中央区観光協会オフィシャルブログ

中央区観光協会特派員ブログ

中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

執筆者一覧

>>このブログについて

最近のブログ記事


月島七不思議~第2話「月島の生い立ち」

[下町トム] 2012年7月23日 08:30

〔月島〕というのは、もちろん地名であり、地下鉄の駅名であります。現在の住所としての〔月島〕は、〔初見橋〕から〔月島橋〕までの間の区域に1~4丁目までの区割りで存在します。house

S33 月島地図.jpg


序章でも少し触れましたが、そもそもの〔月島〕はもっと広い地域を指しました。1883(明治16)年に計画が策定されて東京湾の埋め立てが始まったときに、その記念すべき最初の土地が〔月島第一号埋立地〕と名づけられたのです。その後、埋め立て計画は進行し、〔月島2号地〕(現在の〝勝どき1~4丁目〟)、〔新佃島〕(現在の〝佃〟の一部)、〔月島3号地〕(現在の勝どき5~6丁目)、〔月島4号地〕(現在の〝晴海〟)、さらに〔月島漁業基地〕(現在の〝豊海町〟)と広がっていきました。(掲出の地図は1958(昭和33)年当時のもの)


つまり、〝佃〟を別にしたら、この一帯は全て〝月島〟だったわけです。したがって、これらの地域を区別するためには〝号数〟で呼ぶしかなかったわけで、〔2号地〕とか〔4号地〕とか呼び習わしたそうです。今でも土地の古い人は、〔2号地〕〔4号地〕と言ったりします。(〝4号地〟は1937(昭和12)年に〝晴海町〟と命名されました)yacht

月島第二小学校.jpg

その後、1965(昭和40)年に住居表示が一新され、現在の地名になりました。〔月島〕の地名の範囲はやや狭まったわけです。


このときに、〔月島1~4丁目〕に整理されたのですが、それ以前は、〔月島通り〕とか〔西仲通り〕とかいう地名があり、大きな道路の両側が同じ町内という区割りになっていました。

かつては多くの下町では通りの両側を一つの〝町〟とする区割りが一般的でした。江戸時代の長屋に見られるように、路地を挟んで〝向こう三軒両隣〟という考えが普通だったんですね。実際の生活感覚に合っていたのだと思います。


月島運動場.jpg新しい住居表示は欧米の〝ブロック〟という考え方に準拠して町を区割りしました。そのために、道路の向かい同士が〝他所の町内〟となり、背中合わせの家屋が〝同じ町内〟となったのです。郵便などの利便性を重視したといいますが、今となってはこれでよかったのかと思うところはありますが・・・。think


ただ、今でも月島の町内会は古い付き合いを大切にし、昔の区割りに近い形で町を区分けし、〔月島○の部〕(○は漢数字)という名称でコミュニティーを形成しています。


UFJ月島.jpg〔月島〕がかつて広かった名残りが公共施設の名称に見られます。〔月島警察署〕は〔勝どき6丁目〕にありますし、〔月島運動場〕は〔晴海〕にあります。〔月島第二小学校〕の所在地は〔勝どき〕、〔月島第三小学校〕は〔晴海〕なんですね。さらに民間施設でも、序章で採りあげた写真にも写っている〔三菱東京UFJ銀行月島支店〕(元・三和銀行)は堂々と勝どき駅前に建っています。dollar


このように歴史をはぐくんできた〔月島〕の土地は今大きく変わりつつあります。古い家屋がどんどん消え、マンションが林立するようになってきました。それでも面々と残るこの町の風情を大切にしたいと思います。


引き続き、〔月島〕の魅力をお伝えしていきますので、よろしくお願いします。lovely 

 

 

続きを読む: 月島七不思議~第2話「月島の生い立ち」

 

月島七不思議~第1話「西仲通りと草市」

[下町トム] 2012年7月11日 10:00

月島の魅力を再発見すべく、シリーズでお伝えします。

 

西仲通(1).JPG第1回は〔西仲通り〕です。名前は月島の西側中央を貫く通りであることを現しています。当然ながら〔東仲通り〕もあります。月島のメインロードである〔清澄通り〕をはさんで、東と西にきれいに区分けされているのが月島の特徴です。120年前にこの地区が造成されたときに、新しい近未来の都市計画のさきがけとして区割りされたとのことです。

