中央区観光協会オフィシャルブログ

中央区観光協会特派員ブログ

中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

執筆者一覧

>>このブログについて

最近のブログ記事

◆秋の中央区歴史散歩2014 「江戸初期の埋立地を歩く」 ~第1回京橋・八丁堀・新川編~

[巻渕彰/写楽さい] 2014年11月26日 14:00

秋の中央区歴史散歩2014「江戸初期の埋立地を歩く」の前編第1回が11月22日(土)開催された。この歴史散歩は中央区の成り立ちを探訪するシリーズで、春の「江戸前島を歩く」に続く第2弾。明暦の大火(1657年)以前に形成された江戸初期の埋立地を古地図を見ながら歩こうという企画。第1回は京橋・八丁堀・新川編で、第2回は11/30、大川端・中洲・浜町編を開催する(申込締切済)。実施はまち歩きボランティアガイド団体の中央区文化財サポーター協会。くわしくは「区のおしらせ中央」11月1日号、ら>>

 

  0913_574_141122sinkawa02.jpg

 

第1回のこの日は穏やかな小春日和。京橋の東京スクエアガーデン前から出発し、江戸前島だった京橋跡、三十間堀跡を経て、「三つ橋跡」を越えると、江戸初期に埋め立てられた地域に入る。堀割の「八丁堀(明治期以降は桜川)」に沿って陸地が築かれた。亀島川に接する場所までが江戸市中に物資を運ぶ八丁堀舟入である。現在は稲荷橋跡に面影が残る。

 

南高橋を渡ると新川。隅田川テラスに出て、船手番所があった辺りは江戸湊の最先端であった。明治期にはここで水位が測られ標高の基準がつくられた。中央大橋手前の八重洲通りは越前堀があり、松平越前守屋敷跡でもある。北側一帯は霊巌寺が創建された場所である。明暦の大火後は新川が開削され酒問屋で賑わった。新川大神宮(写真)を経て、霊岸橋を渡り、茅場町で解散した。@巻渕彰

 

 

 

◆郷土天文館サポーターによる第2回パネル展「岸田劉生と銀座~生まれ育った銀座の思い出~」 開催中!

[巻渕彰/写楽さい] 2014年10月 7日 09:00

中央区立郷土天文館(タイムドーム明石)で、同館サポーターが企画制作した第2回パネル展「岸田劉生と銀座  ~生まれ育った銀座の思い出~」が10月4日からはじまった。画家・岸田劉生が『東京日日新聞』に連載した明治期からの銀座の思い出随筆に、自画や参考写真を添えたパネルで紹介している。会期は11月30日まで、月曜休館、観覧無料。詳しくは「区のおしらせ中央」(2014/10/1号)HP こちら>>

 

0913_573_141001kisidaryusei.jpg岸田劉生(きしだ・りゅうせい)は明治24年(1891)、銀座に生まれた。父の岸田吟香(1833-1905)はジャーナリストとして東京日日新聞主筆を務める。明治8年(1875)銀座二丁目に薬舗「楽善堂」を開業し、日本初の液体目薬「精錡水(せいきすい)」を製造販売した。

 

劉生は画家として愛娘をモデルに「麗子像」を制作するなど、独創的な絵画表現を追求した。

 

関東大震災(大正12年(1923)9月)の壊滅から立ち上がり、帝都復興を目指しているそのころ、昭和2年(1927)3月から『東京日日新聞』(夕刊)で、連載「大東京繁昌記」がはじまった。

 

劉生は、この連載で「新古細句銀座通(しんこざいくれんがのみちすじ)」と題して、同年5月に筆を執る。本展示はその第1回をパネルで紹介している。銀座に生まれ育った劉生は、震災前の懐かしき銀座情景を文章と挿絵の鋭い感性で描いている。

 

展示では明治35年(1902)の銀座通り住宅地図が掲出されているのでパネル文と対比して見ることができるし、110年ほど前の銀座と今日の街並み変遷を知ることも面白い。

 

劉生はこの執筆の2年後、昭和4年(1929)に38歳の若さで亡くなった。@巻渕彰

 

 

 

◆「伊勢町堀(西堀留川)跡」説明板が設置される

[巻渕彰/写楽さい] 2014年9月 4日 14:00

このほど「伊勢町堀(西堀留川)跡」説明板が小舟町記念会館前の日本橋小舟町1番先に設置された(写真左)。これまで日本橋本町に設置されていた「塩河岸跡」説明板に代わるもので設置場所が移転し、記載内容が一新されて建て替えられた。

 

 0913_572_140903isechobori.jpg

 

江戸初期に開削されたというこの堀割は、明治中期ごろまでは伊勢町堀といわれ、その後は西堀留川と呼ばれた。日本橋川を北西に入った西岸には「米河岸」、東岸には「小舟河岸」、かぎ状に折れ曲がった北側には「塩河岸」があり、江戸の中心地の日本橋に近いところから物流の一大拠点として賑わったという。「江戸名所図会」には江戸後期の様子が描かれている。

 

