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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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越前堀跡を歩く!

[株式会社 彦晴] 2018年11月11日 14:00


越前堀は福井藩松平越前守中屋敷を取り囲んでいた堀で、廻漕橋、栄橋などの橋が架かっていた。今回はこの越前堀跡を歩いてみようという企画です。現在の住所では隅田川沿いの新川1丁目からスタートして越前堀児童公園横切りを通り明正小学校を斜めに横断し、新川2丁目付近で八重洲通りを佃方面に進み再び隅田川に合流するコースとなります。

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前回の企画の新川右岸付近からのスタートとなります。今でも越前堀の地名が残されているマンションがありました。おそらくこのマンションの敷地内を越前堀は通っていたみたいです。

 

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そして、鍜治橋通りを横断すると、左手に越前堀児童公園が見えてきます。

 

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越前堀はこの公園で方向を南に変え、明正小学校へと向かいます。

越前堀児童公園の中には、越前堀跡の案内板や実際に出土した石垣

 

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及び霊岸島ノ石碑、霊岸島の由来についての説明板などがあります。

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そして、明正小学校校庭内を斜めに折れて進み、八重洲通を佃方面に進みます。

 

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新川2丁目の交差点には『越前堀』を名乗っている越前堀薬局がありました。

こちらの越前堀薬局は大正12年(1923)から売薬店を始めた歴史のある薬局です。

そのお店の前の植え込みには「越前堀の間知石」の説明板がありました。

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前方には中央大橋とリバーシティ21のマンション群が見えてきました。

もう、佃は目の前です。

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前回同様、越前堀の痕跡は発見できませんでした。

そして現在「越前堀」という住所表示はなくなってしまいましたが公園名、マンション名、店名でかろうじて残っていてそれを発見できました。

それにしても、江戸時代の大名屋敷は大きかったんだな!と感じた街歩きでした。

 

 

新川跡を歩く!

[株式会社 彦晴] 2018年11月10日 14:00

今回の企画は、1659年に河村瑞賢によって開削された新川跡を歩いてみようという企画です。

亀島川と新川の合流地点(新川一丁目3番付近)より隅田川と新川の合流地点の新川公園の「新川之跡」の石碑までを歩いてみました。

新川は現在の新川一丁目内を流れていました。新川には西より一ノ橋、二ノ橋、三ノ橋と三つの橋が架けられていました。江戸期より、両岸には酒屋や酒蔵が並び、明治・大正期まで下り酒問屋、地廻酒問屋、回船問屋などが多く集まっていました。しかし関東大震災、さらに東京大空襲で東京の酒類卸業の中心地、新川は全滅してしまいました。

そして、新川は昭和23年(1948)に埋め立て工事がはじまり翌24年に工事が完了しました。

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スタートは霊岸橋からです。霊岸橋のたもとにある自転車置き場から対岸を見ると緑の濃い場所が確認できます。こちらが新川と亀島川の合流地点です。護岸を注視してみましたがそれらしき痕跡は発見できませんでした。

 

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上の写真は一ノ橋付近です。そして永代通りに少し戻ると河村瑞賢屋敷跡の説明板があります。

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そして新川左岸には新川大神宮があります。

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新川大神宮については少し調べてみました。

"新川大神宮 霊岸島四日市町にあって、この地産土神である。大神宮とも神明宮ともいった寛永年間、伊勢内宮の社僧慶光院比丘尼が江戸に参府した際、ここに屋敷を拝領して旅亭とし、伊勢内外両皇太神宮を勧請し、遥拝所としたのがその草創とされている。文政・天保の間、江戸市中でも最も盛んに富突の行われた場所の一つである。"

『中央区史』より

 

奉納板をみてみましょう。今でも酒類に関係する企業名が確認できます。

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2018年の例大祭10月17日に執り行われた後だったので、境内北西部には清酒積樽が飾られていました。

 

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現在でも新川大神宮の隣には酒フーズ健康保険組合のビルが建っていました。新川跡付近に酒類の企業名が若干ではありますが、今でも確認できます。

