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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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赤穂義士 間新六供養塔が本願寺に?

[朱房の十手] 2017年6月23日 09:00

間 新六供養塔

 

DSCN0722 (2).JPG毎年暮れになると必ず放映される「忠臣蔵」

主君 浅野内匠頭の仇討ちに父、兄(吉良上野介に一番槍を付けたと云われています)と共に加わりました。

 

吉良邸討ち入りでは裏門隊に所属し、同士と共に毛利邸で切腹しました。

遺骸は姉婿 中堂又助の手によって、自分の菩提寺 築地本願寺に埋葬されました。

 

当然ながら「一人ぼっちの本願寺」と「同士とともに眠る泉岳寺」に異なる墓碑があります。

 

DSCN0723 (2).JPG伝承ですが討ち入り後、引き揚げ時に自分の槍と供養料の金子を結び付け境内に投げ入れた話が伝わっています。

今も「新六の赤槍」が寺宝として残っているそうです。(見学不可)

築地市場のすぐそばです。買い物帰りにお立ち寄りください。

 

 

一石橋

[O'age] 2017年6月23日 09:00

一石橋 (八重洲1丁目11番先)

 

現地の中央区教育委員会の説明板(中央区民文化財・下左写真)によると、橋名由来は橋の北の本両替町に幕府金座御用の後藤正三郎、橋の南の呉服町には、幕府御用呉服所の後藤縫殿助の屋敷があり、後藤をもじって五斗、五斗+五斗で一石と名付けたとしている。これには異説もあると、「中央区ものしり百科」にも次のように紹介されている。江戸初期、使用禁止となった永楽銭一貫文に付き、米一石と取りかえた場所がこの橋であったことに由来する。

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また、南橋詰には「一石橋迷子しらせ石標(東京都指定文化財)」が有りこの付近は、江戸時代には大勢の人々で賑わう場所であったようだ。迷子になると親子が一生離れて暮らすこともあったとか。この石標は唯一江戸時代からのものと記載され貴重な歴史資料とされている。
また、この西側には2020年以降に日本一の超高層ビルが計画されていて、既存ビルの解体等が進められている。多くの人の注目を集める地域になっていくのではないか。

IMG_9205.JPG上部を高速道路が通り、一石橋の下部は水面からの高さが低い。

 

一石橋はまたの名を八見橋として、江戸名所図会などにも紹介されている。この橋上から自身を含めて八つの橋が見えたからだという。今は道三堀や外堀が埋められて、残っているのは常磐橋(解体改修工事中)、一石橋、江戸橋、日本橋の四つになっている。道三橋、銭瓶橋、鍛冶橋、呉服橋の四つは、現物の橋はないが、説明板が設置されているところもある。

 

下左の写真、北側常磐橋方向。改修工事中の旧い常磐橋は常盤橋に隠れて見えない。右の写真は日本橋方向、高速道路の橋げた等で、江戸橋は見えないが日本橋はほんの少しそれらしいものが見えた。

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下左は、道三橋跡、下右写真は呉服橋跡説明板。

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下写真は鍛冶橋跡説明板。

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◆ 信玄公と團十郎ロマン

[隅田の花火] 2017年6月22日 12:00

東日本にお住まいの方であればおそらくご存知、天乃屋さんの歌舞伎揚です。

s_hanabi48-1.jpgこの個包装の裏を見てみると、

「このおせんべいは丸い形と四角い形があります」と書いてあります。

 

歌舞伎揚は、丸形や四角形の歌舞伎の定紋をデザインした生地を揚げているのだとか。時代とともにやわらかく揚げるようになり、模様が見えなくなったのだそうです。個包装に付されている四角形が歌舞伎の定紋のひとつで、「三升(みます)」といいます。

 

 

一方こちらは、お饅頭で有名な中央区明石町の老舗・塩瀬総本家の「袖ヶ浦最中」。

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この袖ヶ浦最中は一風変わっていて、最中の皮とあんこが別々。食べるときにワクワクしながら合体させ、サクサクした食感が味わえる、という一品。明治期の9代目市川團十郎が考案したそうで、別名は「團十郎最中」。パッケージの「三升」は、市川團十郎家の定紋なのであります。

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9代目團十郎と言えば、私が2月に「昭和7年の冊子」を通して書いた記事 の歌舞伎役者。表紙が「三升」の定紋のデザインになっているこの冊子は、昭和7年・歌舞伎座での9代目團十郎30年追遠興行の時のものです。

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昭和7年。この年は市川宗家にとって転機になった年と思われます。当時の市川三升(さんしょう・没後に10代目團十郎の名が贈られる)によって、市川團十郎家の発祥が解明された年だからです。

 

冊子にはその團十郎家の発祥が載せられています。それは、團十郎の先祖は戦国時代に甲斐の武田家配下に仕える侍だった、という甲州説。

 

市川團十郎家の発祥は今もさまざまな説があります。甲州説は昔からあったようなのですが、それを裏付ける家系図が発見されたのが昭和7年でした。

 

その市川團十郎の発祥の地は、山梨県の市川三郷町なのだとか。そこに「歌舞伎文化公園」があるということを知り、4月の花見で山梨県を訪ねた際に立ち寄ってみました。

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「歌舞伎文化公園」は甲府盆地を見下ろす景色の素晴らしい高台にあり、戦国時代には武田家の重臣だった一条信龍(信玄公の弟)のお城がありました。團十郎家の先祖はこの人に取り立てられていたようです。

