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NINGYOCHO (Lonely Planet )

[CAM] 2017年9月26日 16:00

 外人観光客が手にするガイドブックの一つにLonely Planet シリーズがあります。

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 このガイドブック(10th edition-Aug 2015)で日本橋がどのように説明されているかを見ると、「人形町」については、次のように述べられています。

 

 
NINGYOCHO

East of Nihombashi, towards the Sumida-gawa, is Ningyocho, a shitamachi (old downtown Tokyo) area well worth exploring for its small temples, shrines, craft shops, food stalls, and atmospheric places to eat and drink. Ningyo means doll - these and puppets were once made here when Ningyocho was a hub for the performance arts. Kabuki is still performed at Meiji-za明治座;2-31-1 Nihonbashi-Hamacho) theater.

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and you can view the dolls and puppets of Jusaburo Tsujimura at Jusaburo-kan (ジュサブロー館;3-6-9 Nihonbashi-Ningyocho).

 

 しかし、この「ジュサブロー館」は、「東京人形町のアトリエは、2015年9月12日をもちまして、一般公開を終了させていただきました。 広島県三次市の【辻村寿三郎人形館】にて引き続き展示をしておりますので、どうぞよろしくお願い申し上げます」ということで、既に閉館され、跡地は居酒屋になっていました。

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Zone in on Amazake Yokocho甘酒横丁)a delightful shopping street lined with age-old businesses and named after the sweet, milky sake drink amazake; you can sample it at Futaba (双葉;2-4-9 Nihonbashi-Ningyocho), along with various sweet and savoury eats made from tofu.

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Also along here is colourful crafts shop Yuma (ゆうま;2-32-5 Nihonbashi-Ningyocho).

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West across NIngyocho-dori from Amazake Yokocho, you'll easily spot Tamahide (玉秀;1-17-1 Nihonbashi-Ningyocho) by the line of customers outside waiting for a space inside the restaurant which has been serving up its signature oyakodon (chicken cooked in a sweet soy sauce with eggs and served over a bowl of rice) since 1760.

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A few blocks northeast from Amazake Yokocho, facing a neighbouring park, is Brozer' s Hamburger (2-28-5 Nihonbashi-Ningyocho), one of Tokyo's best burger joints.

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谷崎『幼少時代』を歩く (2)

[CAM] 2017年9月19日 09:00

「鎧橋」の掲示板には、谷崎潤一郎の『幼少時代』が引用されている。この引用された部分の前後には、周辺の風景がよく描写されている。

 

 鎧橋は、明治5年(1872)に架橋。明治21年(1888)には鉄骨製のトラス橋に架け替えられ、大正から昭和にかけて橋の上を市電が走ったこともある。昭和32年(1957)に現在のものに架け替えられた(『ものしり百科』;26)。 『幼少時代』は、昭和30年(1955)4月から翌年3月まで、雑誌「文藝春秋」に連載されたものであるから、「鎧橋は老朽して取り払われてしまったという」と述べられているのは、この架け替えの前のことであろう。

 谷崎家は、短期間、浜町へ移った後、南茅場町へ移転した。

 
『幼少時代』が引用されている鎧橋説明版

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 浜町の家には私はほんの数ヶ月いただけで、明治二十四年の秋までの間に、南茅場町の四十五番地に引き移ったらしい。・・・・・

・・・・「鎧橋は昔は鎧の渡しといって、あすこには橋はなかったものだ」と、子供の時分に聞かされたことがあったが、今は下流に茅場橋という橋が出来、鎧橋は老朽して取り払われてしまったというから、再び私の生れなかった昔に復った訳である。

 

 小網町の方から来て元の鎧橋を渡ると、右側に兜町の証券取引所があるが、左側の最初の通りを表茅場町といい、それに並行した次の通りを裏茅場町といっていた。・・・・・・・

 

