会、テイチク(株)によって建立された。

 

東京慈恵会医科大学発祥の地

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 明治十四年男爵高水兼寛英国医学教授ノ目的ヲモッテコノ地ニ成医会講習所ヲ開設ス
コレ東京慈恵会医科大学ノ濫觴ナリ
創立百年ヲ記念シコノ碑ヲ建ツ
昭和五十五年五月一日
第七代学長 名取禮二

 

和光

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(WAKOサイトから) 銀座四丁目の交差点、銀座のランドマークとして知られる和光本館。時計をはじめ、宝飾品、紳士・婦人用品、室内装飾品など、ご用意しているお品は、お客様の声を取り入れて独自に開発した、あるいは国内外から厳しい目で選び抜いた、高い品質を誇るものばかりです。長い歴史と伝統の中で培ってきた上質へのこだわりとおもてなしの精神を、大切にしております。
どうぞ和光で、ゆっくりとお買物をお楽しみください。