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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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京橋川跡を歩く!

[株式会社 彦晴] 2018年12月28日 12:00

今回も中央区にかつて存在した河川の跡を歩いてみようという企画です。そして今回の対象は京橋川です。京橋川は外濠川と同じく慶長年間に開削された水路と言われています。外濠川より現在の八重洲二丁目と銀座一丁目の境界線を東に、向かい白魚橋先で楓川・桜川(八町堀)三十間堀と合流していました。白魚橋と言えば三つ橋のひとつとしても有名ですね。

     弾正橋⇒楓川 白魚橋⇒京橋川 真福寺橋⇒三十間堀

今回はこの白魚橋跡付近から外堀通り付近までを歩くことになります。

この京橋川には東(桜川)から 白魚橋、新京橋、炭谷橋、京橋、紺屋橋、城辺橋の橋がありました。そして川岸には竹河岸、大根河岸が続いていました。しかしながら昭和29年から昭和34年に埋め立てられ現在は東京高速道路の一部となっています。この高速道路は首都高速道路 都市環状線と八重洲線に接続しています。この東京高速道路は無料で高速道路を屋上部分とするビルの不動産賃貸業を行っている民間企業となっています。よくKK線などと記載されている地図などもあると思います。

 

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上の写真は銀座一丁目の駐車場の写真ですがこちらの管轄は首都高速道路株式会社となっていました。この先に東京高速道路の新京橋出口と東銀座出口がありましたのでこれより先の高速下の不動産賃貸業は東京高速道路株式会社の管轄だと思います。

そして、目の前の通りは「木挽町仲通り」となります。銀座の東側にかつてあった木挽町は三十間堀が埋め立てられた際に、西銀座に対して東銀座と改称したそうです。このようにかつての旧町名が通り名に残されているとなんだかホットしますね。そして京橋川跡を外堀通りに向かって進むと昭和通りに交差します。ちょうど新京橋跡付近となります。

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そして昭和通りから少し入ったところに銭湯「銀座湯」を発見しました。

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銀座一丁目に銭湯があることにびっくりしました。でも安心してください銀座にあっても入浴料金は都内共通大人460円だそうです。私は今回入浴はできませんでしたが男湯の壁画は銀座四丁目交差点 女湯の壁画は隅田川花火だそうです。一度は入浴してみたいですね!

 

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そして、京橋川跡の左岸を外濠川跡に向かって進みます。「主婦と生活社」のビルそして、竹河岸ビルの看板が目に入ってきました。そうですこのあたりが"竹河岸"として栄えてあたりとなります。江戸時代、この地に竹商人が集まったことから「竹河岸」と呼ばれていたそうです。

さらに、その先には有名な、警察博物館があります。入館料は無料です。是非、皆さん足を運んでください。パトカーが出迎えてくれます。

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もう、目の前は京橋となります。京橋は日本橋と同年の1603年の架橋ととされています。その京橋周辺にはいくつもの名所旧跡が残されています。

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まず、煉瓦銀座の碑です。明治5年の銀座大火により、銀座煉瓦街がより推進されることとなり銀座通り沿い煉瓦街は明治6年に完成します。碑の後ろ側には煉瓦街を照らしたガス灯も復元されています。

また、京橋には現在3基の親柱が残されています。左下の写真が明治8年の石造アーチ橋の擬宝珠のある親柱が2基、そして煉瓦銀座の碑の隣に大正11年のアールデコ様式の橋の親柱が1基残されています。

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京橋横の交番は大正11年のアールデコ調の橋の親柱が模倣されています。

交番写真の右側は京橋大根河岸青物市場跡の記念碑となります。

京橋には江戸時代より大根などを中心とする野菜の荷上場があり、大正12年の関東大震災前まで青物市場があったのです。そして1935年に旧築地市場へと移転することとなります。そして今年2018年に豊洲市場へと移転することとなるのです。

 

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こちらの記念碑は江戸歌舞伎発祥の地の記念碑です。

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そして、京橋大根河岸青物市場跡の記念碑の裏に「京橋川の護岸」が残っています。写真の銅板には次のように記載されていました。

『京橋川の護岸』

 「天正18(1590)年、徳川家康が江戸に入った後に開削された京橋川は、両岸に河岸があり城下町の物流に重要な河川でした。その後、現代に入りその役目を終え、昭和38年~40年に埋め立てられました。

