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中央区立京橋図書館のサンクンガーデン

[湊っ子ちゃん] 2019年1月18日 14:00

sunken03m.JPGこんにちは、湊っ子ちゃんです。
中央区には、京橋図書館、日本橋図書館、月島図書館の、3つの中央区立図書館があります。

今日は、中央区立京橋図書館の入口前に広がる、"サンクンガーデン"をご紹介したいと思います。


中央区立京橋図書館のサンクンガーデンは、車歩道から一段下がった場所にあり、開放感のある広い空間です。このように、地面より低い場所にある庭を、建築用語でサンクンガーデン(sunken garden)と呼ぶそうです。階段と、スロープもありますので、自転車やベビーカー、車椅子などでお越しの際も、便利です。

♪ サンクンガーデンの花たち

サンクンガーデンには、円形の花壇が並んでいます。いつもきれいに整えられ、季節の花が私たちをやさしく出迎えてくれます。

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それぞれの花壇には、ヒノキ科の低木が一本シンボルとして立っており、その周りに花が植えられているスタイルです。

今の季節は、シクラメン・パンジー・スイートアリッサム・マーガレット・ビオラなどが色鮮やかに咲いています。クリスマスの季節は、花壇がリボンで飾られて、楽しい気分にさせてくれます。


sunken04m.jpg♪ サンクンガーデンの掲示板

また、中央区立京橋図書館のサンクンガーデンには、掲示板が立っています。

ここには、定期的に様々な写真が展示され、中央区の歴史や町並みなどを紹介しています。
中央区立図書館ウェブサイトの、「Webギャラリー中央区立図書館コレクション」を紙媒体で紹介しています。

手作りの掲示板は、温かみがあって、見る人を和ませてくれるようですね。

♪ 中央区立京橋図書館の歴史
現在の中央区立京橋図書館の建物は、中央区役所と一体であり、佐藤武夫氏の設計、昭和44年(1969)の竣工です。

中央区立京橋図書館の歴史は古く、明治43年(1910)にまでさかのぼります。京橋尋常小学校内で開館された、東京市立京橋簡易図書館としての始まりでした。現在の場所に移ったのは、昭和4年(1929)のことです。

戦火を免れたことで、戦前に出版された図書が多く残り、貴重な資料を所蔵する、都内屈指の図書館です。また、地域資料室には中央区関連の資料はもちろん、東京23区や多摩地域の資料も揃えられています。

中央区立京橋図書館の所蔵図書は、平成30年4月現在、34.5万冊、雑誌253種、CD・DVD 8733タイトル、新聞19紙、座席数166席です。

好きな本を選んだ帰り道、ぜひ、サンクンガーデンの花たちを眺めてみてくださいね。

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中央区立京橋図書館 中央区築地1-1-1

※図書館と区役所は、中でつながっていませんので、ご注意ください。

中央区観光協会特派員 湊っ子ちゃん

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第32号 平成30年1月16日

 

 

中央区の歩道っておもしろい!23【ポラバ・バンガロー】

[湊っ子ちゃん] 2019年1月14日 09:00

こんにちは、湊っ子ちゃんです。
前回まで、明治時代に築地外国人居留地のあった、明石町周辺の通りを歩いてきました。
今日は、隅田川畔に、平成の時代まで現存していた、「ポラバ・バンガロー」と呼ばれる外国人住宅について、ご紹介したいと思います。
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名称=POLABA BUNGALOW
所在地=東京都中央区明石町8
設計者=J・バーガミニィ
施工者=清水組
竣工年=大正13年~14年(1924~25)
建築面積=66坪791(220,752㎡)
基礎=布基礎
木造平屋建

平成元年(1989)、聖路加国際病院の再開発事業が施行されました。現在、聖路加ガーデンの建つ場所にあったトイスラー記念館は、病院内の中庭に移築されましたが、じつは同じ敷地内にもう2軒、木造平屋建ての洋館が建っていました。そのうちの1軒が、「ポラバ・バンガロー」です。
「ポラバ・バンガロー」は、明治期におけるアメリカ公使館跡地に位置しました。病院関係者のための、外国人住宅でした。竣工は大正13年頃と推定されており、トイスラー記念館よりも早くから、そこに建っていたことになります。
"ポラバ女史"が住んでいた家のようですが、建築当初の設計図など、詳細な資料は残っていません。また、ポラバ女史について知る人も、長い時を隔てた今では、みつけることができませんでした。

