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◆中央区 ここに歴史あり(35) 人形町・玄冶店の奇才浮世絵師―歌川国芳

[巻渕彰/写楽さい] 2011年12月17日 18:41

武者絵や美人画、風景画、妖怪画、戯画、動物画など幅広いジャンルにわたり、その画風に異彩を放った浮世絵師・歌川国芳〔うたがわ・くによし=寛政9年(1797)-文久元年(1861)〕。本銀町(ほんしろがねちょう)に生まれ、晩年は玄冶店(げんやだな)に住み、終焉の地となった。現在、「没後150年 歌川国芳展」(2月12日まで、六本木・森アーツセンターギャラリー)が開かれている(写真上左)。日本橋で傑作を生み出した江戸っ子・歌川国芳がいま甦ってくる。

 

0913_35_111217-kuniyoshi.jpg国芳は寛政9年(1797)、本銀町一丁目で生まれる。現在の日本橋室町四丁目で神田に近いところである。本名井草孫三郎。文化5年(1806)、12歳のとき歌川豊国に認められて弟子入りしたという。初代歌川広重は同い年で、やはり、当時隆盛の歌川派豊広門人。文政10年(1827)31歳のとき「通俗水滸伝豪傑八百人之一個」シリーズが大当たりして、武者絵で地盤を固める。画面いっぱいに登場人物を描いたダイナミックな構図が人々を魅了したようだ。天保13年(1842)には天保の改革で風俗取締りから役者絵・遊女・芸者などを描けなくなり、そこから戯画や風刺画などに奇才を発揮していったといわれる。

 

一見、落書き風に見える絵も、実は役者衆を描いたことを見る人は分かってしまう、という滑稽な反骨魂を表している。人の姿を寄せ集めて人物画を作り出すなど、奇想天外な画風で、笑いと遊び心の世界を天真爛漫に描き込んでいった。猫を題材にした作品も多い。国芳の絵は、タウン誌月刊『日本橋』の表紙になっているのでお馴染みかもしれない。近ごろ話題なのが「東都三ツ股の図」(国芳展では後期展示)で、中洲から深川方面を望み、高くそびえ立っている櫓が江戸のスカイツリーか、と思わせる情景だ。

 

女流劇作家の長谷川時雨は著書『旧聞日本橋』で、国芳について、父(深造)の昔語りとして書いている。

 

「玄冶店にいた国芳が、豊国との合作で大黒と恵比須が角力(すもう)をとっているところを書いてくれたが、(父は)6歳か7歳だったので、何時の間にかなくなってしまった」「国芳の家は、間口が二間、奥行五間ぐらいのせまい家で、五間のうち、前の方がすこしばかり庭になっていた。外から見えるところへ、弟子が机にむかっていて、国芳は表面に坐っているのが癖だった。豊国の次ぐらいな人だったけれど、そんな暮らしかただった。(以下略)」(岩波文庫版から)。父深造の挿絵「浮世絵師国芳の住居」部分=写真上右)も載っている。

 

嘉永6年(1853)、57歳のときに新和泉町玄冶店(現・日本橋人形町三丁目)に居住し、文久元年(1861)この地で65歳の生涯を閉じた。現在、玄冶店跡には中央区教育委員会説明板が立っているが、国芳の記述はない(写真下左)。墓は小平市上水南町の日蓮宗中将山大仙寺にあり、一勇斎国芳の名が刻まれている(写真下右)。同寺は文禄4年(1595)八丁堀で創建され、正保元年(1644)浅草に移転し、のち戦災に遭い、昭和23年(1948)現在地に再建されたという。●巻渕彰

 

 

 

 

◆中央区 ここに歴史あり(34) 幕末、北槇町で診療した漢方の名医―尾台榕堂

[巻渕彰/写楽さい] 2011年12月 1日 08:30

幕末に漢方の名医で、14代将軍家茂の侍医も務めた、尾台榕堂〔おだい・ようどう=寛政11年(1799)-明治3年(1870)〕。出生地である新潟県十日町市の榕堂没後140年(2010)記念事業実行委員会によって、このほど住居跡付近の京橋1丁目に記念碑が建立された。

 

0913_34_111130odaiYodo.jpg榕堂は越後国魚沼郡中条村(現・新潟県十日町市中条)の医師小杉家の四男として生まれた。文化11年(1814)、16歳で江戸に出て医師の尾台浅嶽に学んだほか、儒学を亀田綾瀬(鵬斎の嫡男)に師事する。その後、文政7年(1824)郷里に帰り、開業した。しかし天保5年(1834)に江戸大火で師の浅嶽が亡くなり、尾台家再興のために家督を引き継ぎ、通称尾台良作を襲名する。研究心旺盛に多数の医学書を著して、なかでも安政3年(1856)に出版した『類聚方広義(るいじょうほうこうぎ)』は漢方医学で高い評価を得ているという。

 

文久元年(1861)に幕府から侍医として要請を受け、このとき次の3条件、「今までどおり庶民の診療もできること」「いつも江戸城にいるのではなく、用事のあるときだけ登城すること」「剃髪はしないこと」を出す。この要求が認められたことで侍医を受諾し、将軍徳川家茂から単独謁見の栄誉を受けたそうだ。

 

榕堂が開業していた場所は、当時の北槇町(きたまきちょう)で、現在の京橋1丁目、八重洲通りの南側で柳通りに面した付近とされている。この地に、患者を診療している榕堂とその脇の薬研で調剤している女性が穏やかに彫像された「尾台榕堂之碑」が建てられた(写真上)。当時は近くの上槇町に住んだ浅田宗伯とともに江戸で名医の双璧と称され、その人柄は名声におもねることなく、人間愛にあふれ、貧しい人であっても親切に尽くして、つねに仁をもって治療に当たったという。

 

慶応3年(1867)、家督を師浅嶽の実子良卿(武雄)に返して巣鴨へ移住し、明治3年(1870)72歳で生涯を閉じた。墓は谷中の観音寺にあり、墓石脇には榕堂の事績を詳しく伝えた墓碑が添えられている(写真下)。●巻渕彰

 

 

 
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