 護岸の一部は近代以降に積み直されたもので、埋め立て当時の形状のまま地中に残されています。」    "中央区環境土木部水とみどりの課"

今回のテーマ京橋川の遺構も見ることができました。

このように京橋付近は名所旧跡の宝庫となっています。記念碑の文言にしっかり目を通していると小一時間などすぐに過ぎてしまいます。

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京橋を過ぎ外堀通り方面へ進むと柳通りと交差します。この付近が紺屋橋跡となります。左岸上流部には「紺屋橋」の名が残った紺屋橋児童遊園がありました。もちろん紺屋橋の橋詰広場跡を利用した公園となっていました。

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上の写真が東京高速道路の西銀座入口の写真なのだが首都高のような緑色の西銀座との案内板もないのでわかりにくいし入りにくいと感じるのは私だけでしょうか?みなさん運転の際は、くれぐれもお気をつけください。

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この先、京橋川跡右岸の銀座桜通りを外堀通り方面に進みます。京橋川跡地はたくさんの商業施設、飲食施設などで賑わっていました。

そして目の前には有楽町の信号がそうです外堀通りに到着です。

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今回の街歩きも終点に到着しました。京橋川は東京高速道路株式会社の自動車道路建設のために埋め立てられました。そしてその高速道路の下には駐車場、商業施設、飲料施設ができていました。かつてそこに河川が存在したことを実感させるものは京橋にあった「京橋川の護岸」だけでした。しかしながら、竹河岸ビルや紺屋橋児童遊園などの名前から京橋川の存在を推測した街歩きとなりました。

 

 

桜川(八町堀)跡を歩く!

[株式会社 彦晴] 2018年11月30日 18:00

今回の企画も中央区に実在した川跡を歩いてみようという企画です。

そしてその川は桜川です。

桜川は江戸期には「八町堀」と呼ばれていました。(それは河口からの長さが約八町の堀であったことに由来すると言われています。そして現在の表記は「八丁堀」に変わりました。)その後明治13年(1880)に東京府達で桜川と改められました。「楓川」に対して「桜川」にしたと言われています。新桜橋、桜橋、中ノ橋、八丁堀橋、稲荷橋の橋が架けられていました。桜川は楓川と京橋川との合流地点、弾正橋際(新富一丁目)より亀島川(湊一丁目)へ合流していました。この桜川は昭和35年(1960)に埋め立て工事が始まり、昭和47年に八丁堀橋下流部までの工事は終了しました。そして最後まで残されていた河口部分も昭和61年(1986)に埋め立てられ桜川は姿を消すこととなります。

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弾正橋からのスタートとなります。弾正橋の下はもともと楓川が流れていて、この橋の際で桜川がスタートします。現在では楓川は首都高速になっており、水の代わりに自動車が流れていました。それから弾正橋と言えば「三ツ橋」のひとつとして有名ですね。来年の第11回中央区観光検定に出るかもしれません。忘れていた方は要復習です。

現在、桜川と楓川の合流地点には、首都高速道路株式会社 新富分室と警視庁高速道路交通高速警察隊の建物が建っています。

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新桜橋より八丁堀方面へ進み桜橋付近です。左下は桜橋ポンプ場の写真です。そして右下は労働スクエア東京跡地となります。いずれも桜川の跡地にありました。

労働スクエア東京跡地には図書館を中心とした生涯学習の拠点施設の建設の計画があるらしいです。

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そして、桜橋付近より鍜治橋通りを八丁堀方面へ向かいます。

右手に見えてきたのが京華スクエアが見えてきます。もともと京華小学校があったところで、角を大きくカーブした曲線を使うなど趣きのある建物が残っています。

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この京華スクエアの前に「八丁堀の与力・同心組屋敷跡」の説明板が立っています。

八丁堀と言えば、町奉行配下の与力・同心たちの代名詞であり、私も幼い頃テレビで時代劇を観ていると"八町堀の旦那"などのセリフが使われていたのを思い出します。

この「八町堀」の北岸から茅場町付近に与力・同心組屋敷が集中していたということです。

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そして、新大橋通りまで歩いてくると、そこはもう八丁堀駅となります。

