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◎特派員の商店街訪問(第2回)◎ 大銀座の西の玄関口/西銀座通会

[寿敦卿] 2010年4月28日 14:10

商業の中心地・中央区には元気な、にぎわい商店街が数多くあります。

地元から愛され、住民とともに栄え、親しみのある商店街を、特派員が訪ねて、見て、聞いた商店街の"今日そして明日"。そのイキイキとした魅力と活力、とっておきの情報などをお伝えしている、中央区の商店会・商店街を紹介する「特派員の商店街訪問」第2弾です。

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◎特派員の商店街訪問(第2回)◎

大銀座の西の玄関口/西銀座通会

 

皇居やJR側から銀座に入る時に必ず通る道「西銀座通」。

「君の名は」で知られる数寄屋橋もあるこの地域は、西銀座デパートやプランタン、映画館、雰囲気のある喫茶店まで、まさに「銀ブラ」の代名詞である。

今回は、そんな銀座の西の玄関口である西銀座で活動する『西銀座通会』をお訪ねし、株式会社西銀座デパート顧問の雨宮聰さん、事務局長の林憲次さんにお話を伺いました。

西銀座通り事務局.jpg (右2名のうち、奥が雨宮さん、手前が林さん)

 

karaoke 西銀座通会』はどのようにしてできたのですか。

 設立は昭和58(1983)年6月29日です。
 当時必ずしも整備が十分ではなかった通称「外堀通り」(正式名称・都道405号線)の銀座1~8丁目(旧城辺橋・土橋間)の景観向上、「西銀座通り」としての名称定着が目的ですが、併せて、昭和初期には「昔恋しい銀座の柳」と、唄にまで歌われ銀座のシンボルでもあった「柳」の復活・再生も副次的な目的となっています。

 

karaoke その活動拠点である<西銀座通り>の成り立ちを教えてください。 

 通称「外堀通り」の銀座部分(銀座1丁目~8丁目)を、平成10(1998)年、東京都建設局の「東京の顔づくり(シンボルロードの整備)」の指定を受け整備に着手し、2006年に完成しました。今では通りに「西銀座通り」という表示もされています。
 ちなみに、中央区のシンボルロード整備としては、晴海通り(モデル事業)、中央通りに次ぎ3番目です。
 整備完了に合わせ、同18(2006)年5月5日には、第1回「銀座柳まつり」を開催、以後毎年開催を続け今年は第5回目となります。

 

karaoke どのようなメンバーで構成されているのですか。

 ㈱西銀座デパートを中心に沿線の路面店、複合ビルなどのオーナーが主で、現在約90社の会員で構成しています。

 

karaoke どのようなお店があるのですか。

 「西銀座通り」沿線1~4丁目は、西銀座デパートやプランタンなどのショッピングセンターや、銀座インズなど飲食店の集積もさることながら、丸の内東映映画館など文化施設にも事欠かきません。
 また、5~8丁目は6丁目の高級クラブをはじめとしてバーなど歓楽街としての集積度が高く、またソニービル隣の「日動画廊」をはじめとして並木通りとともにギャラリーの数も多いところで、文化レベルの高い地域です。

 

karaoke どのような活動をしているのですか。

 地域ぐるみの景観美化や環境維持への取り組みの原点が、構成員による持続的な日常的活動の積み重ねにあることは当然のことですが、西銀座通会では「美化委員会」を設け、定期的に清掃活動や公道上に放置されている看板・自転車・バイク等の整備を行うなど、景観・環境維持への取り組みを重ねてきており、会員の参加状況も良好です。
 また、年に1回「銀座柳まつり」を開催しています。

 

karaoke 「銀座柳まつり」の内容を教えてください。

 銀座1丁目から8丁目までの「西銀座通り」約1㎞を通行止めにして、毎年5月5日に開催しているお祭りです。今年のテーマは"笑顔"。
 当日のイベントは、①ブラスバンド,バトントワラーによる「銀座・ゴールデンパレード」、②大道芸人たちのパフォーマンス「ヘブン・アーティストin銀座」、③ブラバンによる「コンサートの森」、④子供たちによるパフォーマンス「こども夢舞台」、⑤ベーゴマや剣玉などなつかしい遊びの場「レトロ遊び広場」、⑥「東京スマートドライバーPRキャンペーン」、⑦「自転車安全利用TOKYOキャンペーン」など交通安全キャンペーン、⑧銀座育ちのみつばちたちが集めた蜂蜜が入手できる「銀座のみつばちフェスタ」、⑨子供たちの青空スケッチのアトリエ「柳まつりスケッチ広場」、⑩人力車と柳をバックに写真が撮れる「人力車写真館」、⑪"キティちゃん"や"ペコちゃん"と遊べる広場等々のイベントが1丁目から8丁目までの歩行者天国や数寄屋橋公園など地域一杯に繰り広げられます。
 子供から大人まで、家族みんなで楽しめる一大イベントです。③のこども夢舞台は、今年初お目見えです。詳細はこちら →公式ホームページ