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外観は、和風の木造平屋でした。しかし、ひとたび調査が開始されると、思いがけない建築様式が明るみにでたのです。それは、当時の日本ではまだ珍しい、アメリカ住宅の建築様式である、「2×4(ツー・バイ・フォー)工法」(枠組み壁工法)が用いられていたことです。

さらに、居室はすべて洋室でした。明らかに、外国人のための住宅でした。 この建物の歴史的価値が認められ、近く取り壊される予定のなか、本格的な調査が行われました。

♪ ポラバ・バンガロー建設の経緯
大正12年(1923)に起きた関東大震災は、築地外国人居留地の面影をすべて奪い去ったばかりか、病院の建物にも甚大な被害をもたらしました。 仮病院を建てるため、アメリカから船で建築資材が運ばれました。木材や石綿スレート、瓦葺きなどです。それは、復興において早急に建てられた、バラック建築でした。

関係者の話によると、「仮病院を建てた残りの資材で、2軒の家を建てた」というのです。トイスラー記念館のそばに建っていた、木造平屋建ての2軒であろうと考えられています。竣工は、仮病院と同じ時期、大正13年6月頃と推測できます。

♪ ポラバ・バンガローの間取り

ポラバ・バンガローは、東西に棟を伸ばした形の中廊下型の家です。ポラバ女史の後、ミス・ポンド(ヌノ女史の説もある)が住んでいましたが、さらに住人が増えることになり、昭和8年(1933)、増築が行われました。

その時の各資料が、聖路加国際病院に残っています。図面には、 「POLABA BUNGALOW」 と記されていました。この建物が、ポラバ・バンガローと呼ばれる所以です。

また、増築における設計者は、J・バーガミニィと記されていました。 昭和8年といえば、病院の第1期工事が完了し、トイスラー記念館が新築された年です。いずれも設計は、J・バーガミニィ。おそらく、ポラバ・バンガローの増築は、これらと同時期に手掛けられたものと思われます。


madormim.png玄関の北側には、「サーバント・ルーム」が2部屋設けられていました。これは和室であり、おそらく使用人に日本人を雇うことを前提にしたものと思われます。 廊下を中心に、南側にはリビングルーム、ダイニングルーム、ベッドルーム、バスルームがあり、北側にはキッチン、収納室があります。増築では、リビングルームが拡張され、その脇に玄関を増やしました。

増築に伴い、警察署へ届け出た「設計変更及暖房設置願届」が残っています。おそらく、住人が増えること、今後しっかりとした住環境が必要になったためと思われます。すなわち、ポラバ・バンガローは、震災直後、応急処置的に建てられたバラック建築であったことを裏付けるものです。

♪ポラバ・バンガローの建築様式

polaba03m.png【軸組】

布基礎の上に、土台を置き、土台の上に縦枠の間柱が直接立っています。 下見板張りの外壁を取り除いたところ、中には幅約10センチメートルの板が、45度の角度で、斜めにびっしりと貼られていました。 さらにそれを取り除くと、3分の1角の間柱が、窓の位置とは関係なく、等間隔で立てられていることがわかったのです。これは、日本の建築様式とは明らかに違う点です。

また、間柱と間柱のあいだには、セメントブロックが挟み込まれていました。同じ工法が用いられている例として、群馬県指定重要文化財である、旧アメリカン・ボード宣教師館においても見られ、鼠避けであろうと考えられています。アメリカの住宅建築では、一般的に用いられていた方法である可能性があります。

masard.png【小屋組】

軒の低いマンサード屋根(腰折れ屋根)です。洋式の屋根でありながら、小屋組においては、トラス構造ではなく、和小屋方式がとられています。仕上げは、母屋がトタン葺、庇が波形石綿スレートです。

【内装 】

リビングルームにおいては、木毛ボードを用い、その上に化粧合板を貼り付けています。この化粧合板は、病院本館2階の天井と、同じものだそうです。アメリカからの輸入材です。