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すぐ隣接したところに、「中ノ橋北東児童遊園 中央区」「中央区立 桜川公園」の表札がありました。ちょっと不思議に思いましたが今回の桜川跡を歩く!にはもってこいの表札なので

どちらも使わせていただきました。そうです、この八丁堀駅前こそ新大橋通りに架かっていた中ノ橋付近となります。

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桜川公園の入口の橋に入一地蔵菩薩と入一観音菩薩があります。こちらのお地蔵様と観音様についても少し調べてみました。

桜川を埋め立てる前からあったそうなのですが、いつ頃建てられたものなのか、はっきりした資料は残っていないとのことでした。現在でも中央区ではなく、入船の町内会で管理しているとのことでした。また、お地蔵と観音様の隣には虫歯祈祷石なるものがあり、歯が痛くなった人たちが、治癒を願いお祈りをしていたのですね。日本の民間信仰を垣間見ることができました。

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桜川公園内には、八丁堀(桜川)跡の説明板もあります。

そして公園を通過しますと、「東京都中央区立 桜川保育園」「東京都中央区立 桜川敬老館」「中央区立女性センター ブーケ21」「中央区立桜川屋上公園」などが建てられ、桜川跡は中央区の公園・施設に有効利用されています。

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そして桜川保育園、桜川敬老館と中央区立女性センター、桜川屋上公園の間の道路は「居留地中央通り」となります。この居留地中央通りを南に進むと明治元年に設置された築地外国人居留地跡(現在の明石町地区)へと続いています。「居留地中央通り」今はなき外国人居留地を思い出させる素敵なネーミングですね。

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それから、この「桜川屋上公園」侮れません。屋上には庭園があり、水が流れており都会の喧騒を忘れさせてくれる癒しのスポットとなっていました。また大きな広場もあり魅力的な公園となっていました。

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そして桜川屋上公園を降りてきますと、前の通りは「鉄砲洲通り」となります。

こちら南に進むと、もちろん鉄砲洲稲荷神社へと続きます。そこには桜川河口の橋稲荷橋の橋名板が残っていました。もう目の前は亀島川です。

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左の写真は稲荷橋跡より南高橋を臨む写真です。

右の写真は桜川跡の河口付近となります。そろそろ今回の街歩きも終点となりました。

そして今回の街歩きを通じて、桜川は中央区の他の埋め立てられた河川のような震災復興、戦災復興や東京オリンピックの開催のために埋められたのではなく、中央区立公園・施設が建てられ有効利用されているがよくわかりました。また、桜川という名称もその区立の公園、施設に残されていました。

それにしても、労働スクエア東京跡地には、いったいいったい何が建つのでしょうか?


 

 

越前堀跡を歩く!

[株式会社 彦晴] 2018年11月11日 14:00


越前堀は福井藩松平越前守中屋敷を取り囲んでいた堀で、廻漕橋、栄橋などの橋が架かっていた。今回はこの越前堀跡を歩いてみようという企画です。現在の住所では隅田川沿いの新川1丁目からスタートして越前堀児童公園横切りを通り明正小学校を斜めに横断し、新川2丁目付近で八重洲通りを佃方面に進み再び隅田川に合流するコースとなります。

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前回の企画の新川右岸付近からのスタートとなります。今でも越前堀の地名が残されているマンションがありました。おそらくこのマンションの敷地内を越前堀は通っていたみたいです。

 

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そして、鍜治橋通りを横断すると、左手に越前堀児童公園が見えてきます。

 

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越前堀はこの公園で方向を南に変え、明正小学校へと向かいます。

越前堀児童公園の中には、越前堀跡の案内板や実際に出土した石垣

 

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及び霊岸島ノ石碑、霊岸島の由来についての説明板などがあります。

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そして、明正小学校校庭内を斜めに折れて進み、八重洲通を佃方面に進みます。

 

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新川2丁目の交差点には『越前堀』を名乗っている越前堀薬局がありました。

こちらの越前堀薬局は大正12年(1923)から売薬店を始めた歴史のある薬局です。

そのお店の前の植え込みには「越前堀の間知石」の説明板がありました。

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前方には中央大橋とリバーシティ21のマンション群が見えてきました。

もう、佃は目の前です。

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前回同様、越前堀の痕跡は発見できませんでした。

そして現在「越前堀」という住所表示はなくなってしまいましたが公園名、マンション名、店名でかろうじて残っていてそれを発見できました。

それにしても、江戸時代の大名屋敷は大きかったんだな!と感じた街歩きでした。

 

 

新川跡を歩く!