そしてこの先が、新川公園となります。新川公園内に「新川の跡」の石碑及び新川の跡の説明板が立っています。

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そして、蔦に覆われた水門も確認できました。

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この隅田川との合流地点、左岸に以前から気になっていた渡海稲荷神社があります。

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この渡海稲荷神社の表示はあるものの中はどうなっているのかわかりません。

このシャッターの中には鳥居や祠があるのでしょうか?まずは『渡海』稲荷神社の名前が海を渡ると書き、また場所が新川入口というのが個人的にすごく興味があり少し調べてみました。

「渡海稲荷神社 祭神 宇賀魂命 創建宝永元年 明治初年上地、市部共有地となり改め二二坪を無料借地。戦後連合軍に接収され、解除後再建に着手した。崇敬者二千人。」

『中央区史』より

 

宝永元年は西暦1704年であるから新川が開削された後の創建となる。また、昭和20年代の火保図をチェックするとその付近は『 U.S.N.COMMANDER NAVAL FORCES FAR EASTMOTOR POOL 』と記載されており、進駐軍の集中配車場として利用されていたみたいです。今現在、この渡海稲荷神社の中はどうなっているのか気になりますね。

そして最後に、隅田川テラスへ出てみました。なんと、そこには「鷺」らしい鳥が出迎えてくれました。これには『びっくり』しました。

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今回この新川跡を歩いてみて、戦災復興のため埋め立てられてしまった新川の直接的な痕跡は発見できなかったが、新川に酒類業者が集まり繁栄していたこと、敗戦国として一時期占領されていたことなど多くのことを再認識する街歩きとなりました。

 

 

稲荷堀(とうかんぼり)跡を歩く!

[株式会社 彦晴] 2018年8月 4日 18:00


前回の箱崎川跡を歩くの終点であった、箱崎川第一公園の手前に行徳河岸の案内板があります。

先日この案内板を見つけた際、次は稲荷堀跡を歩こうと決めてました。

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箱崎川が日本橋川に交わる手前、上の地図では上に伸びる水路が確認できます。

これが、今回歩いてみた稲荷堀(とうかんぼり)です。まずはじめに稲荷の読みですが

音読みして「とうか」、俗に「とうかん」と呼ばれたそうです。私も仕事の関係で

このあたりをよく通るのでとうかん堀通りの名前は知ってましたが「とうかん」が

「稲荷」と書くと知ったのは中央区の観光検定を受験するために勉強している時の

ことでした。

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こちらのとうかん堀通りがこの水路跡にできた道路です。

右の写真は箱崎川跡を背にして蛎殻町交差点方面を撮ったものです。

つまり写真の右側が現在の日本橋蛎殻町、左側が日本橋小網町となります。

つまり、このとうかん堀通りが境界線となっております。

とうかん堀通りをしばらく進むと小網町側(左側)の歩道に稲荷堀跡の案内板があります。

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案内板の地図を見ると箱崎川から東堀留川まで通じていて、途中東方面に

分流して酒井雅楽頭邸や土井甲斐守邸などの大名の屋敷地の間を流れていました。

 

大体、蛎殻町の交差点で東に折れ再び北西へ進みます。

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この道を人形町方面に進むと左手には日本橋小学校が見えてきます。この日本橋小学校の前身が中央区立東華小学校です。この東華「とうか」の名も稲荷堀の「とうか」から名付けられたそうです。

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江戸末期には姫路藩酒井氏の藩邸があり、明治初期には西郷隆盛の屋敷がありました。

左の写真は日本橋小学校の裏側、小網町側からの撮った写真です。

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ところで、先ほどの「稲荷堀跡」の案内板によると

「『稲荷堀』の俗称は、堀の西側にあった安藤家屋敷の北西に稲荷神社が祀られていたことに由来します。」とあり、この稲荷神社とは?どこの稲荷神社のことだろうか自分なりに調べてみました。

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まず、最初に考えられるのが、明星稲荷神社です。現在の位置も日本橋小網4丁目にあり、安藤家屋敷跡内になります。しかし安藤家屋敷跡地の北西には立っていない。

明星稲荷神社は「失せ物」探して預ける神社としても有名だそうで、遠くは京都・大阪方面からのご参拝者もいるそうです。

 

第二に小網神社であろうか?