【床組】 リビングルームの床を剥がしてみると、根太の上に下地板が斜め貼りにされ、その上に薄いカーペットが敷かれています。床材の斜め貼りは、2×4工法の特徴でもあります。

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アメリカの建築様式が取り入られていながら、随所には、在来工法が見え隠れしています。これは、設計者とは別に、実際に施工にあたった人物は日本人であり、慣れ親しんだ技法を使用したためであろうと考えられています。

洋風建築が日本に入ってきた明治期、このように工法が混在したケースは多く見られるものでした。日本の棟梁たちは、これまでの技術に誇りを持ちつつ、自分たちなりに解釈し、新しい工法を受け入れていった、過渡期であったことを物語っています。

♪ 日本における2×4工法
ポラバ・バンガローの特徴は、外観は和風木造平屋でありながら、完全なアメリカ住宅の様式を備えている点です。そのひとつに、「2×4(ツー・バイ・フォー)工法」(枠組み壁工法)があげられます。

2×4工法は、アメリカやカナダの、おもに住宅に用いられる工法です。細い間柱を等間隔に立て、梁などを組み合わせた骨組みに、下見板張りの外装板を貼付けて組み立てます。 アメリカの地形や歴史に培われた独自の技術であり、誰でも簡単に組み立てられる「プレハブ住宅」、という一面も持っています。

関東大震災の復興期、この建築様式が用いられた例は、多数存在するようです。 じつは、それよりもずっと前の時代にさかのぼり、2×4工法が、日本で取り入れられた初期の例として、北海道開拓使の建物が挙げられます。

明治2年(1869)、明治新政府によって設置された北海道開拓使は、アメリカの農務省の協力を得て組織されました。旧開拓使札幌博物場などが、重要文化財になっています。

その後、明治23年(1890)に、アメリカの組み立て住宅を持ち帰った例があり、これが民間でも2×4工法が導入されはじめた頃と見られています。

2×4工法が、日本において採用された経緯や段階を辿るうえでも、ポラバ・バンガローは鍵を握る存在です。

♪ バンガロー様式

「バンガロー」という形式に関しては、大正期における住宅改良運動において、海外より紹介された住宅様式のなかでも、最も日本人に適しているとされた、理想的住宅像でした。

大正12年(1923)における関東大震災の復興時、住宅不足解消のために、バンガロー形式が高く評価されるようになったのです。 「ポラバ・バンガロー」は、そういった風潮のなかで、それを実践したものと考えられます。

♪ ポラバ・バンガローのその後

昭和16年(1941)に、当時病院長であった橋本寛敏氏が、家族とともに住んだ記録が残されています。そのことから、「橋本記念館」の別名を持っています。

また、昭和52年(1977)からは、病院関係者の研修室や、会議室として利用され、「聖路加第二記念館」と呼ばれました。昭和60年(1985)には、再開発計画本部の事務所としても、その役割を担いました。

polabamap200.png歴史を物語る建物は、いつの日も保存を願う声と共にあります。ですが、維持・管理等の問題から、やむを得ず姿を消してゆく建物は、後を絶ちません。ポラバ・バンガローも、そのうちのひとつです。

今は姿のない建物だからこそ、その「記録」が、私たちに多くを物語ってくれる、そんな気がします。

参考文献: 中央区文化財調査報告書第1集「築地の外国人住宅」
聖路加国際病院の付属外国人住宅「ポラバ・バンガロー」に関する調査報告
平成4年 中央区教育委員会

中央区観光協会特派員 湊っ子ちゃん

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第31号 平成31年1月10日

 

 

湊のテラス モザイク壁画の散歩道

[湊っ子ちゃん] 2019年1月10日 09:00

湊二丁目東地区は、いま生まれ変わろうとしています。
この地域は、東京駅から1.5kmという好立地にあり、かねてより良い環境に恵まれた町でした。しかし、昭和の終わり頃からバブル経済等の影響を受け、空閑地が散在するなど、防災・防犯上の課題が生じました。
平成7年より、まちの再生に向けた地域の取り組みがスタートし、当初の計画より20余年を経て、平成28年11月に湊公園が開園、平成29年11月に湊二丁目東地区市街地再開発事業建物工事が完了しました。
 
