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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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- 薬の記念碑 「本町薬問屋発祥の町」 -

[クラさん] 2019年2月17日 18:00

碑(157p).jpg 寄贈(97p).jpg 碑上面(196p).jpg

<正面>      <側面>        <上部>

昨年12月に日本橋本町二丁目1番地(武田薬品工業株式会社の入口近辺)の歩道に"薬の記念碑"が設置されました。

「東京薬事協会」事務局にお伺いしたところ、この碑は"日本橋地域の5ロータリークラブと東京薬事協会"により設置され、江戸時代の日本橋に発祥した薬種問屋街の歴史を広く後世に伝えることで、中央区の文化財行政に寄与する目的で中央区に寄贈されたそうです。碑上部のデザインは、江戸時代に刊行された「江戸名所図会」の挿絵(本町 薬種店)を基にしている、とのお話でした。

日本橋本町は江戸時代から薬種問屋が集結し発展してきた地域で、今も多くの薬業関係の企業が集まっています。

    福徳神社(200p).jpg   くすりミュージアム(小).jpg

      <薬祖神社>         <くすりミュージアム>

   

ここ日本橋本町エリアでは、室町二丁目の「福徳の森」に薬の神様である「薬祖神社」が鎮座されており、無病息災などを願ってお参りもできます。また、本町三丁目の第一三共本社ビルA館には入館料無料の「Daiichi Sankyo くすりミュージアム」があります。薬に関する資料などが展示されていると共に、薬の作用などをゲームやクイズで学ぶこともできます。

ご興味のある方は、日本橋界隈散策の際にこの地域に一度足を運んでみては如何でしょうか。

 

 

満足度五つ星!「第20回中央区雪まつり」

[Hanes] 2019年2月17日 09:00


こんにちは。新人特派員のHanes(ハネス)です
2月10日(日)・11日(月・祝)にあかつき公園で開催された「中央区雪まつり」に行ってきました。
隔年開催ということで、私にとっては中央区に引っ越してきてから初の雪まつり...
昨年末からずっと楽しみにしていました!

20_Snow_Fes.jpg

開催前日の9日(土)は非常に冷え込み、ほとんど積もらないものの雪が降りました。
そんな中、東根市から届けられた雪の量はなんとトラック20台分
東京ではまず見ることのない量の雪に、大人でもテンションが上がります
今回はそんな雪まつりの様子をお伝えしたいと思います。

■雪遊びコーナー
こちらでは雪のスロープをソリで滑り、
東京に居ながらにして雪遊びができるようになっていました。
普段こんなに多くの雪を見ることのない東京の子どもたちからしたら、
大興奮だったのではないでしょうか

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ソリと同様、ミニスキーにも長蛇の列ができていました。
子ども用のスキー板やストックは中央区から借りることができるので、
お手軽にスキーを楽しむことができます

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その他、周囲では親子で雪だるまを作る等、
思い思いに雪遊びを楽しんでいる様子が見られました

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■ミニ動物
乗ることもできるポニーをはじめ、アヒルやニワトリ、
うさぎ等の可愛い小動物も遊びに来ていました

20_Snow_Fes_3.jpg

■歌のコーナー、オープニングセレモニー
各日2回ずつ行われた歌のコーナーでは、
子どもたちも一緒になって楽しめる「パンダ うさぎ コアラ」をはじめ
色々な歌が披露され、ステージ周辺には笑顔の子どもたちがたくさん

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(個人情報保護の都合上、表情までお届けできないのが残念です。)

そして10日は、11:30よりオープニングセレモニーが開催されました。
少々タイミングを逃してしまったのですが、
中央区長と東根市のご当地キャラクターで果樹王国の王様「タントくん」にはお会いすることができました

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■東根市PRコーナー
あかつき公園の一角では、東根市の特産品が販売されていました。
その中でも特に多くの方が購入されていたのは啓翁桜
冬に咲く桜で、一足早い春を届けてくれる山形県を代表する桜です(なんと、出荷量は全国1位)。