 茅場町へ来てからも、母やばあやに連れられて毎日のように本家へ遊びに行くことに変わりはなかった。距離は浜町の時とほぼ同じぐらいで、五、六丁ほどであったろう。裏茅場町から勝見の横丁を表茅場町へ出、鎧橋を渡って小網町の方へ左折し、また直ぐ右折して米屋町を通り抜けて行く。私やばあやの脚でも十五分程度の路であったし、電車も自動車もない時代であったけれども、鎧橋を越える時は広い往来を向う側の人道の方へ渡らなければならないので、人力車に轢かれないようにと、ばあやは一生懸命に私に注意した。その時分の橋は路面より一段高く、勾配が附いていたので、橋から駈け下りて来る人力車は惰性で急停車することが出来ず、案外危ないことがあった。鎧橋は、その頃市中にそう多くはない鉄橋の一つで、まだ新大橋や永代橋などは古い木橋のままであったように思う。私は往き復りに橋の途中で立ち止まって、日本橋川の水の流れを眺めるのが常であったが、鉄の欄干に顔を押しつけて橋の下に現われて来る水の面を視詰めていると、水が流れて行くのでなく、橋が動いていくように見えた。私はまた、茅場町の方から渡って、上流の兜町の岸にある渋沢邸のお伽噺のような建物を、いつも不思議な心持で飽かず見入ったものであった。今はあすこに日証ビルディングが建っているが、もとはあの川の縁の出っ鼻に、ぴったりと石崖に接して、ヴェニス風の廊や柱のあるゴシック式の殿堂が水に臨んで建っていた。明治中期の東京のまん中に、ああいう異国の古典趣味の邸宅を築いたのは誰の思いつきだったのであろうか。対岸の小網町河岸には土蔵の白壁が幾棟となく並んでい、あの出っ鼻をちょっと曲れば直ぐ江戸橋や日本橋であるのに、あの一廓だけが石板刷の西洋風景画のように日本離れのした空気をただよわしていた。だがそれでいて、周囲の水だの街だのと必ずしも不釣合ではなく、前の流れを往き来する荷足船や伝馬船や達磨船などが、ゴンドラと同じように調和していたのは妙であった。(「南茅場町の最初の家」;73)

 
 We lived at the house in Hama-cho for only a few months, moving to No.45, Minami Kayaba-cho, sometime before the autumn of 1891. ・・・・・・

I remember being told as a child that there had been a ferry-crossing where Yoroibashi bridge then was; now the bridge is gone again, torn down because of dilapidation and replaced with the new Kayababashi bridge further downstream. Thus in a sense we have come full circle, back to what things were like in the old days, before I was born.

 Coming from the direction of Koami-cho, at the point where the old Yoroibashi bridge crossed the river, you saw the Kabuto-cho stock exchange on the right. The first road to the left was called Kayaba-cho 'Front Street', while the next, paralleled to it, was 'Back Street'. ・・・・・

 Even after the move to Minami Kayaba-cho, I still went almost daily to visit the main house with Mother and Granny. The distance was no more than it had been when we were in Hama-cho ―some five or six blocks. We passed from 'Back' to 'Front' Kayaba-cho vis the Katsumi side street; crossed Yoroibashi bridge and turned left toward Koami-cho; then turned right and passed thorough the rice dealers' district. It took only fifteen

minutes, even for Granny and me. There were as yet no streetcars or automobiles about, but Granny always warned me to be careful not to be hit by a rickshaw as I crossed the wide road beyond Yoroibashi bridge to get to the pavement on the other side.

The bridge was at that time raised somewhat higher than the surface of the road, and sloped down to meet it; and the rikishaws that sped down the slope often found it impossible to make sudden stops, so it could be quite dangerous. Yoroibashi was one of the not-so-numerous steel bridges then in Tokyo, while Shin Ohashi and Eitaibashi bridges were still made of wood. I used to stand in the middle of it and watch the flow of the Nihombashi River. As I pressed my face against the iron railings and gazed down at the surface of the water, it seemed as if it were the bridge and not the river that was moving.

Crossing the bridge from Kayaba-cho, one could see the fantastic Shibusawa mansion rising like a fairly-tale palace on the banks of Kabutocho, further upstream. There, where the Nissho Building now stands, the Gothic-style mansion with its Venetian galleries and pillars stood facing the river, its walls rising from the stony cliff of the small promontory on which it had been built. Whose idea was it, I wonder, to construct such an exotically traditional Western-style residence right in the middle of late nineteenth-century Tokyo? I never tired of gazing at its romantic outlines with a kind of rapture. Across the river on the Koami-cho embankment were lined the white walls of innumerable storehouses. Though the Edobashi and Nihombashi bridges stood just beyond the promontory, this little section of Sitamachi had a foreign air, like some scenic lithograph of Europe. Yet it did not clash with the river and surrounding buildings-in fact, the various old-fashioned barges and lighters that moved up and down the stream past the 'palace' were strangely in harmony with it, like gondolas moving on a Venetian canal・・・        (54)

 
鎧の渡し跡の説明版、渡し場は明治5年(1872)に鎧橋が架けられるまで存続した。(『ものしり百科』;25)