湊二丁目より隅田川を望む湊公園には、シメイヨシノやオオデマリ、ドウダンツツジ・ムクゲなど、四季折々の樹木があり、ゆるやかなスロープと芝生にベンチ、ユリカモメなどの水鳥も訪れる、憩いの場となっています。

そして、テラスの歩道には、全長約50メートルほどのモザイク壁画が設置されています。今回ご紹介するのは、こちらの壁画です。

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このモザイク壁画は、中央区立福祉センターの皆さんによる作品です。

歌川広重、葛飾北斎などの浮世絵より、江戸時代の湊界隈にゆかりのある風景や人物を中心に、ガラス片や陶器のかけらなどを使って描かれています。

図柄は15枚ほどあり、水のきらめきや泡粒を思わせる模様や、湊の氏神、鉄砲洲稲荷神社の大屋根を形作ったと思われる造形などが、散りばめられています。 それではゆっくり歩きながら、鑑賞してみましょう。
 

♪ 歩道美術館へようこそ!
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こちらの絵は、鉄砲洲稲荷神社ですね。創建は今から千年前の平安時代。土地の産土神であると共に、水の安全を守り、「江戸湊に鉄砲洲あり」と称されるほど、船乗りたちの信仰を集めました。
 
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こちらは、湊のお祭風景ですね。鉄砲洲稲荷神社の例大祭。鳳凰を掲げた大神輿を、氏子衆が担ぐ躍動感あふれる構図です。力強い歓声が聴こえてきそうですね。宮元大神輿は、町神輿としては最大級、品格・伝統ともに日本一と称されます。
 
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「冨嶽三十六景 武陽佃島」葛飾北斎 天保2年(1831)
富士を背景に、漁師町であった佃島を中心に据え、今まさに漁舟や荷舟が佃島に向かって漕ぎ出してゆく瞬間を捉えた作品です。葛飾北斎の代表作、「冨嶽(ふがく)三十六景」シリーズの一枚です。

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「江戸百景余興 鉄砲洲築地門跡」歌川広重 安政5年(1858)
鉄砲洲前の江戸湊から、築地本願寺の大屋根を描いた作品です。本堂の大屋根は、舟が江戸湊に入るときの目印でした。じつは、安政3年(1856)に、大風雨で本堂は倒壊しています。この絵は再建される2年前に描かれたもので、広重は実際にはない大屋根を、描き込んだのです。人々の、復興への願いを表現したのかもしれません。

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「江戸名所百景 市中繁栄七夕祭」歌川広重 安政4年(1857)
富士山と江戸城を背景に、江戸の町を彩る、七夕祭の情景を描いた作品です。町屋の屋根の上、高く掲げられた短冊竹がどこまでも続きます。 旧暦7月7日が近くなると、江戸では大勢の竹売りの姿が見られました。当日は、子供の有無や貧富の差なく、誰もが葉竹に短冊をつけ、星に願いました。紙で作られた算盤や、大福帳、ホウズキ、西瓜などもあります。じつに趣ある光景です。
 
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しゃぼん玉売り
夏になると、「玉ヤ~~~」と歌いながら売りにきたそうです。シャボン玉粉を水に浸し、細い管を吹いてシャボン玉を作りました。
 
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太神楽(だいかぐら)
江戸時代のなかでも、時代ごとに形はすこし変わったそうですが、笛・小太鼓・大太鼓・鈴などで賑やかに小唄や狂言を歌い、毎日江戸の町中を歩き回ったそうです。
 

この他にも、図柄はまだたくさんあります。"モザイク壁画の散歩道"は、隅田川のきらめきと、中央大橋の勇姿、対岸には佃島を望む、リバーサイドの空間です。
 
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また、公園内に設置されているソーラー照明灯は、停電時でも灯りを確保できる仕組みになっており、ベンチにおいては、災害時に座面をはずし、かまどとして使用できる造りになっています。

天気のよい日など、お散歩がてら鑑賞してみてはいかがでしょうか。
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中央区観光協会特派員 湊っ子ちゃん
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第30号 平成31年1月7日

 

 