[株式会社 彦晴] 2018年11月10日 14:00

今回の企画は、1659年に河村瑞賢によって開削された新川跡を歩いてみようという企画です。

亀島川と新川の合流地点(新川一丁目3番付近)より隅田川と新川の合流地点の新川公園の「新川之跡」の石碑までを歩いてみました。

新川は現在の新川一丁目内を流れていました。新川には西より一ノ橋、二ノ橋、三ノ橋と三つの橋が架けられていました。江戸期より、両岸には酒屋や酒蔵が並び、明治・大正期まで下り酒問屋、地廻酒問屋、回船問屋などが多く集まっていました。しかし関東大震災、さらに東京大空襲で東京の酒類卸業の中心地、新川は全滅してしまいました。

そして、新川は昭和23年(1948)に埋め立て工事がはじまり翌24年に工事が完了しました。

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スタートは霊岸橋からです。霊岸橋のたもとにある自転車置き場から対岸を見ると緑の濃い場所が確認できます。こちらが新川と亀島川の合流地点です。護岸を注視してみましたがそれらしき痕跡は発見できませんでした。

 

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上の写真は一ノ橋付近です。そして永代通りに少し戻ると河村瑞賢屋敷跡の説明板があります。

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そして新川左岸には新川大神宮があります。

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新川大神宮については少し調べてみました。

"新川大神宮 霊岸島四日市町にあって、この地産土神である。大神宮とも神明宮ともいった寛永年間、伊勢内宮の社僧慶光院比丘尼が江戸に参府した際、ここに屋敷を拝領して旅亭とし、伊勢内外両皇太神宮を勧請し、遥拝所としたのがその草創とされている。文政・天保の間、江戸市中でも最も盛んに富突の行われた場所の一つである。"

『中央区史』より

 

奉納板をみてみましょう。今でも酒類に関係する企業名が確認できます。

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2018年の例大祭10月17日に執り行われた後だったので、境内北西部には清酒積樽が飾られていました。

 

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現在でも新川大神宮の隣には酒フーズ健康保険組合のビルが建っていました。新川跡付近に酒類の企業名が若干ではありますが、今でも確認できます。

そしてこの先が、新川公園となります。新川公園内に「新川の跡」の石碑及び新川の跡の説明板が立っています。

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そして、蔦に覆われた水門も確認できました。

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この隅田川との合流地点、左岸に以前から気になっていた渡海稲荷神社があります。

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この渡海稲荷神社の表示はあるものの中はどうなっているのかわかりません。

このシャッターの中には鳥居や祠があるのでしょうか?まずは『渡海』稲荷神社の名前が海を渡ると書き、また場所が新川入口というのが個人的にすごく興味があり少し調べてみました。

「渡海稲荷神社 祭神 宇賀魂命 創建宝永元年 明治初年上地、市部共有地となり改め二二坪を無料借地。戦後連合軍に接収され、解除後再建に着手した。崇敬者二千人。」

『中央区史』より

 

宝永元年は西暦1704年であるから新川が開削された後の創建となる。また、昭和20年代の火保図をチェックするとその付近は『 U.S.N.COMMANDER NAVAL FORCES FAR EASTMOTOR POOL 』と記載されており、進駐軍の集中配車場として利用されていたみたいです。今現在、この渡海稲荷神社の中はどうなっているのか気になりますね。

そして最後に、隅田川テラスへ出てみました。なんと、そこには「鷺」らしい鳥が出迎えてくれました。これには『びっくり』しました。

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今回この新川跡を歩いてみて、戦災復興のため埋め立てられてしまった新川の直接的な痕跡は発見できなかったが、新川に酒類業者が集まり繁栄していたこと、敗戦国として一時期占領されていたことなど多くのことを再認識する街歩きとなりました。

 

 

稲荷堀(とうかんぼり)跡を歩く!

