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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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◆中央区 ここに歴史あり<7>~武家地跡、浜町公園のトンネル~

[巻渕彰/写楽さい] 2009年7月29日 08:45

中央区立浜町公園は、総合スポーツセンターやグランドなどがあり、区民憩いの場所である。江戸期には一帯は武家屋敷地であった。ここに「浜町隧道」と称する中央区内で唯一の隧道(ずいどう)、つまりトンネルがある(写真)。


0913_7_090728_hamacho1.jpg このトンネルは昭和55年(1980)に建築され、その後、隅田川護岸整備にあわせスーパー堤防化のために、平成11年(1999)11月に改築されたもの。
長さは234m、新大橋側から両国橋方面に向かう一方通行1車線の区道で、首都高速道路や隅田川と並行している。自動車のみ通行できるが、人や自転車は通れない。トンネルの上は浜町公園。



かつて一帯は武家地で、文久期の絵図に細川越中守(熊本藩)、水野出羽守(沼津藩)、津軽越中守(弘前藩)、牧野越中守(笠間藩)などの中・下屋敷が記載されている。


明治維新後も大半は華族が所有し、しかも所有面積は大規模であった。なかでも広大な細川邸が知られている。 


明治40年(1907)、この細川家の長屋に移り住んだ、29歳ごろの日本画家・鏑木清方(かぶらき・きよかた=姓は「かぶらぎ」と濁らない)は、


「川縁からちょいとひっこんだ、河岸から清正公様へぬける途中、水門を前に玄関傍の長四畳からは、筏も、白帆も、風が吹いて波が立てば、沖の鴎がはすかいになって飛び交うのがよく見える、細川家の家中の人の世話で初めて日本橋区の住人となったのであった」1)、


と当時の浜町の情景を著している。 


関東大震災後の区画整理で、浜町公園は昭和4年(1929)7月設置開園した。隅田公園、錦糸公園とともに震災復興事業3大公園のひとつである。


現在の浜町公園は46,531㎡(約14,100坪)で東京ドーム(46,755㎡)とほぼ同規模の区内で一番大きな公園。ミスト間歇噴出する「もや立ちの池」や遊具広場、バーベキューが楽しめるデイキャンプ場などがある。毎年8月に開催される「大江戸まつり盆おどり大会」の会場となる。


1)鏑木清方著『随筆集 明治の東京』所収「浜町にいたころ」、岩波文庫、2009/7第8刷、岩波書店発行


*鏑木清方(明治11年(1878)8月31日-昭和47年(1972)3月2日)は、築地、木挽町で幼少期を過ごし、鉄砲洲〔南八丁堀〕の私立鈴木学校へ通う。一時、湯島に移った後、再び南伝馬町、木挽町、浜町と転居して、 中央区 の地とは関わりが深い。代表作「築地明石町」は著名。著書にも往時の町の様子が載っている。戦後は鎌倉に住み、文化勲章受賞。


■これまでの「中央区 ここに歴史あり」
第1回 「今もある、霊岸島」 こちら>>
第2回 「交差点に残る、今なき橋」 こちら>>

第3回 「区内で一番高いところ」 
こちら>>
第4回 「日本橋の隠れた銘板」 こちら>>
第5回 「江戸の町地は中央区の広さ!?」 こちら>>
第6回 「旧新大橋の橋名板」 こちら>>

 

 

◆中央区 ここに歴史あり<6>~旧「新大橋」の橋名板~

[巻渕彰/写楽さい] 2009年7月16日 18:30

現在の新大橋は昭和52年(1977)改架されたが、その前の明治45年(1912)に架けられた旧新大橋の橋名板(きょうめいばん)を間近に見ることができる。とはいっても、中央区側の新大橋の橋名板」は区民有形文化財であるが、残念ながら一般公開されていないので、今回紹介するのは、 江東区側のものである。