中央区の歩道っておもしろい!22【明石町緑道】

[湊っ子ちゃん] 2018年12月13日 12:00

green01m.jpgこんにちは、湊っ子ちゃんです。

今日は、聖路加ガーデン前の緑道を歩きたいと思います。

歩道内の植え込みは緑豊かで、小さな水路が走り、春には桜並木がきれいです。

明治時代、ここ明石町一帯に、築地外国人居留地があったことを物語る、貴重な遺構や記念碑を訪ねてみましょう。

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green02m.JPG♪ トイスラー記念館

昭和8年(1875)、隅田川畔に聖路加国際病院の宣教師館が建設されました。設計は、聖路加国際病院の設計にも携わった、J・バーガミニィ。鉄筋コンクリート造りの、一部木造を用いた2階建てで、ヨーロッパの山荘を思わせる、重厚な風格のある建物です。
外部に柱や梁を表現した、ハーフティンバー風の意匠を凝らしており、室内はチューダー・ゴシック風、玄関やリビングなどに、重厚な木の内装が施されています。平成10年に移築復元され、現在、聖路加国際病院の中庭に建っています。


green03m.jpg♪ アメリカ公使館

安政6年(1859)、初代アメリカ公使ハリスは、現在の港区善福寺に、アメリカ公使館を開設します。ついで翌年には、築地外国人居留地に公使館を新築し、ここに形容を整えました。木造2階建て、クリーム色の洋館だったといいます。

明治23年(1890)、現在のアメリカ大使館所在地、赤坂へ移ります。築地外国人居留地内の跡地には、小松石でできた5基の記念碑が残されていました。約1m四方の石材に、アメリカを象徴する文様が刻まれています。
この記念碑は、聖路加ガーデンの中庭に2基、聖路加国際病院の中庭、トイスラー記念館前に3基が保存されています。


green04m.jpg♪ ヘンリー・フォールズ住居跡

スコットランド一致長老教会の宣教医師ヘンリー・フォールズは、明治7年(1874)から同19年(1886)までの日本滞在の間、この地に居住しました。
日本で行われていた指印の習慣に興味を持ち、科学的な指紋の研究を行いました。明治13年(1880)、英国の雑誌「ネーチュア」に投稿した論文は、科学的指紋法に関する世界初の論文といわれ、その中で、犯罪者の個人識別の経験を発表し、指紋の遺伝関係にまで言及しました。のち明治44年(1911)、我が国の警察において、はじめて指紋法が採用されました。


♪ 隅田川畔にある記念碑

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1.築地運上所跡の地碑
江戸幕府は慶応3年(1867)、築地鉄砲洲明石町一帯を、築地外国人居留地と定め、税関業務等を行う運上所を設けました。これが、東京税関の始まりです。

2.電信創業の地碑
明治2年(1869)、横浜裁判所と東京築地運上所内に設けられた伝信機役所を結ぶ、約32キロメートルの電信線架設工事が始まりました。同年12月に業務を開始。我が国最初の公衆電気通信であり、文明開化に大きな役割を果たしました。


♪ 学校の記念碑
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1.青山学院記念の地碑 明治10年(1877)
2.明治学院発祥の地碑 明治10年(1877)
3.女子聖学院発祥の地碑 明治38年(1905)


green11m.jpg春になり、きらきらと光る水面に、桜の花びらの浮かぶ様子が、湊っ子は好きです。

水路には、小さな噴水があり、ほんの一歩でまたげるほどの、かわいらしい橋も架かっているんです。

ここは名もない道ですが、歩く人を楽しませてくれる、個性豊かな通りです。

中央区観光協会特派員 湊っ子ちゃん

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第29号 平成30年12月9日

 

 

中央区の歩道っておもしろい!21【居留地中央通り】

[湊っ子ちゃん] 2018年12月 3日 12:00

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こんにちは、湊っ子ちゃんです。
今日は、築地六丁目4番から湊一丁目1番までの、「居留地中央通り」を歩きたいと思います。この通りは、平成25年度に愛称のついた、京橋地域で一番新しい通りです。最近、整備の完了した入船・湊地域の歩道には、トキワヤマボウシの木が植えられました。