[株式会社 彦晴] 2018年8月 4日 18:00


前回の箱崎川跡を歩くの終点であった、箱崎川第一公園の手前に行徳河岸の案内板があります。

先日この案内板を見つけた際、次は稲荷堀跡を歩こうと決めてました。

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箱崎川が日本橋川に交わる手前、上の地図では上に伸びる水路が確認できます。

これが、今回歩いてみた稲荷堀(とうかんぼり)です。まずはじめに稲荷の読みですが

音読みして「とうか」、俗に「とうかん」と呼ばれたそうです。私も仕事の関係で

このあたりをよく通るのでとうかん堀通りの名前は知ってましたが「とうかん」が

「稲荷」と書くと知ったのは中央区の観光検定を受験するために勉強している時の

ことでした。

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こちらのとうかん堀通りがこの水路跡にできた道路です。

右の写真は箱崎川跡を背にして蛎殻町交差点方面を撮ったものです。

つまり写真の右側が現在の日本橋蛎殻町、左側が日本橋小網町となります。

つまり、このとうかん堀通りが境界線となっております。

とうかん堀通りをしばらく進むと小網町側(左側)の歩道に稲荷堀跡の案内板があります。

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案内板の地図を見ると箱崎川から東堀留川まで通じていて、途中東方面に

分流して酒井雅楽頭邸や土井甲斐守邸などの大名の屋敷地の間を流れていました。

 

大体、蛎殻町の交差点で東に折れ再び北西へ進みます。

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この道を人形町方面に進むと左手には日本橋小学校が見えてきます。この日本橋小学校の前身が中央区立東華小学校です。この東華「とうか」の名も稲荷堀の「とうか」から名付けられたそうです。

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江戸末期には姫路藩酒井氏の藩邸があり、明治初期には西郷隆盛の屋敷がありました。

左の写真は日本橋小学校の裏側、小網町側からの撮った写真です。

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ところで、先ほどの「稲荷堀跡」の案内板によると

「『稲荷堀』の俗称は、堀の西側にあった安藤家屋敷の北西に稲荷神社が祀られていたことに由来します。」とあり、この稲荷神社とは?どこの稲荷神社のことだろうか自分なりに調べてみました。

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まず、最初に考えられるのが、明星稲荷神社です。現在の位置も日本橋小網4丁目にあり、安藤家屋敷跡内になります。しかし安藤家屋敷跡地の北西には立っていない。

明星稲荷神社は「失せ物」探して預ける神社としても有名だそうで、遠くは京都・大阪方面からのご参拝者もいるそうです。

 

第二に小網神社であろうか?

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"稲荷堀の名は、安藤邸の西方に稲荷(江戸図によっては明星稲荷、小網稲荷とも

記載)あったので、稲荷の音読「とうかぼり」、俗に「とうかんぼり」と呼ばれていた"

『川の地図辞典 江戸・東京23区編』菅原健二著より

とうかん堀通りの延長線上に小網神社が建ってます。そう考えるとこの稲荷神社とは?

 

それとも、銀杏稲荷であろうか?

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"その時分銀杏八幡は、まだ小高い山の上に祀られてあった。その山がちょうど私の家の北側の塀の外に見えて、その名の拠っててくるところの大銀杏が空に高く聳え立っていたものである。溝とも川ともつかぬ一すぢの小さな流れが、東から進んで来て、それがの塀に沿うて鍵なりに曲がって流れ込んでいた。これが稲荷堀で、まだ朝霧の晴れやぬ夏の朝など、この石垣のあひだへ鰻籠を仕掛けている人の姿を見たことを子供心にぼんやり憶えている"

「『郷土室だより』 第21号 ありなしやーわが幼児の記 岡倉由三郎著より」

結局のところ、答えは出ませんでした。

  

今回の街歩きでは、稲荷堀に関係するものの発見はありませんでしたが、「とうか」からいろいろと考え調べることがありました。

 

それから実際に歩いて感じたことは江戸時代の藩邸無駄に大きすぎでした。これが現代だったら、固定資産税でもかなり額になってしまうのではないでしょうか?

  

最後になりましたが、稲荷堀沿いの蛎殻町周辺は、明治から昭和初期にかけて陶磁器問屋が集中した場所でもありました。その名残りで人形町では毎年「せともの市」が開催されます。

因みに本年度の予定は8月6日(月)~8月8日(水)となっております。

もしかしたら、貴重な瀬戸物がリーズナブルな価格で手に入るかもしれません。

どうぞ皆さんお誘いの上、足をお運びください。

 

 

箱崎川跡を歩く!

