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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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まるごとミュージアム(4)

[CAM] 2016年11月 5日 12:00

人形町を離れ、東日本橋へ向かう。

 やげん堀移動商店街

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やげん堀不動院開創425年祭とかで、演芸会も開かれており、にぎやかでした。

IMG_0768.JPG薬研堀不動院

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薬研堀不動院の近くにある日本橋中学校。

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東日本橋から日本橋へ向かいます。三井タワービル、三井本館と、三越本店。

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日本橋の舟着き場

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今日は、午後1時ごろからスタートしたのですが、「日本橋」近くで日が暮れ始めた上に、雨が少し降り出したため、前日の下見はここで終了としました。

明日(10月30日)は好天だとよいのですが・・・

 

 

 

まるごとミュージアム 2016(3)

[CAM] 2016年11月 2日 18:00

 タイムドーム明石を離れた後は、築地川公園を左右に見ながら、あかつき橋跡を渡り、新大橋通りへ向かう。

IMG_0751.JPG新大橋通りへ入った後は、「かやば橋」まで一直線。 途中の入船橋から見た、中央区役所、ブロッサム、銀座キャピタルホテル。

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さらに進むと、右手に桜川公園。入口の造形物は「月舞台(MOON LIGHT STAGE)」と題され、2005年4月設置と標示されている。

IMG_0755.JPGかやば橋を渡り、人形町へ。 最近改築された水天宮。(「ものしり百科」100頁)

IMG_0759.JPG 今日の人形町は、ハロウィーンで、けっこうにぎわっていた。

 地下鉄人形町駅と「玉ひで」、その先に谷崎潤一郎生誕地。

IMG_0760.JPG からくり櫓

IMG_0762.JPG 大観音寺

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 玄冶店跡

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まるごとミュージアム 2016 (2)

[CAM] 2016年11月 1日 14:00

 さらに「晴海通り」を進むと、右手に新しく移転してきた「月島警察署」があり、その先に「中央清掃工場」が見える。

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この中央清掃工場の熱源を利用しているのが「ほっとプラザはるみ」(「ものしり百科」112頁)。

IMG_0737.JPG  オリンピック選手村の工事は進んでおり、ダンプがひっきりなしに出入りしている。「東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会の選手村の整備と大会後のレガシーとなるまちづくり」という掲示があった。
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 そのまま進んで、「晴海埠頭(客船ターミナル)」(「ものしり百科」113頁)。
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 晴海埠頭からレインボーブリッジを臨む。
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 晴海埠頭を離れた後は、「晴海通り」を新月島公園まで直進し、左折して佃大橋へ進む。佃大橋上から、リバーシティ21、中央大橋を臨む。
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 佃大橋上から、聖路加タワー、勝どき橋方向を臨む。
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 佃大橋を渡り、左折して明石町へ入る。 「明石ドーム」
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まるごとミュージアム 2016 (1)

[CAM] 2016年10月31日 12:00

 まるごとミュージアムも明日に迫ったものの、最近忙しかったこともあり、準備ができていなかった。今年はバスガイド・ボランティアも2回目なので何とかなるとは思ったが、昨年は右まわりコースであったのが、今年は左まわりコースに変更になっていたので、一夜漬けながら、午後からコースを自転車でまわった(10月29日記)。

 

まずは、築地社会教育会館、

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築地から晴海へ向かうが、今日は土曜日であり、場外もかなりの人出であった(13時過ぎ)。

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 晴海通りを進み勝どき橋(「ものしり百科」72頁)を渡るが、手前右手にあるのが「勝どき 橋の資料館」(「ものしり百科」71頁)

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 勝どき橋上から、築地市場を臨む。移転はどうなるのか? 左方に新しくできた「築地大橋」が見える。

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 そのまま晴海通りを進み、黎明橋を渡る。橋上から見たトリトンスクエア。

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 黎明橋から更に晴海通りを進むと、東西に延びる広い道路と交差するが、この先は「有明通り」となり、東西に延びる道路が晴海通りと呼ばれる。

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 「有明通り」の先には、「晴海大橋」がある。

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 交差点を右折して「晴海通り」を進むと、右手には「日本万国博覧会事務局棟跡」(「ものしり百科」112頁)の表示版もある。

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永井荷風 「井戸の水」

[CAM] 2016年10月25日 16:00

 「江戸っ子」の定義としては山東京伝(1761~1816)によるものが有名であり、『ものしり百科』(平成28年発行79頁)でも引用されている。この『通言総まがき』の原文は以下の通りである(『日本古典文学大系』第59巻「黄表紙洒落本集」岩波書店;昭和33年発行)。


>金の魚虎(しゃちほこ)をにらんで、水道の水を、産湯に浴(あび)て、御膝元に生れ出ては、おがみづきの米を喰(くらっ)て、乳母日傘(おんばひからかさ)にて長(ひととなり)、金銀のささごはじきに、陸奥山(みちのくやま)も卑(ひくき)とし、吉原本田のはけの間(あい)に、安房上総(あはかづさ)も近しとす。 隅水(すみだがは)の鮊(しらうを)も中落(なかおち)を喰ず、本町の角屋敷をなげて大門を打(うつ)は、人の心の花にぞありける。 江戸ッ子の根生骨(こんじやうぼね)、萬事に渡る日本ばしの真中(まんなか)から、ふりさけみれば神風や、伊勢町(いせてう)の新道に、奉公人口入所といふ簡板(かんばん)のすぢむこふ、いつでも黒格子に、らんのはち植(うへ)の出してあるは・・・・


