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文豪と丸善(その二)  夏目漱石と万年筆

[与太朗] 2013年3月14日 09:00

IMG_0685.JPG 「丸善 世界の万年筆展 展示即売会」 先日、日本橋の丸善に通りかかるとこんな案内が目に留まりました。丸善は維新の日本に洋書だけでなく、西欧の文具を招き入れたパイオニアだったのですね。万年筆については百科事典にも「日本では1895年(明治28年)に東京の丸善(株)が少量だがウォーターマンのものを店頭で発売したのが最初で、本格的な輸入は1902年(明治35年)以降のことである。」(日本大百科全書(小学館))とあります。


 その後、万年筆は急速に普及し、丸善が1912年(明治45年)に発行した「萬年筆の印象と図解カタログ」という小冊子には、著名人多数が文章、スケッチ(万年筆で描いたもの)などを寄せています。その巻頭を飾るのが夏目漱石(1867-1916)の『余と萬年筆』です。


 この文章で漱石は、万年筆を使い出して間が無く、親しみが薄いと言っています。十二年前の英国留学の際、親戚(鏡子夫人の妹時子さんのこと)から餞別としてもらった万年筆は、船中で「器械体操のまね」(鉄棒)をして壊してしまいました。三、四年前、丸善で「ペリカン」を二本買いますが、「不幸にして余のペリカンに対する感想は甚だ宜しくなかった」ようで元のペン書きに戻りますが、インク壷にペンを浸す煩わしさから「離別した妻君を後から懐かしく思う」ような感がしたと言っています。そして「この原稿は魯庵君(当時丸善の顧問をしていた内田魯庵(1868-1929)のこと)が使って見ろといってわざわざ贈って呉れたオノトで書いたのであるが、大変心持よくすらすら書けて愉快であった」と書いています。この冊子には漱石が「オノトG」で書いたこの文章の原稿の写真も掲載されています。


 万年筆のPR冊子に載せるにしてはいささか宣伝臭が無さ過ぎる文章ですが、魯庵の書いたものを読むと、「夏目さんは頼まれごとをよく快諾する人だった。私は万年筆のことを書いて下さいと頼んだが、別に嫌な顔はされなかったが、「僕は困る」といわれた。そこで、いえ、悪くさえ言わねばいいから、重宝なものだくらいに書いて下さいと頼んだ」とあります。また、のちに新聞に掲載された漱石の談話には「今用いているのは二代目のでオノトである。別にこれがいいと思って使っているのでも何でも無い、丸善の内田魯庵君に貰ったから、使っているまでである」と正直?な感想を述べています。便利さは買っても、それほどの思い入れはなかったのでしょう。なお、魯庵によれば、漱石は硝子のインキスタンドが大嫌い、またインキはブルーブラックが大嫌いで、セピア色を好んだそうです。 


 漱石入社当時の朝日新聞社は、石川啄木(1886-1912)の歌で知られるように京橋区瀧山町(現銀座六丁目)にありました。漱石同様、主筆の池辺三山(1864-1912)の招きで朝日に入った杉村楚人冠(1872-1945)によると、漱石は出社することは少なかったが、水曜日に開かれる編集会議に出てくると、口数少なく、にこにこ笑いながら人の言うことを聞いていたが、口を開けば思いがけない警句をすまして言うのでその度毎に皆は笑い、賑やかになったそうです。こんなときの漱石の手にはオノトの万年筆があったのでしょうか。


 漱石も愛用?したオノトは高級万年筆として一世を風靡しますが、戦後、製造元の英国デ・ラ・ルー社は万年筆の製造を止めてしまいます。現在は丸善がオノトの名を冠した「復刻版」の高級万年筆を販売しているそうです。日本橋丸善では万年筆売り場は地下一階。超高級品から普及品まで見事に並べられた売り場を見て回るうちに、もう長い間万年筆に縁が無くなっていた自分に気づくと同時に、五十数年前のこどもの頃、今は亡き両親に初めて万年筆を買ってもらったときの感激がよみがえってきました。 

 

 

 
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