明治中期には北側奥の堀が埋め立てられ、関東大震災後は日本橋川に通じる堀も埋め立てられた。説明板の設置場所(写真右:江戸切絵図の矢印部)は荒布橋(あらめばし)跡付近で、安田銀行(のち富士銀行から現みずほ銀行)創業地の近くである。@巻渕彰

 

 

 

◆時代の大転換期を描く ~長谷川渓石画『江戸東京実見画録』刊行~

[巻渕彰/写楽さい] 2014年8月13日 09:00

日本橋難波町(のちの浪花町)生まれの江戸っ子が、幕末から明治初期までの出来事や風俗を描いた画・文をもとに解説を加えた書籍『江戸東京実見画録』が岩波文庫(青577-1)から刊行された(写真)

 

0913_571_140808hasegawa.jpg描いたのは長谷川渓石、初の女流歌舞伎脚本家で、『旧聞日本橋』を著した長谷川時雨(1879-1941)の父である。

 

渓石は本名深造。天保13年(1842)に生まれ、千葉周作道場入門のかたわら玄冶店の歌川国芳に絵を学んだという。明治2年(1869)、刑部省に入った後、代言人(のちの弁護士)になる。大正7年(1918)77歳で死去。

 

本書には52図が載っている。「至尊の御入城」「西丸大手前」など江戸城(宮城)関係のほか、現在の中央区周辺の画題が多いので興味が沸く。「迷子さがし」「市中の読売」「子供遊び」といった庶民の暮らしの中の一場面が描かれている一方、「旧幕府牢屋敷全図」(小伝馬町牢屋敷)、「敲放し」「手鎖に入墨」といった刑罰関係の図もある。

 

渓石が描いたのは画と見聞記だが、本書には専門家の注解があるので、時代背景などが理解できる。江戸から東京へ、変容の時代における中央区界隈の様子が浮かび上がってくる。@巻渕彰

 

 

 

◆郷土天文館サポーターによる初のパネル展示「中央区のモノ・動物供養碑展」 開催中!

[巻渕彰/写楽さい] 2014年8月 3日 17:00

中央区立郷土天文館(タイムドーム明石)で、同館サポーターが企画制作した第1回のパネル展示となる「中央区のモノ・動物供養碑めぐり展」が8月2日からはじまった。区内の「針塚」「鰹塚」「玉子塚」などの「塚」と名付けられた供養碑の由来などをパネルで紹介している。会期は9月28日まで、観覧無料。詳しくは「区のおしらせ中央」(8/1号)HP こちら>>

 

0913_571_140801tsuka11.jpg日常のモノを大切にし、感謝して供養する風習が古来から伝わっている。モノや動物に関連した供養碑は、現在、区内の社寺などに12基の「塚」が確認されている。塚が伝えていくものは何か。

 

鉄砲洲稲荷神社の「針塚」は古い裁縫針に感謝し、裁縫の上達を願う「針供養碑」で、陰暦「事八日(ことようか)」に由来し、毎年2月8日に供養祭が行われる(写真)

 

築地・波除稲荷神社には「玉子塚」「海老塚」「すし塚」など食べ物に関連した供養碑がある。場所柄、海産物などの業者団体によって建てられた塚で、大切に供養されているのは、中央区ならではのものとして注目される。

 

今後、同館サポーターによるパネル展示は、第2回「岸田劉生と銀座」10-11月、第3回「区の境界線」12-1月、第4回は総集編として2‐3月に開催が予定されている。@巻渕彰

 

 

 

◆中央区 ここに歴史あり(57) 民間信仰の名残 ~むしば祈祷石~

[巻渕彰/写楽さい] 2014年7月16日 08:55

桜川公園の南側に小さな祠がある。入一地蔵菩薩の幟が建つ境内に「むしば祈祷石」が建立されている(写真)。この地は江戸初期に開削された堀割の八丁堀(明治期以降は桜川)が北側に流れ、中の橋が架かっていた南詰東側であって、かつては南八丁堀と呼ばれていた。「入一」とは入船町一丁目から名付けられた地蔵尊である。

 

0913_57_140712musibaisi.jpg

 

この「むしば(虫歯)祈祷石」には、こんな記録が残っている。

 

「あぶら石(歯痛)=京橋区南八丁堀二丁目の路傍(みちばた)に、周(まはり)三尺余高さ二尺余のあぶら石と称する自然石(じねんせき)が古くより存在してゐる、以前は表面も頗る滑(なめら)かがあつたが、数年前火災に罹(かゝ)つて油石の油も燃切り、今はガサ/\石と変じて了(しま)つた、何の理窟か分らぬが古来歯痛(はいたみ)の願を懸けるものが夥(おびた)だしい、又油石の下には石で作つた男女の首が埋めてあるといふ説もある。(「東京朝日新聞」明治40年(1907)12月15日付)」

 

迷信と分かっていても、今日でもつい頼りたくなる「願掛け」や「まじない」は、江戸期では民間信仰の行為として庶民に受け入れられたものであった。中央区内でもいくつかの伝承があるが、現在、形に残っているこの祈祷石は珍しく、貴重な民俗遺物といえよう。@巻渕彰