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他には、山形産の果物を使用したジュースやフルーツワイン、お菓子等もあり、
一定金額以上購入すると参加できる抽選も盛り上がっていました

そんな中、私は山形銘菓「寿松」で有名な「松扇堂」さんの「けやき焼き(ずんだあん)」を購入しました。
その理由は...中央区と東根市には、けやきを通した交流もあるから

さくらんぼと柳の交流だけと思いきや、区政年鑑には、
2007年2月11日に、「中央区・東根市友好都市提携15周年記念 東根市の大けやき後継樹植樹式」が行われたことが記録されています

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肝心のお味の方ですが、甘さ控えめで、生地の風味がとてもよく、
ずんだあんには枝豆の他に白隠元豆も加わることで、
より「あん」らしさが出ていたように思います!

そして来場者の中には、この雪まつりを機にずんだを初めて知ったという方もおり、
改めてこのような文化的交流は意義のあるものなのだと感じました

■リサイクル自転車販売
「限りある資源を大切に」とのことから、10日の午前中にリサイクル自転車の販売が行われました。
購入希望者は11:30までに所定の申込書を希望の自転車についている封筒に入れ、
12:00から抽選開始となります。

今回はシティサイクルが大半を占める20台程が販売されていましたが、
この企画の魅力は何といっても、防犯登録料込みで自転車が1台6,000円(※その場で現金払いが条件)だということ

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申込者は各自転車に対し、2人~30人強とややばらつきはありましたが、多くの方が抽選に参加されていました。
リサイクル自転車でもキレイでしっかりメンテナンスされているものばかりなので、
自転車の購入を検討されている方には格好の機会なのではないでしょうか

こちらのテントは、翌日11日には京橋消防団PRコーナーになり、
リーフレットの配布等を行ったそうです。

■味のコーナー
こちらでは、雪まつり名物の「いも煮汁」、東根市の味「玉こんにゃく」といった郷土料理、五目ごはん、チャーハン・スープ、たいやき、おしるこ、ホットカルピスと、
大人から子どもまで楽しめる飲食物の配布が行われ、とても賑わっていました。

IMG_4263.jpg

年始に東根市を訪れた際
には、郷土料理らしい郷土料理を食べ損ねてしまったので、
私もいも煮汁と玉こんにゃく、そしてたいやきをいただきました

20_Snow_Fes_2.jpg

いも煮汁は豚肉の旨味がとても効いていて、
中には「すき焼きっぽい!」とコメントする方もいらっしゃいました
適度に弾力があり、味がしみていた玉こんにゃくも美味しかったです

■おわりに
今回初参加となった中央区雪まつりは、様々な企画やコーナーが充実した冬ならではのイベントでした。
子ども向けという感じはありますが、老若男女問わず楽しむことができ、
隔年開催ではもったいない気がしたのは、私だけではないのではないでしょうか。

そして、「中央区にはこんなにたくさんの子どもがいたなんて!」と驚くほど、本当に多くの家族連れでにぎわいました。
中央区では歌舞伎や伝統のあるお祭りをはじめ、子どもも楽しめる貴重な機会がたくさんあります
お子さんとともに中央区を楽しんでいらっしゃる
先輩特派員のえだまめさんお染さんマダムはるみさん(50音順)の記事やラジオ出演時の会話から分かるように、
「中央区は子育てしやすい」ということがより理解できたような気がします

友好都市・東根市の魅力は、雪、グルメ、特産品等を通して知ることができましたが、
新たに入手した情報もあり、近々改めて訪問したくなりました

 

 