P5050112-1.jpg    P5050114-1.jpg

(2009年の柳まつりのパレードの様子)

 

karaoke 西銀座通会』がこれから目指す方向性はどのようなものですか

 「西銀座通り」沿線には、銀座東芝ビル(旧・マツダビル)の売却・再開発など、大きく景観の変わる可能性も出てきていますが、「大銀座」の西側入り口として、有楽町地区の再開発にも対応、回遊性を高めるためにも、柳まつりを柱に個性を生かした特長のある街づくりを目指して参りたい。

 

 

memo 後記

 戦後初の地下鉄・丸ノ内線が「西銀座」まで伸びたのは昭和32(1957)年12月15日。この年10月には有楽町に「そごう」デパートが開店、街には"有楽町で逢いましょう"とフランク永井の歌声が流れていました。
 翌33(1958)年には、"ABC・XYZ..."で始まる「西銀座駅前」、これもフランク永井。
 昭和一ケタ前半生まれ、結婚したのもこの年とあっては、西銀座と聞いただけでも「胸キュン」は当然の世代でもあります。
 そんな「西銀座駅」が姿を消したのは何時だったか、その記憶さえなくなっていました。
 今回は図らずも、その「西銀座」を復活,定着させようとしている人たちにお目にかかることができた,そして楽しいお話を聞くことができた。
 こんな「オイシイ」お仕事させていただいたことに改めてお礼を申し上げたい気持ちで一杯です。

西銀座通会の雨宮さん、林さん ありがとうございました。

 

 

 

「町」ものがたり...箱崎町今昔...その4

[寿敦卿] 2009年7月14日 12:00

 中央区沿革図集・日本橋篇所載の明治6(1874)年沽券図をもとに当時の土地所有状況をまとめてみれば次の通りです。
 なお、沽券は土地売渡証文のことで、沽券図には土地の区画毎に地主名、面積、沽券高(土地価格)が明記されています。
 
(地     番)(区画数) (地主数)  (面積・坪)   (構成比・%) (沽券高・円) (単価/坪・円)
箱崎町1-1      1     1      945       3.1        6,500        6.88  

同   2-1~17   17    13     1,879      6.1     4,602      2.45
同 2-18        1     1     2,835    9.2       981     0.35
同 3-1         1     1      8,085        26.2        ー        ー
同 4-1         1     1     13,433    43.5     4,649    0.35 
箱崎町小計      21    17   27,177    88.1    16,732    0.62
北新堀町1-21   21    14   3,673     11.9    19,100    5.20 
総計           42    31  30,850   100.0    35,832    1.16 
旧武家地合計     3     3   24,353        78.9     5,630    0.23
町地合計       39    28       6,497    21.1    30,302    1.16 

(注)1.箱崎町1-1 :三井八右衛門所有
   2.箱崎町2-18:旧関宿藩主・久世氏邸
   3.箱崎町3-1 :開拓使貸付会所(官有地)旧土井大炊・松平伊豆邸
   4.箱崎町4-1 :旧土佐藩主・山内邸

   
 大名藩邸公収の翌年の時点、このデータは江戸期の地域実態をそのまま反映していると見ていいでしょう。
 武家地と町地の比率はほぼ80対20,江戸市街地の平均的な割合は武家地75に対し、寺社地・町地それぞれ15とされていますので、構成比はほぼ平均並みといえるでしょう。
 箱崎町2-1~17の1区画当たり平均面積は111坪に対し、北新堀町は同175坪、規模格差は1.58倍に達します

 

 

「町」ものがたり...箱崎町今昔...その3

[寿敦卿] 2009年7月 7日 16:35

 中央区沿革図集・日本橋篇所載の御府内備考をもとに、江戸中期以降の箱崎地区をめぐる変化の跡をまとめれば大略次の通りです。
 
延宝 7(1679)年:湊橋架橋、霊岸島と初めて直結。
元禄11(1698)年:永代橋架橋、隅田川対岸の永代島と初めて直結。
            豊海橋架橋、永代橋西橋詰に広小路。
同 17(1704)年:永久橋架橋、蛎殻町と初めて直結。
享保18(1733)年:箱崎町・永久橋間の河岸地745坪を埋立。
            従来の箱崎町を1丁目、新埋立地を2丁目に。
天明 5(1785)年:箱崎町2丁目河岸先304坪埋立完了。