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"稲荷堀の名は、安藤邸の西方に稲荷(江戸図によっては明星稲荷、小網稲荷とも

記載)あったので、稲荷の音読「とうかぼり」、俗に「とうかんぼり」と呼ばれていた"

『川の地図辞典 江戸・東京23区編』菅原健二著より

とうかん堀通りの延長線上に小網神社が建ってます。そう考えるとこの稲荷神社とは?

 

それとも、銀杏稲荷であろうか?

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"その時分銀杏八幡は、まだ小高い山の上に祀られてあった。その山がちょうど私の家の北側の塀の外に見えて、その名の拠っててくるところの大銀杏が空に高く聳え立っていたものである。溝とも川ともつかぬ一すぢの小さな流れが、東から進んで来て、それがの塀に沿うて鍵なりに曲がって流れ込んでいた。これが稲荷堀で、まだ朝霧の晴れやぬ夏の朝など、この石垣のあひだへ鰻籠を仕掛けている人の姿を見たことを子供心にぼんやり憶えている"

「『郷土室だより』 第21号 ありなしやーわが幼児の記 岡倉由三郎著より」

結局のところ、答えは出ませんでした。

  

今回の街歩きでは、稲荷堀に関係するものの発見はありませんでしたが、「とうか」からいろいろと考え調べることがありました。

 

それから実際に歩いて感じたことは江戸時代の藩邸無駄に大きすぎでした。これが現代だったら、固定資産税でもかなり額になってしまうのではないでしょうか?

  

最後になりましたが、稲荷堀沿いの蛎殻町周辺は、明治から昭和初期にかけて陶磁器問屋が集中した場所でもありました。その名残りで人形町では毎年「せともの市」が開催されます。

因みに本年度の予定は8月6日(月)~8月8日(水)となっております。

もしかしたら、貴重な瀬戸物がリーズナブルな価格で手に入るかもしれません。

どうぞ皆さんお誘いの上、足をお運びください。

 

 

箱崎川跡を歩く!

[株式会社 彦晴] 2018年7月29日 14:00

箱崎川は、日本橋中洲から日本橋川までの本流1.06kmと日本橋中洲と日本橋箱崎町の間に流れる支川0.12kmからなりたっていました。そして昭和46年に本流が昭和47年に支川が埋め立てられ消滅しました。この際に日本橋箱崎町と日本橋中洲が日本橋蛎殻町、日本橋浜町と初めて陸続きとなりました。因みに日本橋中洲には「丁目」の設定がない単独町名となっています。その埋め立て地には首都高速道路と東京シティーエアーターミナルが建てられています。

その箱崎川跡を歩いてみようというのが今回の企画です。

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スタート地点は、清洲橋の少し上流地点となります。現在でも水門が残されていました。

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隅田川テラスから降りると、そこはあやめ第二公園でした。あやめの名前も、箱崎川の菖蒲橋からきています。右の写真は箱崎川の護岸跡だと思われます。護岸が右にカーブしていますが、この地が中洲の先端だった地です。

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「写真提供:中央区立京橋図書館」

手前の橋から男橋、菖蒲橋 女橋となっています。つまり中洲先端地区から浜町・蛎殻町方面を撮影したものです。

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あやめ公園を歩いていると、いくつもの箱崎川の護岸跡を確認することができます。

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「写真提供:中央区立京橋図書館」

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上の写真は昭和30年代の菖蒲橋の写真 下は現在の菖蒲橋跡の写真です。箱崎川の上は首都高速道路となっています。上下写真の右側の木々の部分の後側が金刀比羅宮となっています。菖蒲橋のたもとには、現在でも金刀比羅宮が立っています。

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左上の写真は金刀比羅宮の正面からの写真となります。玉垣奉納者をみると『中州 割烹 弥生』『中州 割烹 三田』『中州 割烹 中州』と割烹・料亭が多かったことに気がつきます。現在の中洲はマンションだらけで中洲にこんなに割烹・料亭があったとは想像できません。それから、中洲で忘れてならないのが真砂座です。