〔西仲通り〕は今では〝もんじゃ焼店〟が立ち並ぶ賑やかな名物通りですが、もともとは普通の商店街でした。戦後、いち早く地元の商店が結束して商店街を形成し、地域の生活を潤すエリアとして親しまれてきました。


西仲通り交番.JPG


今では〔地域安全センター〕となっていますが、平成19年まで現役交番だった建物はこの通りのシンボルマークのようになり地元の人たちに愛されています。


西仲通り(2).JPG
〔西仲通り〕はアーケードやブロックを数字で表示した暖簾などが掲げられ、オシャレなテーマストリートになりました。しかし商店の屋根のほうを見上げると、かつての屋号や商売の図柄が刻まれた様子があちこちに伺えます。ぼくが始めて住み始めた20数年前は、まだ〝もんじゃ焼き専門店〟も数えるほどしかなく、この通りも様々な店が軒を連ねていたものです。その当時の姿が屋根の上に残っているんですね。味噌屋さん、おもちゃ屋さん、洋食屋さん・・・当時の姿が偲ばれます。


草市.jpgこの通りの名物と言えば、毎年7月中旬に催される〝草市〟です。そもそもは、この時季に、お盆の道具(麻幹、筵、溝はぎ、など)を売る店が屋台を並べたのが始まりとか・・・。(写真は4年前のもの)

その後、縁日のように多くの露店が並ぶようになりました。地元の古老に聞くと、かつては〔西仲通り〕ではなく、それに直行する路に露店がひしめいていたものだということです。

今では商店街や町会の皆さんが中心となってコミュニティー主導の〝手づくりの縁日〟という感じで行われています。子どもたちにとっては、夏休み前の楽しみの一つです。今年は7月14日(土)、15日(日)の2日間に行われます。是非お立ち寄り下さい。

 

このような下町情緒豊かな味わいを残す月島の町をさらにいろいろご紹介したいと思います。引き続きよろしくお願いします。pencil 

 

続きを読む: 月島七不思議~第1話「西仲通りと草市」

 

明正小学校、新たな時代に

[下町トム] 2012年7月10日 08:30

中央区新川にある「明正小学校」は、歴史ある学校です。そもそも、1876(明治9)年に創立された〔霊岸島尋常小学校〕と、1907(明治42)年創立の〔越前堀尋常小学校〕が、1927(昭和4)年に〔明正尋常小学校〕として発足したことにルーツを持ちます。

201207明正小学校.jpg〝明正〟という名前は地名からではなく、文字どおり「明るく正しく」という希望をこめて命名されたものだということです。up 

 また、愛着ある校舎は、いわゆる〝復興小学校〟と呼ばれ、大正12年に発生した関東大震災で被災した校舎の復興事業として建てられたものです。

長く親しまれた校舎ですが、「中央区基本計画2008」の中で、区内3校改築計画の一環としてこの夏から現校舎を解体し、改築することになりました。このような取り組みは各地で行われるようになり、〝リノベーション〟と呼ばれています。

明正小学校改築計画

 

201207明正小学校 (1).jpgこの7日(土)には現校舎との〝お別れ会〟が開催され、思い出深い校舎との別離を噛み締める日となりました。

この校舎は中央区に残る学校の中でも、味わいのある雰囲気を残すものです。特にこの一帯は古くは〔霊岸島〕と呼ばれ、江戸の香り漂う町だっただけに、どこか古い日本の風情を残す街角にどっしりと存在感を示しています。rock 


明正小学校は梅雨の合間の湿り気を帯びた空気の中でしばしのお別れの時間を過ごしているようです。校舎の前に設置されている銅像は、林武史作の『共生』という作品。1996年の製作だそうです。子どもたちの成長を見守ってきたこの像はこの後どうなるのでしょう。


201207明正小学校 (2).jpg校舎が生まれ変わってまた新たな歓声が校庭にこだまするのは2年後です。そこからまた新しい歴史が紡がれることでしょう。

地域の宝である子どもたちの学びの場である小学校が、より一層充実した施設になることを期待します。scissors 


 

 

続きを読む: 明正小学校、新たな時代に

 
1