特派員のひとり反省会 その2~第11回中央区観光検定より~

[えだまめ] 2019年2月16日 12:00

子連れ特派員のえだまめです

前回に引き続きまして、

http://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/2019/02/11-14.html

2月3日実施の「第11回中央区観光検定」から

えだまめが気になった問題をピックアップしてみたいと思います。


問50 海運橋は、楓(もみじ)川に架かっていた橋。

川は埋め立てられて高速道路になったため、橋は撤去され

現在は2基の親柱だけが残されています。

1本の親柱には「かいうんはし」の文字が刻まれていますが、

もう1本の親柱に刻まれている文字は次のうちどれでしょう。

ア.しょうげんばし  イ.開運橋  ウ.坂本町  エ.紀元二千五百三十五年六月造


言い訳しますと・・・。

確かにえだまめ、特派員になる少し前、

試験勉強に中央区を公式テキスト片手に歩き回っていた時に

海運橋も間違いなく来ていたんです。

が。

DSC_5130-1.jpg

テキストにはちゃんと「2基の親柱」って書いてあったのにもかかわらず

こちらの「かいうんはし」と書かれた方の親柱と

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教育委員会設置の説明板を見て満足しちゃってたんですよね・・・たぶん。

だから「もう一つの親柱」についての記憶がなくて・・・。

※公式テキストには、ちゃんと「何と書かれているか」についても記載があります。

 ちゃんと読んで勉強しましょう。


で、どうして気付かなかったのかというと。

海運橋地図.jpg

↑赤い大きいマークで書かれた「かいうんはし」の親柱&案内板の

元・楓(もみじ)川であった高速道路を隔てて反対側の元・川岸(?)の方に

「もうひとつの親柱」はあったのです。(地図上の青丸のところです)

なのですが、高速道路の高架下の陰に隠されて、

私はその存在をちゃんと認識できていなかったのです。

というわけで・・・ちゃんと見に行きましょう。



正解は・・・

DSC_5132-1.jpg

こちら。

エ.紀元二千五百三十五年六月造

でした!!

ちなみに・・・「紀元2535年」とは?

神武天皇の即位を元年とした「皇紀」によるものですね。

紀元(皇紀)2535年=明治8年=西暦1875年、です。

海運橋がアーチ型の石橋にかけ替えられた、その年です。


「紀元二千五百三十五年六月造」の方の親柱のすぐ近くには・・・

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「みずほ銀行兜町支店」があります。

そうです。ここが

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「銀行発祥の地」です。

明治6(1873)年、「第一国立銀行」ができたのがこの地でした。

文明開化期には「新しく素敵な洋風建築の銀行」の存在もあり

東京の金融の中心地となったこともあり

この界隈は東京の新名所となっていたそうです。


株式の電子取引が主流となってきており

いわゆる「場立ち」もなくなって

以前ほど兜町が賑わいを見せなくなっている、と言われる昨今です。

しかし、日本橋に隣接するエリアであるということもあり

徐々に街の再開発計画も進められているようですよ。

再び「東京の新名所となる兜町の姿を楽しみにしたいものですね。

 

 

浅草御堂とは?

[yaz] 2019年2月16日 09:00

某ガイドクラブの研修で「人形町~東日本橋」のガイドを担当することになり、「築地」「人形町」地区のガイドを担当するものとして、興味のあった浅草御堂について調査したので報告します。

築地西本願寺は、明暦の大火で焼失した浅草浜町の西本願寺が再建されたものです。元の西本願寺である「浅草御堂」は、元和7年(1621年)3月、浅草浜町に創設されました。場所は横山町2丁目南側町屋裏。寛永2年(1625年)別院として幕府が公認し、「西本願寺」となりました。別名「江戸海辺御坊」とか「浜町御坊」とも称されます。

武州豊嶋郡江戸庄図を参照すると、元吉原裏の浜町堀を北上した東側に浅草御坊を見ることが出来ます。(下の切絵図参照のこと)

浅草御坊地図.jpg

 

江戸海辺御坊.jpg

本堂・末寺の浜町堀側に小さな町屋がありました。ここで「立花」が売られていたと言われており、後に「橘町」と名付けられたという説があります。

 

浅草御坊(西本願寺)内配置.jpg 敷地内は57もの末寺があり、御堂の大きさは12間(幅)X8間(奥行)、御堂の左横の直参墓所は58坪でした。明暦の大火後松平越前守に下賜された大きさが13,000坪と言われていますので西本願寺の大きさは20,000~30,000坪はあったでしょう。