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「写真提供:中央区立京橋図書館」

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上の写真は大正時代の真砂座です。下の写真はマンションの植え込み部分に申し訳なさそうに残る真砂座跡の石碑です。

「真砂座は明治二十六年(1893)一月、日本橋区中州町に建設され、明治後半から大正時代の演劇史上にその名をとめた劇場で、やがて自由劇場を結び、後に築地小劇場へと発展していった・・・略

・・・二十六年以降中州といえば真砂座であり、真砂座といえば中州の代名詞でもあった」

                     『中央区史より』

しかし、立地の不便さから客足も遠のき大正六年には廃業となってしまった。

  

そして、首都高速浜町入口へと歩いてくるとそこはかつて箱崎川と浜町川の合流地点となります。

写真は右側が女橋、正面が川口橋、これより先は浜町川となります。

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「写真提供:中央区立京橋図書館」

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現在は、浜町緑道公園の入口となっています。

そして、東京シティーエアーターミナルを越えて箱崎方面へ進みます。今まで何百回と通ってきた歩道横にも箱崎川の護岸跡を発見しました。ボーと歩いていると何も気が付かないだなあと少し反省しました。

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左下の写真は新永久橋から蛎殻町方面を撮った写真です。右下の写真が現在の写真となります。左の写真はおそらく昭和40年代と思われます。写真左側の建物の窓枠と窓下の〇歯科の看板が一致しています。

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「写真提供:中央区京橋図書館」

そして、箱崎川第二公園,箱崎川第一公園へやってきました。

今回の街歩きもここが終点となります。亀島川の水門が見えてきました。

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箱崎川、今でも護岸跡はいたるところに残っています。日本橋中洲には今では当たり前のように行き来しているのに、つい46,47年前までは陸続きではなかったことが不思議に思いました。また、日本橋中洲の歴史を再確認する良い機会となりました。

  

それから暑い日が続いています。街歩きをする際は必ず帽子とこまめな給水を忘れずに実践するようにしてください。



 

 

東堀留川跡を歩く!

[株式会社 彦晴] 2018年5月 1日 14:00

皆さんも東堀留川を知っていると思いますが、もともと石神井川の河口部であったそうです。

「上流からの流れを失った旧石神井河口部は、あらためて伊勢町堀(西堀留川)と堀江町入堀(東堀留川)に整備されて日本橋川につながる河岸地として、舟運の中心的役割を果たすことになります。」『中央区立京橋図書館 郷土室だより 第156号より』

私はてっきり日本橋川から江戸の荷上場として堀り進められた堀だと思っていました。

今回はそんな東堀留川跡を歩いてみようという企画です。

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こちらの案内板は小舟町町1丁目にある西堀留川跡の案内板です。東堀留川は案内板の右の川となります。東堀留川には日本橋川から思案橋・親父橋・萬橋と三つの橋がありました。残念ながら昭和24年に埋め立てられ,今はこれらの橋を見ることはできません。思案橋と言えば江戸時代初期に遊郭に行くか劇場に行くか迷って思案したことから思案橋と呼ばれるようになったと言われています。下の写真は大正初期の思案橋の写真です。

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〈写真:中央区立京橋図書館 蔵〉

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日本橋川の接続地には現在でも水門が残っていました。この部分は小網町児童遊園になっていてこの公園の中に公衆便所があるのだが、この辺が思案橋のあった所となる。右の写真の路地の曲がり具合は上記の地図の東堀留川の屈曲具合にピッタリマッチします。

 

この路地に面した建物には、現代風にアレンジされた「倉庫建築」が今でも見受けられます。

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かつて東堀留川があったころ、この付近にはたくさんの倉庫群があったことでしょう。

私的には「江戸名所図会」の"堀留"の図会が頭に浮かんできました。

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そして、親父付近となります。東堀留川は写真手前から交差点の赤信号の方角に伸びていたことになります。そしてこちらの写真も大正初期の親父橋の写真となります。当たり前ですが2階建ての建物しか、確認できません。