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鎧橋上から茅場橋を臨む。この橋の南詰のあたりは、昔は茅場河岸と称し、茅を切って積む置き場であった。今日の茅場町の由来と同じく、橋名もこれに由来する。現在の橋は、旧橋の老朽化により平成4年(1992)に架け替えられたもの(『ものしり百科』;25)。

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日本橋小網町から鎧橋越しに証券取引所を臨む

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手前が日証館ビル、その先の樹木は兜神社、その先の高層ビルは日本橋ダイヤビルディング

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安田不動産、日本橋浜町を再開発

[CAM] 2017年9月16日 12:00

 9月13日付の日本経済新聞が「安田不動産、日本橋浜町を再開発」を報じています。

 この記事によると、日本橋浜町に新たなホテルやマンションを整備する計画で、近隣オフィスのテナント企業や地域住民が利用できる交流拠点を既に開設した、ということです。

 ホテルは安田不動産が建設し、19年2月に開業する予定。地上15階建てで、客室数は約170室。主に観光客の利用を見込む。建物の一部は賃貸マンション(108戸)にする計画ということです。

 交流拠点としては、「ハマハウス」を9日に開業。これは、1階は書店兼カフェ、2階は近隣のオフィスビルのテナント企業や地域住民が使える会議室、3階はクリエーターが集まる小規模オフィス、ということです。ハマハウスの隣にも既存建物を改修した交流拠点「ハマ1961」を設け、同日オープン。これは、1階にはフランスの文具店「パピエ ティグル」を誘致し、日本茶を出す飲食スペースを設置。2階はデザイナーらのオフィスにした、ということです。

 さっそく、見学に行ってきました。印象としては、既にオープンしている「ハマハウス」も、新聞報道で予想していた割にはやや小規模なものという印象でした。





9日に開業した「ハマハウス」

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日本橋浜町には、安田不動産が開発したオフィスビルのトルナーレ日本橋浜町や日本橋浜町Fタワー、日本橋安田スカイゲートが既に集積、若い世代を中心に人口増が続いており、明治座や相撲部屋(荒汐部屋)が外国人観光客の人気スポットになっている、ということです。





トルナーレ日本橋浜町

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安田不動産はオフィスや商業施設のほか、宿泊や居住、交流などの機能を拡充し、住民や観光客をさらに呼び込むという構想を立てているようで、今後の発展に期待したいですね。

 

 

谷崎潤一郎『幼少時代』を歩く (1)

[CAM] 2017年9月15日 18:00

 中央区立郷土天文館2015年10月発行の「文学さんぽ 谷崎潤一郎『幼少時代』を歩く」

を参考にし、岩波文庫版『幼少時代』と英訳(Paul McCarthy訳)を併読しつつ、あらためて谷崎が描いた日本橋を中心とした情景をたどってみたい。

 

 谷崎潤一郎(1886-1965)著『幼少時代』は、昭和30年(1955)4月、谷崎が69歳のときに、雑誌「文藝春秋」に連載を開始し翌年3月まで掲載された随筆で、幼少期の遊び場、商店、学校、友達の思い出などが、明治中期から後期にかけての日本橋を中心とした東京の下町を舞台として描かれている。谷崎は、この著作について、「現在こんなにも変わり果ててしまった東京の、明治中葉頃における下町の情景を、少しは今の若い人々に知って置いてもらうのが目的でもある」と述べている(私の『幼少時代』について)。

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祖父は・・・・・・日本橋の蠣殻町二丁目十四番地に、以前銀座のあったところに家を構えて活版印刷業を始めた。私が生れたのはこの「谷崎活版所」という、巌谷一六の隷書の看板が掲げてあった黒漆喰の土蔵造りの家の蔵座敷の中であった。 ・・・・・・活版所の前を真っ直ぐに、蠣殻町一丁目の通りへ行くと、そこはその頃のいわゆる「米屋町」で、米穀取引所を中心に、左右両側に米穀仲買人の店が並んでいた。 ・・・・・・なおその外に、鎧橋通りに今も残っている銀杏八幡の裏通りあたりに、活版所の支店を設けて「谷崎分社」という看板を出していた。 ・・・・・・・祖父の久右衛門は私の二、三歳の頃、倉五郎夫婦のために日本橋青物町(この町名は今はないが、海運橋の通りと昭和通りとが交叉している地点あたり)に一戸を構えて洋酒業を営ませたり、次には柳原で点灯社をやらせたりしたが、いずれも経営が巧く行かず、そのうちに祖父が死んでしまった。(「私の一番古い記憶」)