 これを最初に読んだときは、「水道の水を、産湯に浴て」という部分に目がとまり、なぜ「水道」が「江戸っ子」の要件となるのか、少し不思議な思いがした。このあたりの事情については、永井荷風が「井戸の水」(明治9年10月)という随筆を書いており、これを読むとその背景をよく理解できる。


>水道は江戸時代には上水と稱へられて、遠く明暦のむかしに開通したことは人の知る所である。上水には玉川の他に神田及び千川の二流があつたことも亦説くに及ばない。子供の時分、音羽や小日向あたりの人家では、江戸時代の神田上水をそのまま使つてゐたやうに覚えてゐる。併し今日とはちがつて、其頃の水道を使用するには、上水の流れてゐる樋のところへ井戸を掘り、竹竿の先につけた釣鐘桶で水を汲んだのである。

江戸のむかし、上水は京橋、両国、神田あたりの繁華な町中を流れてゐたばかりで、辺鄙な山の手では、たとへば四谷また関口あたり、上水の通路になつてゐた処でも、濫にこれを使ふことはできなかつた。それ故おのれは水道の水で産湯をつかつた男だと言へば江戸でも最繁華な下町に生れ、神田明神でなければ山王様の氏子になるわけなので、山の手の者に対して生粋な江戸ツ児の誇りとなした所である。(むかし江戸といへば水道の通じた下町をさして言ったもので、小石川、牛込、また赤坂麻布あたりに住んでゐるものが、下町へ用たしに行く時には江戸へ行ってくると言ったさうである。)(17-32)


 これを読むと、明治の初め頃では、「小石川、牛込、また赤坂麻布あたりに住んでゐるものが、下町へ用たしに行く時には江戸へ行ってくると言った」ということも分かる。

 

 

九番目の義士 間新六が見せた壮烈な切腹(2)

[CAM] 2016年9月25日 09:00

> 間新六も父や兄と隔たれ、同志9名とともに、麻布日が窪にあった長府藩上屋敷へ収容された。・・・・・・厳戒の中、穏やかな年末年始を過ごした新六らは、2月4日に切腹を申しつけられた。

 長府藩側は、切腹を儀式的なものとみて、幕府役人らにある提案を行っている。

〔切腹の脇差の事、扇を紙にて包み、十本支度仕り置き・・・・・・・・〕(『毛利家記録』

 
 新六の切腹は九番目だった。藩士江良清吉が介錯刀を構える中、新六は周囲の意表を衝く行動に出た。

 
{間新六郎は肌を脱がず、前に三奉(宝)を置き、脇差をとり、腹に突き立てたると・・・・}(『毛利家記録』

 
 赤穂浪士たちが、直接腹部を切ることのない、扇腹に準ずる形で介錯を受けていくものと思っていたギャラリーにとって、新六の最期の姿は驚愕すべきものだったようだ。壮烈で激しい切腹を経て、間新六は24歳で散った。

 
 >・・・その夜のうちに、新六以外の九名の浪士の遺体は泉岳寺へ搬送されていった。・・・・・・

 ほどなく中堂夫婦(新六の姉夫婦)は、新六の遺体を、彼らの菩提寺でもあった築地本願寺の墓地に埋葬したとみられる。

 
>泉岳寺では、遺体を搬送された大石内蔵助ら45名と同様に、間新六にも戒名を授け、ともに墓碑を建てた・・・

 
>時は経て、昭和3年4月8日のこと、朝日新聞の片隅にこんな記事が小さく載った。

 
{義士の遺骨移葬

 東京市公園課では、築地本願寺の墓地にある赤穂義士間新六郎の墓を高輪泉岳寺に移すべく、東京府に向け、その許可申請をする事となった。すなわち現在間新六郎の墓は単に碑だけで、遺骨は築地本願寺に埋葬してあるのである}

 
>その後の顛末は、昭和4年12月15日の朝日新聞に詳しく紹介がなされていた。

 
{義士の遺骨が行方不明

 妙な因縁の間新六郎のため、討入りの日に慰霊

・・・・・

 昭和4年2月13日、区画整理のため本願寺の墓地が掘り返される事になり、・・・掘り返されたが、墓石の下から出たのは、若き勇士の骨とは似ても似つかぬ骨壺二つ、・・・

 ほかの同士の者は、遺志通り泉岳寺に葬られ、死後も永く亡君に奉仕できたのに、新六郎だけは遺骨のありかも知れないとあっては浮かばれまいというので、14日の慰霊祭となったのである。}

 
>現在ではわずかに残される旧状写真によってしか確認はできないものの、昭和初年当時の新六の墓は元禄期の埋葬位置から、離れてしまっていたのである。

 結局、間新六の遺骨は見つかることもないまま、その後、墓石は現在の位置へ移動されていった。

 だが、その墓と、土に帰った遺骨は、主君浅野長矩が生まれ、事件当時に上屋敷が存在していた地からは間近にある。たった一人の赤穂浪士は、同志たちとは異端の地で、久遠に藩邸と主君の侍衛の任に就き続けているのだろう。

 
 『ものしり百科』では、触れられていないが、本願寺境内の供養塔には、このようなドラマが秘められていたのである。

 

 
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