 

この公園には資料館、そして市川團十郎発祥之地記念碑があります。1980年代、当時の海老蔵が12代目團十郎を襲名するにあたりこの記念碑が建てられました。ずっと果たせなかった10代・11代目團十郎の願いがこの時に叶えられたのだそうです。

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せっかくなので昭和7年の冊子の内容と資料館で得た情報を合わせてみると、初代團十郎までの甲州説は、

 

市川家の祖先は甲斐国武田家の侍である堀越十郎だった。

三増峠の戦いで武功を上げ、一条信龍の城の近くに知行地が与えられた。

武田家没落の後、一族が信仰していた不動明王を頼りに成田不動尊に救いを求め、下総国埴生郡幡谷村(成田山の近く)に移り百姓となった。

その孫は江戸に出て和泉町(現在の中央区人形町付近)に住み、幡谷十蔵と名乗った。

十蔵は一人の男子を儲け、その子は海老蔵と名付けられた。

和泉町の隣町に中村座と市村座があったので芝居に没頭するようになり、市川段十郎と名乗る役者となった。

隈取りや見得(みえ)などの誇張的表現を用いながら見せる「荒事」の演技様式を創始し、名を團十郎と改め、江戸歌舞伎をリードしていく存在となっていく。

 

という流れなのですが、ここに来て面白かったのは、「三升」の定紋について書かれている説明板。三升の定紋についても様々な説があるようなのです。

 

昭和7年の冊子には、

「初代團十郎が不破判左衛門を勤めた折に、稲妻と三升を縫い伏した衣装を用いた時から、定紋が三升と改められた。」

と書いてあるのですが、公園の説明板には違うことが書かれています。

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三升の紋は、大・中・小の3つの「升(枡)」を入れ子にしたデザインですが、

 真ん中の枡は・・・1升分の「京枡」(お米の1升=10合)、

 小さい枡は ・・・5合分の京枡(半枡)、

 大きい枡は ・・・3升分に値する「信玄枡」

なのだそう。

 

三升枡や甲州枡とも言われる信玄枡と、2つの京枡を合わせると、綺麗な「三升」の紋になるという説明です。これは、團十郎の発祥が甲州であることを裏付けるものだといいます。

 

その他にも、

「三升家紋の四角が團十郎の團という字に似ているから」

「ますます繁盛(枡枡半升)とあやかった」
と、いろいろ書かれており、ネットで探してみても、

「團十郎の先祖が武功を上げた三増峠の戦いの名に由来」

なんていうのも出てきます。

s_hanabi48-8.jpg「成田山に向かったのは信玄公が不動明王を信仰していたことにも通じている。」

「荒事の荒々しさは、甲州弁から生まれた。」

「海老蔵の名は、 武田の赤備えの甲冑が赤く殻を被っている海老に似ているところから生まれた。」

と、信玄公に関連する團十郎ロマンは探してみるといろいろと出てくるのであります。

 

 

團十郎が信玄公に関わりがあることは驚きでしたが、謎が多いゆえに、これまでに生み出されてきた歴史ロマンの多さにも驚きました。

 

元々信玄公にある戦国時代の大きなロマンに、團十郎のロマンが重なって、さらにロマンが広がったのだろうと思いますが、こうしていろいろな人が研究したり想像したりしてきたことを見聞きすることは、歴史の楽しみのひとつなのだと感じました。

 

 

 

この人、誰だっけー?

[朱房の十手] 2017年6月20日 16:00

DSCN0779.JPGヤン・ヨーステン 記念像

 

八重洲通り中央分離帯と中央通りの交差点に日蘭修好380年を記念して設置されました。

 

「八重洲」の名称は彼の屋敷があったことにちなんだものです。

 

DSCN0780.JPGオランダ人の航海士としてオランダ船「リーフデ号」に乗り、1600年に豊後に漂着しました。徳川家康の信任を得て、ヨーロッパ事情、通訳、外交顧問として活躍しました。

 

日本橋で買い物ついでに、ご覧ください。

 

 

夏越 茅の輪くぐり

[あすなろ] 2017年6月19日 14:00

 
「水無月の夏越の祓する人は
   千歳の命延ぶといふなり」

 小網神社.jpg
<小網神社>

6月晦日の大祓は夏越の祓と呼ばれます。

参道に茅を束ねて輪の形に作った茅の輪が設けられ

これを3回くぐったり、上記の歌を3度唱えてからくぐり

心身を清めるものです。

 

 末廣神社.jpg
<末廣神社>

大祓は多くの神社で執り行われます。

 
◆小網神社
 東京都中央区日本橋小網町16-23

◆末廣神社
 東京都中央区日本橋人形町2-25-20

 

 

 

名水 白木屋の井戸

[朱房の十手] 2017年6月17日 18:00

DSCN0742.JPG 名水白木屋の井戸 

 

江戸初期に埋め立てられた日本橋地区

 

元々は海です。武士も町人も良水の不足に苦しんでいました。

 

日本橋で大呉服商であった白木屋 二代目 木村彦太郎は私財を出し、1712年に清水がこんこんと湧き出る井戸を掘りあてました。将軍家にも献上されました。大名また付近の住民にも広く使われ、数百年使用されました。

 

いまは、コレド日本橋アネックス広場に左写真の石碑が建つています。

日本橋でお買い物ついでに、ご覧になってください。

 

 
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