Grandfather then built a house at No.14, Kakigara-cho 2-chome, Nihombashi, where the

Ginza, or Silver Mint area, had formerly been. And there he set up a print shop ― the Tanizaki printers; it was in the parlor of this traditional godown-style building, with its signboard carefully inscribed in formal characters by a well-known calligrapher, that I was born. ・・・・・・・ Walking from the print shop toward Kakigara-cho 1 -chome, one passed through the rice merchants' district, with dealers' shops lining the road on either side. ・・・・・・・ In addition, there was a branch office of the printer's in the lane behind the Icho Hachiman Shrine, still to be found on Yoroibashi Strret. ・・・・・・・ When I was still a baby, Grandfather set them up in a liquor business, followed later by the lamp-lighting job in Yanagihara.


 生誕地に掲げられた松子夫人筆の「谷崎潤一郎生誕の地」表示版と説明版(日本橋人形町1-7-10)。

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蛎殻銀座跡を示す説明版、東京メトロ日比谷線人形町駅A2出口先の歩道に設置されている(日本橋人形町1-17-7 先),。これには図がないから、その広さをつかめないが、近くの工事塀には、蛎殻銀座の説明とともに、地図が掲げられていたので、谷崎生誕地がこの跡地内にあったことがよく分かる。

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銀杏八幡(日本橋蛎殻町1-7-7)

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「日本橋」、「江戸」そして「江戸っ子」(3)

[CAM] 2017年9月 6日 18:00

三.「江戸っ子」とは

(1)山東京伝による「江戸っ子」の定義

 「江戸っ子」の定義としては山東京伝(1761~1816)によるものが有名であり、「江戸城の鯱をみて水道の水を産湯とした」「宵越しの銭は持たない」「食べ物や遊び道具がぜいたく」「生粋の江戸のはえぬき」「いきとはりを本領とする」といった条件を満たすのが江戸っ子とされている。山東京伝著『通言総まがき』の原文は以下の通りである(『日本古典文学大系』第59巻「黄表紙洒落本集」岩波書店1958年)。

「金の魚虎(しゃちほこ)をにらんで、水道の水を、産湯に浴(あび)て、御膝元に生れ出ては、おがみづきの米を喰(くらっ)て、乳母日傘(おんばひからかさ)にて長(ひととなり)、金銀のささごはじきに、陸奥山(みちのくやま)も卑(ひくき)とし、吉原本田のはけの間(あい)に、安房上総(あはかづさ)も近しとす。 隅水(すみだがは)の鮊(しらうを)も中落(なかおち)を喰ず、本町の角屋敷をなげて大門を打(うつ)は、人の心の花にぞありける。 江戸ッ子の根生骨(こんじやうぼね)、萬事に渡る日本ばしの真中(まんなか)から、ふりさけみれば神風や、伊勢町(いせてう)の新道に、奉公人口入所といふ簡板(かんばん)のすぢむこふ、いつでも黒格子に、らんのはち植(うへ)の出してあるは・・・・」

 こうした江戸っ子の条件を最初に読んだときは、「水道の水を、産湯に浴て」という部分に目がとまり、なぜ「水道」が「江戸っ子」の要件となるのか、不思議な思いがした。この点については、永井荷風の「井戸の水」(明治9年)という随筆を読むとその背景をよく理解できる。

「水道は江戸時代には上水と稱へられて、遠く明暦のむかしに開通したことは人の知る所である。上水には玉川の他に神田及び千川の二流があつたことも亦説くに及ばない。子供の時分、音羽や小日向あたりの人家では、江戸時代の神田上水をそのまま使つてゐたやうに覚えてゐる。併し今日とはちがつて、其頃の水道を使用するには、上水の流れてゐる樋のところへ井戸を掘り、竹竿の先につけた釣鐘桶で水を汲んだのである。

江戸のむかし、上水は京橋、両国、神田あたりの繁華な町中を流れてゐたばかりで、辺鄙な山の手では、たとへば四谷また関口あたり、上水の通路になつてゐた処でも、濫にこれを使ふことはできなかつた。それ故おのれは水道の水で産湯をつかつた男だと言へば江戸でも最繁華な下町に生れ、神田明神でなければ山王様の氏子になるわけなので、山の手の者に対して生粋な江戸ツ児の誇りとなした所である。(むかし江戸といへば水道の通じた下町をさして言ったもので、小石川、牛込、また赤坂麻布あたりに住んでゐるものが、下町へ用たしに行く時には江戸へ行ってくると言ったさうである。)」(岩波版全集17-32)