 元禄11年の永代橋架橋により、北新堀通は日本橋方面と、富岡八幡宮や深川不動尊(永代寺)などの名所、さらには、門前仲町辺の岡場所などの盛り場とを結ぶ最短ルートとなり、人通りはかなり多かったといわれています。
 元禄15年12月15日、本所松坂町吉良邸に討ち入り上野介の首級を挙げ本懐を遂げた赤穂浪士47人の引き上げ経路は、両国橋袂から隅田川左岸を南下、永代橋で隅田川を渡り、箱崎地区(北新堀町)に入っています。
 以後の経路が豊海橋経由か湊橋経由かは判然とはしませんが、彼等がこの地区に足を踏み入れたことだけは確かです

 

 

日本橋川・神田川クルーズ乗船記

[寿敦卿] 2009年7月 6日 12:00

 当初は、日本橋川・新三崎橋防災船着場発着を予定していましたが、当日の潮位が低く、乗・下船時の危険を避けるため上記の通り市兵衛河岸防災船着場発着に変更されました。
 運行主体はNPO法人「あそんで学ぶ環境と科学倶楽部」といいうことで、使用船舶は定員12名と小型ながら、バッテリー駆動の「環境に優しい」エレクトリック・ボートでした。
 

  船長のガイドは簡にして要を得たもので、江戸城外濠石垣や消滅した支流の痕跡など歴史的遺産のみならず、日本橋川の潮位差は最高2メートルにも達すること、普段の透明度は2メートル以上あるが、雨が降ると合流下水道の影響もあり30㎝程度まで落ちること、さらに、微生物を活用した水質浄化努力が重ねられていることなどをも網羅し、エコツアーの名に恥じない、レベルの高いものでした。

 しかし、日本橋川に架かる24橋のうち、首都高速道路に覆われていないのは最下流の湊橋と豊海橋の2橋のみという現実を改めて再確認させられ、強い憤りを感じたことを付け加えておきます。
 なお、このツアーのプロモーターは"ぽけかる倶楽部"(03-5652-7072)でした。

 

 

「町」ものがたり...箱崎町今昔...その2

[寿敦卿] 2009年6月30日 17:00

 数ある江戸絵図の中で、内容が確実な最古のものは「寛永江戸図」とされています。

 図の中央下部、やや右寄りに二つの島が並び、その間に「新堀」の書き込みがあります。

 新堀は現在の日本橋川の河口部分、左が霊岸島、右が箱崎のある「永久島」ですが、永久島には、駿河大納言様御蔵屋敷、向井将監下屋敷、その左側に「町や」と書き込まれています。

 図は[中央区沿革図集・日本橋篇」所載のものを参照しましたが、寛永9(1632)年頃の江戸市街の姿を写したものとみられ、この時期までに、島・町はすでにできていたことは確実です。

 一方、「中央区年表」元和6(1620)年の項には、この頃新堀を開削、町家を立てたという意味の記述がありますが、これは「東京府志料」に基づくもので、この時期に、この島には北新堀町と箱崎町がすでにあったことを反映していると見て間違いはないでしょう。

 元和年間の創設とあれば、いわゆる「江戸古町300町」に名を連ねていたのは当然のことでしょう。

 

 

「町」ものがたり・・・箱崎町今昔その1

[寿敦卿] 2009年6月11日 09:00

 蛎殻町に生まれ育った私が、長年住み慣れた蛎殻町2丁目の家を畳み、箱崎町のマンションに終の棲家を定めたのは平成9年のこと。

 この10年足らずの間に箱崎町は、またまた大変貌を遂げ、この一帯が40年程前まで「永久島」と呼ばれる島だったことなど、覚えているのは住民の中でも少数派ではないでしょうか。

 この間に特に目立ったことの一つは、町中に赤ちゃんの顔とベビーカーの数が格段に増えたこと。

 10年前、うちのマンションでは赤ちゃんの顔は殆ど見ませんでしたが、いまやお誕生ブームです。

 聞くところによると,中央区、特に日本橋地区の人口増加率は全国トップレベルとのことで、少子化が云々されている折から誠に心強いデータではないでしょうか。