新大橋の創架は元禄6年(1693)という、決して「新しい大橋」でなく「古くからの橋」である。先に通じた両国橋が当時「大橋」と呼ばれたことから、その次に架けられたので「"新"大橋」と名付けられたという。松尾芭蕉は開通にあたり、
  ありがたや いただいて踏む はしの霜
と詠んだ。歌川広重が京橋・大鋸町
(おがちょう)で描いたであろう『名所江戸百景』「大はしあたけの夕立」は西洋美術の世界にジャポニズム旋風を起こした。


0913_6_090620_shin_ohashi01.JPG 明治45年(1912)7月に竣工した旧新大橋は、以前の木橋から約200m上流に架けられ、鋼鉄製ピントラスト構造で全長173.3m。設計は現日本橋の銘板にも名を刻む東京市の技師・樺島正義であった。


路面は厚い鉄板の上にコンクリート打ち、アスファルト仕上げだったようで、関東大震災のときでも、この橋は焼け落ちることなく、また、警察官の機敏な誘導などによって多くの避難者を救ったという。西詰北側の 中央区側に、「震災避難記念碑」と「人助け橋のいわれ碑」がある。そして戦災も乗り越えたが、老朽化により昭和49年(1974)に撤去・改架がはじまった。


0913_6_090620_shin_ohashi02.JPG撤去された旧橋梁のうち中央区浜町側の一部は明治村(愛知県犬山市)に移設されたが、橋名板は 中央区側 の漢字表記と江東区側の仮名表記のものがそれぞれ保存されている。


現在、だれでも見ることができる江東区側の橋名板は同区立八名川(やながわ)小学校の北側に設置されている(写真上)。鋳鉄製で大きさは縦135.3cm、横273.5cm。中央に仮名書きで右から「志ん於ほはし」(「しんおおはし」の変体仮名)と痕跡が分かる。さらにその下にはローマ字で「SHIN・O・HASHI」と刻されている。周囲の飾りはほとんど剥がれてしまった。旧橋の名残は東詰南側にも照明橋柱の1基が残されている(写真下)。


現在の橋梁はシンプルな斜張橋であるが、これまでの歴史ある橋としての貴重な遺産がそこにあった。 


■これまでの「中央区 ここに歴史あり」
第1回 「今もある、霊岸島」 こちら>>
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◆中央区 ここに歴史あり<5>~江戸の町地は中央区の広さ!?~

[巻渕彰/写楽さい] 2009年7月 8日 17:00

江戸の範囲は、御府内と呼ばれた朱引き内と、町奉行支配の墨引き内との2つの区分があった。この領域に武家地、町地、寺社地が存在していた。 


これらの広さはどのくらいだったのだろうか。資料には、「明治2年(1869)の土地利用状況調査によれば、武家地(約1170万坪)が全体の約70%、町地(約270万坪)と寺社地(約270万坪)が約15%ずつ・・・」(『江戸博覧強記』小学館、2007/6)とある。調査時期は明治期であるが、幕末期と大して変わっていないとして話を進めたい。 


そこで 中央区の面積と比べてみると、中央区全体は約10.1k㎡で約300万坪、陸地面積に限れば約8.25k㎡で約250万坪となる。なんと、江戸期の町地面積と中央区の面積がほぼ同じなのだ。 中央区23区部で2番目に狭い面積であるが、この 中央区の広さが、江戸の町地の広さだったのには驚かされる。 


さらに、人口をみていくと、江戸の人口は時期により変動があり、諸説もあるが、概括的にいわれている約100万人とすれば、そのうち、町人は約50万人とされる。 


江戸の約15%にあたる約270万坪の町地に50万人が暮らしていたのだ。つまり、現在の 中央区に江戸の町人50万人が住んでいたことになる。中央区の人口は約11万人(2009年7月現在)なので、単純計算すれば、江戸町地は実に現 中央区4.5倍ほどの人口が集中した場所だった、となるが、どうだろうか。 