「庄司甚右衛門 略 甚右衛門が町奉行所に召出された折々、本多佐渡守はじめ列席の面々皆親父・親父と呼んだので、人々もまた聞き伝えて親父と呼び、寛永五年十一月のころ、甚右衛門の発議で江戸方面から吉原へ渡る橋を架けた際、人これを呼んで親父橋と称した」『中央区史』より

思案橋、親父橋共に、橋に名称が元吉原に関係していたのですね。現在でも中央区日本橋として人の往来は見受けられますが、江戸初期はたくさんの人の往来があった橋だったことでしょう。

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〈写真:中央区立京橋図書館 蔵〉

そして、赤信号の交差点を直進すると堀留児童公園へと繋がります。

東堀留川の川幅はこの公園とほぼ一緒ぐらいあったと言われています。

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現在この公園の地下には災害対策用応急給水槽が埋められているようです。そして公園の先には日本橋保健センターがあります。日本橋保健センターは、東堀留川跡の上に建てられているのですが、建物の一部分がピロティになっていて、まるで川の流れを残したような構造となっていました。また、ピロティの壁面には3枚のタイル壁画がありました。

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これは、もしかして東堀留川にあった思案橋、親父橋、萬橋かなと思い、図書館で調べたり、日本橋保健センターに電話してお伺いしたりしたのですが結局はっきりしたことはわかりませんでした。(日本橋保健センターのスタッフの方にはお仕事中にいろいろ調べて頂きありがとうございました。)

恐らく、日本橋今昔の壁画だろうと思います。詳細をご存じ方はご教授頂ければ幸いです。

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そして、日本橋保健センターの隣にスーパーホテルというホテルが建っています。そのホテルのエントランスの植え込み部分にホテル建設中に見つかった東堀留川の船着石積の一部がありました。私の個人的な意見ですが、もうちょっと目立つところにもっと大きな案内板をつけてもらいたいと切に感じました。普通に歩いていたら、まず気付く人はいないでしょう。このホテルと日本橋保健センターの前あたりが萬橋のあったところとなります。そしてこの先の日本橋消防署堀留出張所前で"堀留め"となります。もちろん住所も中央区日本橋堀留町となります。

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小網児童遊園から日本橋消防署堀留出張所手前までが東堀留川跡になります。

あっという間の短い距離でしたが、旧東堀留川跡にはかつてそこに間違いなく川があったことを感じさせてくれる街歩きとなりました。

 

 

千社札スタンプラリーにチャレンジしてきました!

[株式会社 彦晴] 2018年3月 8日 09:00

先日、中央区観光協会特派員の意見交換会に参加してスタンプ台帳を

もらったので千社札スタンプラリーにチャレンジしてきました。

私は人形町、銀座、築地、月島、日本橋、京橋の順で回ってきました。

これがスタンプが全部を押した台帳です。

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【人形町】

人形町は大観音寺からのスタートです。

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大観音寺横の路地は芸者新道と呼ばれていたそうです。花街だったころの

芳町の面影を今に伝えています。右手はねぎま鍋で有名な「よし梅」です。

 

【銀座】

G Info の前は数寄屋橋公園です。

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その奥には、ただいま制服問題で何かと話題になっている泰明小学校が

あります。手前のオブジェは岡本太郎氏の"若い時計台"です。

 

【築地】

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寄り道して、築地本願寺で1枚パチリ!

築地場外市場は平日なのに混んでました。

 

【月島】

月島もんじゃ振興会協同組合は月島西仲通りの入り口にあります。

西仲通地域安全センターです。大正期の巡査派出所です。

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看板建築群が美しいですね!

 

【日本橋】

守護を表す獅子像と繁栄を表す麒麟像です。

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お約束の「日本国道路元標」のプレートもパチリ!

 

【京橋】

「京橋エドグラン」に初めて入りました。本当に京橋のランドマークと

なるでしょう。

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3月に入り、寒暖差が激しい日が続いてますがもう春はすぐそこまで来て

います。花粉症でない方は「千社札スタンプラリー」是非チャレンジして

みてください。(ちなみに私は極度の花粉症です。今日帰宅してから

鼻水はじゅるじゅる、目はウサギの目になってしまいました)