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♪ YEDO HOTEL


晴海通りに面した、築地市場内の駐車場は、その昔軍艦操練所があった場所です。

ペリーによる黒船艦隊の来航後、西洋式海軍の必要性に迫られた江戸幕府は、安政4年(1857)、この地にあった築地講武所内に、軍艦教授所を創設したのが始まりでした。

旗本や御家人、諸藩士から希望者を集めて、航海術・海上砲術の講習や、オランダから輸入した軍艦の運転の練習などが行われ、向将監(むかいしょうげん)や、勝海舟などが頭取を務めました。

慶応元年(1865)には、海軍所と改称されましたが、類焼により、現在の旧浜離宮庭園の地に移ります。

明治元年(1868)、新政府により「東京開市」が各国に通告され、今の明石町一帯に、築地外国人居留地が設けられました。海軍所跡地に建設された「築地ホテル館」は、「外国人旅館」「YEDO HOTEL(江戸ホテル)」などとも称され、交易で訪れた外国人のための逗留施設として開業しました。

kyotu10.png設計・施工は、清水喜助と考えられており、木造2階建、客室は102室もある大きなホテルでした。

外壁はなまこ壁、各室には暖炉が備え付けられて、海岸側にはベランダがあり、東京湾を一望できました。

また、印象的なのは、建物の中央には塔屋が設けられており、そこに鐘が吊るされて、さらに塔屋を中心に、左右対称の造りになっているところです。

これは、明治20年代まで各地に見られた、「擬洋風(開化式)建築」の典型的な特徴であり、外観は洋風でありながら、建築資材や技法は和式となっています。

しかしながら、明治5年(1872)、銀座の大火により、築地ホテル館は全焼してしまいました。


kyotu08.jpg♪ 築地外国人居留地への玄関口


さぁ、あかつき公園にさしかかりました。今のあかつき公園一帯は、かつて「明石堀」と呼ばれる大きなお堀でした。その中央に架かっていたのが、外国人居留地への玄関口とされた、「新栄橋」です。

居留地中央通りは、かつての新栄橋を渡る格好になっています。新橋から来た多くの外国人は、この橋を馬車で渡って、築地外国人居留地に入りました。

kyotu02.JPG♪ カトリック築地教会

聖ルカ通りを横切り、居留地通りと交差する地点、かつての居留地「36番」には、樹木に囲まれた小さな教会が、ひっそりとたたずんでいます。カトリック築地教会です。

カトリック築地教会は、明治7年(1874)、東京で最初の教会として、築地外国人居留地に建てられました。当初の名前は、築地聖ヨゼフ天主堂。東京で最初のカテドラル(司教座聖堂)でもありました。

kyotyu12.png明治11年(1878)、ゴシック様式赤レンガ造りの聖堂が建てられます。明治21年(1888)には、神学校内に暁星学園が発祥しました。ところが、関東大震災により焼失。現在の聖堂は、昭和2年(1927)、ジロジアス神父のもと再建されたものです。

レイ大司教の希望により、ギリシャ建築パルテノン型が採用され、ドリス式オーダー列柱、ペディメント(破風)には、チューリップとバラの彫刻が施されています。

明石町一帯は空襲を免れ、カトリック築地教会は、東京で最も古い教会のひとつとして、壮麗な姿を今に伝えています。

kyotu11.png聖堂の中に保存されているのは、「江戸のジャンヌ・ルイーズ」の愛称で親しまれた、アンジェラスの鐘です。明治9年(1876)にフランスのレンヌより贈られたもので、大小ふたつの鐘の対でした。ルイーズは小さいほう。大きいジョセフィーヌは、大正9年(1920)、大司教座と共に、関口教会へ移りました。


♪ 居留地中央通りに建つ記念碑

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1.明治14年(1881)雙葉学園発祥の地碑

2.明治15年(1882)立教女学校発祥の地碑

3.明治21年(1888)暁星学園発祥の地碑

4.明治28年(1895)関東学院大学発祥の地碑


また、居留地の外には、外国人に家を貸すことの許された「相対借地地域(雑居地)」というものがありました。居留地内には住まわず、この地区に住む外国人も多かったそうです。

相対借地地域は、居留地中央通りを沿うようにして、現在の築地六丁目・七丁目、入船・湊地域と、新富町がそれにあたりました。

今も入船地域では、聖路加国際病院の十字架がまっすぐに見える路地があります。地域のみなさんには、"十字架通り"の愛称で親しまれています。
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中央区観光協会特派員 湊っ子ちゃん