 

浜町堀に面した部分が後の橘町でしょう。橘町は現在の地図で言うと「東日本橋3丁目」と言われています。赤枠で囲った領域が東日本橋3丁目です。

橘町=東日本橋3丁目地図.jpg

 

明暦の大火後、東本願寺は浅草三十三間堂へ、西本願寺は八丁堀築地「海涯」へ移転しました。移転後西本願寺は、数奇な運命を辿ります。

松平越前守邸.jpg

 

明暦の大火による寺院の移転後、寺地は取り上げられ、西本願寺・浅草御堂の跡は、准如と結びつきの強い福井藩の松平越前守が、同年 5 月14日に屋敷を下賜されます。坪数 1万 3000坪もありました。これを期に、この周辺はしだいにその姿を変えていき、松平越前守屋敷の東側に、幕府役人の土地で、町人に貸すことにより実質的に町地となった「童坊町」( 同朋町 )が生まれ、浅草御堂の裏手に引き込まれていた堀が 薬研堀 となって、この一帯の 「谷之御蔵」の下まで船がつくようになり、このあたりに、旗本・家人が給与米を受取る米蔵が設けられました。また屋敷 の南は小さな町、村松町があって、その更に南には武家屋敷が続きます。中央区沿革図集の「延宝年中之形」(上図)を参照してみましょう。西本願寺の場所は「横山町2丁目南側町屋裏」という曖昧な表現が一般的になされていますが、この資料を見るとうなずけますね。

参考資料:

1) 中央区沿革図集

2) 白石孝: 「日本橋橘町商業史覚書-問屋と街-」

       (三田商学研究第41巻第6号 1999年2月)

3) 東京名所図会

 

 

シドモアが見た中央区(2)時代の変化と無縁な予期せぬ掘出物とは

[Hanes] 2019年2月14日 14:00


こんにちは。新人特派員のHanes(ハネス)です
前回に引き続き、シドモアが見た中央区にフォーカスしたいと思います!

■江戸の面影(p. 75)
この箇所では、江戸の面影が残る東京の風景について、
当時の海外の人から見た忌憚のない正直な感想がつづられています

「初めて目に入る東京の風景は、横浜の最初の風景と同様、旅行者をがっかりさせます。銀座、この商業地区のメイン通りは、[新橋]鉄道駅の反対側にある橋から始まって、東海道の北端・日本橋へまっすぐ延びています。日本橋は全国距離測定の交通原点です。道路の大分部に、外国を手本にした月並の建物、縁石、緑陰が並んでいますが、その道を鉄道馬車[馬車鉄]がプープー音を響かせ、軽乗合馬車がガラガラ走るので、街の風景をかなり不調和にしています。これは観光客の夢見た大江戸ではなく、まして東洋の大都会でもありません。漆喰壁、木造円柱、ぎらつく店の飾り窓、けばけばしい模造品の山、このありさまに観光客はすっかり面食らいます。」

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初読時には、「そんなに言わなくても...」となんだか悲しい気分になりましたが、
外国の風景を見慣れた人からすると、このような厳しい感想が妥当なのでしょう。
そしてまた、私たちが海外でラーメンやお寿司を食べた際に、
「麺がのびていて残念...」「酢飯の部分がパサパサで食べづらい...」と感じたり、
日本式や日本風だという建物や庭園に中国要素を見つけたりと、
「あれ、なんだかイメージと違う...」と思うその感覚こそ、シドモアも体験したものなのではないでしょうか
そんなシドモアはこの後に一言、こう続けています。

「しかし、大都市特有の秘密の場所がたくさんあって、時代の変化とは無縁の予期せぬ掘出物が見つかり、当初の失望感を償うに足る純日本的な宝物が手に入ります。」

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(1932年竣工の高級デザイナーズマンション「奥野ビル」)