 

 
(2)「江戸っ子」生成についての考察

 以上の永井荷風の文章を読むと、明治の初め頃でも、「小石川、牛込、また赤坂麻布あたりに住んでゐるものが、下町へ用たしに行く時には江戸へ行ってくると言った」ということが解る。よく「芝で生まれて神田で育った江戸っ子」などと言われるが、既に述べたように、元来は、神田や芝さえもが、「江戸」という地区には含まれていなかったのである。 

池田弥三郎氏は、以下のように述べる。(『日本橋私記』)

「歴史的には、江戸っ子とは、もし、将軍のおひざもとの江戸の町の出生者ということになれば、今の中央区の、旧日本橋、京橋区内の人々が、その中心をなしていて、ごく古くは、神田も芝も、江戸ではなかった。もちろん、浅草も江戸の外だ。しかし、時代とともに、芝で生まれて神田で育った者も、江戸っ子となって来たし、川向うの本所深川も、江戸の中にはいってきた。」

そして、

「金銭についての気質を説くにしても、江戸の本町を中心にした、商人の階級に属する人々を対象にした時には、宵越しの銭は使わないどころか、堂々と貯めた人々の気質をみつけなければならない。講釈や落語の世界に出没する概念の江戸っ子から気質をひき出すことは、危険が多いのである。」

「江戸っ子」については、西山松之助『江戸っ子』(吉川弘文館、1980年)という書が委細を尽くしているが、『平凡社大百科事典』における竹内誠氏による説明が簡明でわかりやすいので、以下、これによると(引用はDVD-ROM 1998年版による)、

「江戸っ子という言葉は,18世紀後半の田沼時代(1760~86)になってはじめて登場してくる。(筆者注;山東京伝は1761~1816)・・・・それには二つの契機が考えられる。一つは,この時期は経済的な変動が激しく,江戸町人のなかには金持ちにのしあがる者と,没落して貧乏人になる者との交代が顕著にみられた。 おそらく,この没落しつつある江戸町人の危機意識の拠りどころ=精神的支柱として,江戸っ子意識は成立したといえよう。」

「田沼時代には,江戸に支店をもつ上方の大商人たちが大いに金をもうけ,江戸経済界を牛耳っていたので,とくに経済的に没落しつつあるような江戸町人にとって,『上方者』への反発は大きかった。・・・・・『宵越しの銭を持たねえ』と突っ張るのも,金もうけの上手な上方者に対する経済的劣等感の,裏返し的な強がりとみられる。」

「もう一つの契機は,農村では食べていけなくなった貧農たちが,この時期にいまだかつてないほど大量に江戸へ流入したことである。そのため江戸には,田舎生れが大勢生活するようになった。しかもこれら『田舎者』が,江戸者ぶりをひけらかすことに対して,江戸生れどうしの強烈な〈みうち〉意識が芽生えた。」

 西山氏は、「江戸ッ子という人たちは、単純な階層による単純な構造をもつ特定の存在ではなく、二重構造をもっている」として、「主として化政期以降に出現してきた『おらぁ江戸ッ子だ』と江戸っ子ぶる江戸っ子」(自称江戸っ子)と、「日本橋の魚河岸の大旦那たち、蔵前の札差、木場の材木商の旦那たち、霊岸島や新川界隈の酒問屋とか荷受商人というような、元禄以前ごろから江戸に住みついて、江戸で成長してきた大町人ならびに諸職人たち」(本格的江戸っ子、高度な文化を持った豊かな人たち)とに分けられる」とする。

 

 

 関西人である私は、「江戸っ子」という言葉というか人種に対して生理的嫌悪感を感じ、海保青陵(1755~1817)による「江戸ものは小児のやうなり、馬鹿者のやうなり、甚だ初心なり」(升小談)という論に共感、同感してきたのであるが、「元来の江戸」というべき日本橋の歴史・文化を知り、はじめて、「江戸」、「江戸っ子」に対して、反感のない理性的認識を持つことができるようになったと思う。

(おわり)

 

 

「日本橋」、「江戸」そして「江戸っ子」 (2)