[株式会社 彦晴] 2018年7月29日 14:00

箱崎川は、日本橋中洲から日本橋川までの本流1.06kmと日本橋中洲と日本橋箱崎町の間に流れる支川0.12kmからなりたっていました。そして昭和46年に本流が昭和47年に支川が埋め立てられ消滅しました。この際に日本橋箱崎町と日本橋中洲が日本橋蛎殻町、日本橋浜町と初めて陸続きとなりました。因みに日本橋中洲には「丁目」の設定がない単独町名となっています。その埋め立て地には首都高速道路と東京シティーエアーターミナルが建てられています。

その箱崎川跡を歩いてみようというのが今回の企画です。

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スタート地点は、清洲橋の少し上流地点となります。現在でも水門が残されていました。

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隅田川テラスから降りると、そこはあやめ第二公園でした。あやめの名前も、箱崎川の菖蒲橋からきています。右の写真は箱崎川の護岸跡だと思われます。護岸が右にカーブしていますが、この地が中洲の先端だった地です。

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「写真提供:中央区立京橋図書館」

手前の橋から男橋、菖蒲橋 女橋となっています。つまり中洲先端地区から浜町・蛎殻町方面を撮影したものです。

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あやめ公園を歩いていると、いくつもの箱崎川の護岸跡を確認することができます。

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「写真提供:中央区立京橋図書館」

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上の写真は昭和30年代の菖蒲橋の写真 下は現在の菖蒲橋跡の写真です。箱崎川の上は首都高速道路となっています。上下写真の右側の木々の部分の後側が金刀比羅宮となっています。菖蒲橋のたもとには、現在でも金刀比羅宮が立っています。

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左上の写真は金刀比羅宮の正面からの写真となります。玉垣奉納者をみると『中州 割烹 弥生』『中州 割烹 三田』『中州 割烹 中州』と割烹・料亭が多かったことに気がつきます。現在の中洲はマンションだらけで中洲にこんなに割烹・料亭があったとは想像できません。それから、中洲で忘れてならないのが真砂座です。

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「写真提供:中央区立京橋図書館」

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上の写真は大正時代の真砂座です。下の写真はマンションの植え込み部分に申し訳なさそうに残る真砂座跡の石碑です。

「真砂座は明治二十六年(1893)一月、日本橋区中州町に建設され、明治後半から大正時代の演劇史上にその名をとめた劇場で、やがて自由劇場を結び、後に築地小劇場へと発展していった・・・略

・・・二十六年以降中州といえば真砂座であり、真砂座といえば中州の代名詞でもあった」

                     『中央区史より』

しかし、立地の不便さから客足も遠のき大正六年には廃業となってしまった。

  

そして、首都高速浜町入口へと歩いてくるとそこはかつて箱崎川と浜町川の合流地点となります。

写真は右側が女橋、正面が川口橋、これより先は浜町川となります。

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「写真提供:中央区立京橋図書館」

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現在は、浜町緑道公園の入口となっています。

そして、東京シティーエアーターミナルを越えて箱崎方面へ進みます。今まで何百回と通ってきた歩道横にも箱崎川の護岸跡を発見しました。ボーと歩いていると何も気が付かないだなあと少し反省しました。

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左下の写真は新永久橋から蛎殻町方面を撮った写真です。右下の写真が現在の写真となります。左の写真はおそらく昭和40年代と思われます。写真左側の建物の窓枠と窓下の〇歯科の看板が一致しています。

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「写真提供:中央区京橋図書館」

そして、箱崎川第二公園,箱崎川第一公園へやってきました。

今回の街歩きもここが終点となります。亀島川の水門が見えてきました。

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箱崎川、今でも護岸跡はいたるところに残っています。日本橋中洲には今では当たり前のように行き来しているのに、つい46,47年前までは陸続きではなかったことが不思議に思いました。また、日本橋中洲の歴史を再確認する良い機会となりました。

  

それから暑い日が続いています。街歩きをする際は必ず帽子とこまめな給水を忘れずに実践するようにしてください。