つまり、海外(特にヨーロッパ諸国)を手本に変化する中にも、不変の純日本的な場所がたくさんあるということです。
現代の私たちからしても、路地裏や大通りから少し離れたところにある日本ならではの歴史的建造物は、
まさに知る人ぞ知る「秘宝(hidden gem)」と呼べる魅力的な場所なのではないかと思います
また、中には「迷わなければ見られなかった」素敵な風景もあるかもしれませんね。
そのような予期せぬ掘出物があるのも、まち歩きの醍醐味だと言えます

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(1929年竣工の都選定歴史的建造物「宮川食鳥鶏卵」)

今回ご紹介したシドモアのコメントは、現代の訪日観光客が日本に求めていること、
そして海外旅行に行く日本人が求めていることにもつながるような気がします飛行機

ガイドブックに掲載されている王道のスポットを巡るのも良いですが、
伝統文化体験ツアーや「暮らすように旅する」タイプの旅行の人気も高まっています
また、「ザ・お土産屋」のようなお店で綺麗に包装されたお土産を買うより、
地元人の間で定評のあるものを買いたいという声も前より聞かれるようになりました。
そういった意味では、訪日観光客が何を求めているのかを考えるうえで、シドモアのコメントは参考になるのかもしれません

『シドモア日本紀行』には、軍隊や築地外国人居留地の当時の様子についても、
海外の人ならではの目線からの記録が残っています。
中央区立図書館に蔵書がないのは残念ですが、一読の価値がある書籍です
次回は、シドモアが見た新富座を取り上げます!

【参考文献】
エリザ R. シドモア(著)/外崎克久(訳)『シドモア日本紀行』(講談社、2002年).

 

 

◆ 京橋物語4~震災から昭和へ

[隅田の花火] 2019年2月14日 09:00

京橋物語の4回目。前回からの続きです。

前回まで→ 京橋物語 【①】 【②】 【③】

 

大正時代、大きく変貌していった南伝馬町の街並みが写された絵葉書です(大正10(1921)年頃)。絵葉書には「京橋通り」と書かれています。現在は「中央通り」という名前ですが、昔の絵葉書にはその場所毎に「銀座通り」「京橋通り」「日本橋通り」と印刷されました。それぞれの通りの名前が全国各地に写真付で届けられ、東京の発展が視覚的に知れ渡ったのです。

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しかし東京は、大正12(1923)年9月1日の出来事に襲われてしまいます。

 

この日の学校は始業式で、土曜日だったこともあり、子ども達は家路について昼御飯を食べようとしていました。被害の原因は、11時58分の地震の揺れによる建物の倒壊というよりも、そのあとに各地で発生した火災でした。それは南伝馬町も例外ではなく、街が焼かれてしまいます。

 

京橋川の少し上流、紺屋橋辺りから見ています。京橋川の護岸の先に写る大根河岸は焼失しています。しかし、南伝馬町の大きなビルは倒壊していないように見えます。

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京橋に近づいて確認してみます。下の絵葉書は、銀座側から京橋川越しに、橋と南伝馬町を見たものです。京橋は崩落を免れ、中央の背の高い第一相互館、左の大同生命、三十四銀行、右の豊国銀行のビル達は倒壊していません。あのモコモコした「3つのドーム屋根」は残ったのです。

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この関東大震災では、多くの有名な建物が崩れ落ちました。一番背が高いとされていた浅草の凌雲閣(浅草十二階)も被害を受けてしまい、南伝馬町の第一相互館がこの辺りで一番背の高い建物に成り代わります。第一相互館はこの後、復興してゆく東京を、一番高い場所から眺めていくことになるのです。

 

第一相互館から、震災の被害の状況を確認してみます。まず銀座の反対側、日本橋方面です。真下の街は、現在の京橋2丁目、当時の南伝馬町2・3丁目になります。

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瓦礫の山と化していますが、震災の3ヶ月前に竣工した千代田館は倒壊しませんでした。この葉書を作成したのは、千代田生命保険。葉書を各地に送り、本社の建物が倒れていないことを伝えました。それは契約者に安心してもらう目的があったようです。当時はまだラジオが無い時代。各地で情報が錯綜するなか、絵葉書は震災の情報を視覚的に伝えるメディアとして大きく機能したのです。