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第28号 平成30年12月2日

 

 

中央区の歩道っておもしろい!20【聖ルカ通り】

[湊っ子ちゃん] 2018年11月26日 14:00

lukes01m.jpgこんにちは、湊っ子ちゃんです。
今日は、築地三丁目8番から、明石町9番までの「聖ルカ通り」を歩きたいと思います。

聖ルカ通りに木漏れ日を降らすのは、アメリカより友好の印として贈られたハナミズキです。

明治元年(1868)から同32年(1899)まで、現在の明石町一帯には、築地外国人居留地が置かれ、宣教師や医師などが多く居住し、日本における布教活動の拠点となりました。明治8年(1875)にはアメリカ公使館が設けられるなど、アメリカとの関わりが深い地域です。

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lukes03m.jpg♪ 明石町のシンボル聖路加

明治33年(1900)、宣教医師R・Bトイスラーが来日、同34年に築地病院を聖路加病院と改称し発足します。同37年には聖路加看護学校を開設し、ここにトイスラーの目指した、信仰・医療・看護教育という、3つの基本構造が整い、聖路加病院はその後大きく発展を遂げました。そして大正6年(1917)、聖路加国際病院と名を改めたのです。
聖路加国際病院の建築は、当初A.レイモンドが設計にあたりました。その後、J・バーガミニィにゆだねられ、昭和11年(1936)、ネオ・ゴシック様式の聖ルカ礼拝堂が建造されます。今も礼拝堂からは、毎日定刻に鐘の音が響き渡り、現在の明石町とその周辺地域に、かつての外国人居留地時代を思い起こさせてくれます。
 

♪ 聖ルカ通りに建つ記念碑

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蘭学事始地碑
豊前国(現在の大分県)中津藩奥平家の藩医で、蘭学者でもあった前野良沢は、杉田玄白・中川淳庵・桂川甫周らとともに、オランダ語の医書「ターヘル・アナトミア」を翻訳し、安永3年(1774)、「解体新書」を出版しました。

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慶応義塾発祥の地碑
中津藩出身である福沢諭吉(1835-1901)は、安政5年(1858)この地に蘭学塾をひらき、現在の慶応義塾大学へと発展します。

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女子学院発祥の地碑
明治3年(1870)、宣教師ジュリア・カロゾルスにより女子学院の前身であるA6番女学校が創設されます。築地外国人居留地に初めて建った洋館で、人々の注目を集めました。(実際の旧所在地とは異なります)

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立教学院発祥の地碑
明治7年(1874)、C・Mウィリアムズ主教により立教学院のルーツである私塾、立教学校が開設されました。

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トイスラー記念館
聖路加国際病院の宣教師館として、昭和8年(1933)に建設されました。外観には、柱や梁などの骨組みを表現した、西洋風の建築意匠が見られます。現在は、病院内中庭に移築復元されています。

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浅野内匠頭邸跡碑
忠臣蔵で名高い、赤穂藩主 浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の屋敷跡です。元禄14年(1701)江戸城中で起こった刀傷事件により、無念の切腹を命ぜられ、お家断絶となりました。

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芥川龍之介生誕の地案内板
芥川龍之介(1892―1927)は、明治25年、耕牧舎という牛乳牧場の長男として、ここに生まれました。夏目漱石の門下に入り、「河童」「羅生門」「或阿呆の一生」など、多くの作品を残しました。

 

♪ 歩道美術館へようこそ!

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かつての築地外国人居留地を物語る、ガス灯の絵や居留地の番地を配すところなど、お洒落ですね。(写真は、平成30年4月撮影)
 

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旧暁橋の歩道には、舗装ブロックで形作られた「区の花つつじ」の文字と、つつじの絵がありまます。
lukes13m.jpg橋の上のカラフルなオブジェは、風をイメージしているとか。今年度から、「花咲くまち角」の花壇も新しく設けられ、人々の賑やかな往来と相まって、活気あふれる通りです。
 

 

中央区観光協会特派員 湊っ子ちゃん

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第27号 平成30年11月23日

 

 
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