[CAM] 2017年9月 5日 18:00

二.「江戸」の成り立ちと範囲

こうして、日本橋地区からさらに現中央区の歴史に触れていくうちに、今まで不勉強であった「江戸」の成り立ちなども知るようになった。現東京都中央区の前身である日本橋区・京橋区が正式に成立・発足したのは明治11年(1878)であるが、その直前に作られた「区画改正に関する下調書類」によると、そこには日本橋区・京橋区の名称がなく、北江戸区・南江戸区の名がある。つまり、原案者は、日本橋・京橋両区の地域を「江戸」と考え、これを南北二つに分けて、北江戸区・南江戸区と称しようとしたものらしい。『中央区史』は「往時、神田堀を境界とし、以南を江戸とし以北を神田とした」という文献(『再校江戸砂子』『江戸往古図説』)を引いているが、このような考えは、明治11年になっても存していたことがわかる。なお、中央区成立の際(1947年)にも、新区名を「江戸区」「大江戸区」とする案も有力であったという。

そもそも、「江戸」の語源は「江処」であると考えるのが妥当ではないか。「え」というのは海岸からはいりこんだ、船がかりするのに絶好な水域のことである。家康公「江戸お打ち入り」(天正18年:1590)の前の東部の平地は、どこもかしこも「汐入りの芦原」であって、これを築填する大土木工事によって、"江処"というべき、お城の前面の町がおよそ出来上がった。その後、文禄2年(1593)には、日比谷入江が埋められ、そこに散在していた民家は芝口の南に移された。さらに慶長8年(1603)には「豊島洲崎の築填」といわれる大工事によって、今の隅田川右岸の地が、浜町から新橋あたりまで出来上がったようである。この築填につれて、下町の掘割も形を整え、日本橋川、京橋川、新橋川も、そして、面目を一新した日本橋も、この時に出来たと思われる。さらに、明暦3年(1657)の大火の後、木挽町の海岸の築填を行って、この時に築地一帯が完成し、旧日本橋区・京橋区の大体が出来上がった。

したがって、「江戸」という地域は、北は神田堀(竜閑川)を限りとし、南の境界は新橋川であった。 この新橋川に架かる難波橋は、江戸を追放される者の放逐個所となっていた。そして、新橋川を渡って芝に行くと、そこに兼康祐元の本店があった。さらに、本郷の近くにある小橋も、やはり江戸払いの罪人を追放する「別れの橋」となっていたが、その本郷の別れの橋の近くに"も"、兼康の支店があった。 池田弥三郎氏によると、「本郷も、兼康までは江戸のうち」という川柳は、以上のように、江戸の南北の「別れの橋」の何れにも、その近くに兼康があるということを踏まえてできたものであって、「本郷も」の"も"はそういう意味だと言う(『日本橋私記』1972年)。たしかに、池田氏のように解することによって、"も"という助詞が活きてくるように思われる。そして、そう解すれば、「江戸」という地域を、元来は、「北は神田堀(竜閑川)を限りとし、南は新橋川(汐留川)を境とする」という考えをよく理解できる。

池田弥三郎氏は「おそらく、江戸の下町は、山の手に対立するダウン・タウンを意味する呼称となる前には、もっと、誇り高い、お城のひざもと、江戸の城下町、しろしたのまちという意味だったに違いない。江戸の、本町、通町といった、生ッ粋の江戸の中の江戸、江戸の町の、城下町としての発祥地ということだったに違いないのである。しろしたとか、お城したとかいうことばはある特有の誇りをもっている。・・・・・・・・・

江戸の、その城したの町がした町である。だから、始まりは、江戸の下町はほんの狭い地域であって、大川の向こうの本所・深川はまだ海か、湿地帯であって町をなしておらず、神田も江戸のそと、浅草に到っては、江戸より古くからあったが、観音様の門前町で、一宿駅のような地区にすぎなかった。神田や浅草、下谷、それに本所・深川までが下町になってくるのは、ずっと後のことであって・・・・・」と述べている(『日本橋私記』)。

「江戸の範囲」についての幕府の正式見解とも言うべき「朱引」(寺社奉行の管轄範囲)、「墨引」(町奉行の管轄区域)が提示されたのは、文政元年(1818)であるから、家康入府以来230年近く経ってからのことである。「江戸の範囲」について論じる際は、どの時点、どの段階での話なのかを明示する必要があろう。しかるに、「江戸時代」とひとくくりにして論じたり、時代初期の事象についてであるにもかかわらず、朱引による領域を当然の前提であるが如くに述べたり、江戸時代後期における社会状況を時代全体についてのもののように語る文章があるが、徳川幕府が成立し(1603)大政奉還される(1867)までの間でも260年以上に及んでいる。これは、アメリカ独立宣言(1776)から現在までの期間(240年)よりも長いのである。

(続く)