0913_5_090620_nagaya01.JPGこれだけでもびっくりだが、江戸庶民の多くは長屋暮しというから、いかに過密であったか想像に難くない。しかし、一方では、狭いながらも知恵を出しあって、いきいきと生業に励み、暮らしていた逞しい姿が感じられる。(写真は深川江戸資料館の長屋風景=同館は2009/7から約1年間改装工事のため休館 


今日の中央区はマンション居住世帯率が日本一とされ、高層マンションが建ち並び、敷地の立体的利用が図られているので、居住空間は江戸期とは比べようがない。しかし、江戸期の町地の暮しを現在の 中央区と重ね合わせてみていくと、時代の変化や生活の向上を真に享受する上での鑑になるのではないだろうか。 


中央区は江戸の御城下町(おしろしたまち)で、「元祖下町」である日本橋・京橋の町地は商業地、職住地などとして数多くの職種の人々で賑わいをみせ、江戸繁栄の源流となっていく。そして「人が住み、人が集まるところ、活気あり」の体を形づくった。今日の 中央区にその意気をつなげていきたいものである。


■これまでの「中央区 ここに歴史あり」
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第4回 「日本橋の隠れた銘板」 こちら>>

 

 

◆中央区 ここに歴史あり<4>~日本橋の隠れた銘板~

[巻渕彰/写楽さい] 2009年7月 3日 09:00

皆さんご存知の「日本橋」は国指定重要文化財で、2011年には現石橋架橋100年を迎える。ここに隠れた歴史が刻まれている。漢字やかなで書かれた「橋名板」は誰でも目にされるだろうが、橋にまつわる記録を残したのが「銘板」だ。


日本橋にはこの銘板が南詰東側と北詰東側の2ヵ所にある。設置場所が橋柱脇の裏側で、川に面した場所だけに高欄(欄干)越しに身を乗り出さないと覗けない。しかも板面がくすんでいるので、文字は読み取りにくい。


impactまず、南詰東側からみていこう。こちらの銘板は現橋改架期のもの。原文は漢文体であるが、適宜読点を付した。


090620_nihonbashi_tumaki.jpg本橋以明治四十一年十二月十五日起工、四十四年三月二十八日成竣、技師工学士米元晋一専當設計監工之任、技手荒井春吉大崎貞一佐藤正太郎清水庄次郎坂口安彦杉山源次郎輔佐之、橋上装飾出自顧問技師工学博士妻木頼黄之心裁様式其他承同氏賛助者亦不尠、橋名乃公爵徳川慶喜所書也、當時技師長即工学博士日下部辨二郎也、橋梁課長即技師工学士樺島正義也


工期は2年4ヵ月ほどだったと分かる、ちなみに開通式は明治44年(1911)4月3日に行われた。つづいて工事に携わった人々が書かれている。建築家・妻木頼黄(つまき・よりなか)は想像上の麒麟と獅子の東洋的なモチーフ、一里塚を表す松や榎(エノキ)をデザインした、といわれている(写真上)。橋名揮毫は江戸幕府最後の15代将軍だった徳川慶喜と記された。当時の技術者が橋を完成させ、その名を残したことを、銘板は如実に語っている。


impact反対側の北詰東側の銘板(写真下)は、関東大震災復旧工事を記述したものである。


090611 nihonbashi01.JPG日本橋復旧工事来歴
本橋ハ大正十二年(1923)九月一日ノ大震火災ニ因リ照明装置、高欄及敷石等ノ毀缺尠カラサルニ付昭和三年(1928)二月之カ復旧工事ニ着手シ、同年十二月其ノ工ヲ竣ル。此ノ工費総額金■(五? はっきり読み取れないが)萬餘圓ヲ要セリ。
  東京市


日本橋はその後も戦災で損傷・欠失・変形など甚大な被害を受けた。さらに経年劣化による破損・腐食などが進んだことで、復元・修復・補強対策が施されている。そして、たゆまぬ維持保全や清掃活動があってこそ、 中央区を代表する歴史的文化遺産として、1世紀にわたる今日の姿がある。


■これまでの「中央区 ここに歴史あり」
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