 

一方の第一相互館。この葉書も第一生命保険が作った絵葉書です。千代田館辺りから撮られた、9月28日の京橋通りになります。

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道路脇には小屋やテントのようなものが建てられ、通りには多くの人が集まっています。混沌としている様子も伺えますが、復興に向けて立ち向かう人びとのパワーも伝わってきます。

 

第一相互館から銀座方面を確認してみます。右下の京橋の袂には瓦礫が積まれているものの、その奥の大根河岸の建物は、仮屋のようなものが建ち始めているのがわかります。

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橋上には、荷馬車、リヤカーのような物が見え、復旧の真っ最中です。通り沿いの右側に建つ大きなビルは、震災を乗り越えた大倉組本館。通りの左側には、のちに開店する松屋の鉄骨が、僅かながら見えています。

 

銀座通りは、明治時代の煉瓦街から発展してきた高級街でした。しかしここでその時代の終わりが告げられ、新たな街へのスタートが切られることになったのです。

 

他のビルの状況を確認してみます。奥に東京駅が見える方角です。家々が建てられて、復興してきている様子も伺えます。

s_hanabi_71-7.jpg左のビルは片倉館、右は真四角窓の星製薬です。片倉館はこの後増築を繰り返して大きくなっていきますが、星製薬のビルは被害を受けてしまったため、この後、建て替えられることになります。真ん中に走る鍛冶橋通りは、震災復興事業による道路の拡幅が行われていきます。

 

この大震災の影響で、11月に行われる予定だった東宮殿下(のちの昭和天皇)の婚儀が延期となっていました。翌年の1月26日にご成婚、6月5日に祝賀となり、京橋には奉祝塔が建てられます。

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南伝馬町から銀座方面を写したものですが、銀座の新しい街並みが、もう形作られてきていることが分かります。この祝賀は、復興してゆく銀座通りに新たな希望と勇気を与えたのではないでしょうか。この5ヶ月後、銀座通りの尾張町には百貨店の松坂屋が開店することになります。

 

一方の南伝馬町。この界隈の大きなビルは倒壊しなかったため、銀座側から見ると震災前からほとんど景色が変わっていないように見えてしまいます。実際に絵葉書を見て、震災前なのか後なのか、時代を特定するのにとても苦労しました。

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手掛かりとなったのは、絵葉書に書かれている文字と、一番左手前に写るバラック風の建物です。この建物が写っていれば、震災後の南伝馬町の風景になります。

 

乗り合いバスが多く写るようになってくるのもこの頃から。大正14(1926)年の風景です。この年は、ラジオ放送が開始された年でもあります。

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震災があったにもかかわらず、大正時代の香りを残した南伝馬町の街並みは、何も起こらなかったかのように『昭和』の時代を迎えます。生まれ変わる為に最善の道を探る銀座の街からすれば、この南伝馬町の街並みは、ノスタルジックでもあり、見守ってくれているようでもあり、異様にも見えたかもしれません。

 

しかしここで突然、南伝馬町の街並みに変化が起こりました。

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左側の大同生命ビルのドーム屋根が、なんと、グィ~ンと伸びたのです。

 

このトンガリ屋根はまるで、大正時代の京橋の親柱の意匠が乗り移ったかのよう。橋を架け替える時にまさか将来を予見して、親柱の意匠をトンガリ風にしたというわけではないでしょう。南伝馬町の街はどちらかと言うと、新しく生まれ変わるというよりも、昔へと回帰しているように感じられてしまいます。

 

いずれにしても、南伝馬町の街並みと京橋の意匠が一体化したのは事実のように思います。

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このように、関東大震災を乗り越えた南伝馬町の街並みは、大正時代の雰囲気をそのまま昭和時代へと継承し、復興してゆく銀座の街を見守り続けていくことになったのです。

つづく。

 

 

 
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