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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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ぺんてる株式会社の歴史とサインペン  ~ ぺんてる ~

[rosemary sea] 2017年2月18日 09:00

『ギフト、そして自分も楽しむ』をコマンドとして取材します、 rosemary sea です。

  

本社ビルa.jpg

 

今回はぺんてる株式会社 マーケティング推進部 内村さんに記事掲載のご承認及び画像のご提供をいただきました。

 

大手文具メーカーのぺんてる株式会社さん。

筆や墨、硯の卸問屋を浅草で営んでいたのがそのルーツ。

昭和21年(1946年)、日本橋小網町の現在地に移転して大日本文具株式会社設立。

昭和46年(1971年)、社名を「ぺんてる株式会社」としました。

 

ぺんてるという社名の由来は・・・

ペインティング(絵の具などで絵を描くこと)とパステル(固形描画材)を合わせた造語。

筆記具の総称のペン(pen)と、「伝える・表現」のテル(tell)の意味を含む、ともされています。

画材メーカーとしての創業が上手に表現されている上にまさに製品や事業内容を象徴している、そのようなネーミングです。

 

次にぺんてるさんの成長きっかけとなりましたサインペンについて。

※ ここからのお話は昨年11月に受講した「舟運ガイド研修」(船のガイドの研修)で講師より伺いました。

 

昭和38年(1963年)、ぺんてるサインペン発売。

皆さんご存知のとおり、今も根強い人気商品ですね。

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(ロズマリの勤務先でも赤と黒のサインペンはずっとぺんてるさんのものです。)

 

しかし8年もの歳月をかけた研究の末完成したこの携帯用水性サインペンは、当初日本では全く売れませんでした。

 

ところがその翌年、ここから想定外の、驚くべきエピソードに繋がります。

 

ニューズウィーク表紙.jpgアメリカでの見本市で配布したサインペンのうちの1本が当時のアメリカ大統領:リンドン・ジョンソンの手許に。

ジョンソン大統領、その書き味に感激、このサインペンを愛用することとなりました。

大統領、一度に24ダース(288本)を発注されたそうです。

このことが雑誌で伝えられると注文が殺到・・・。

ぺんてるサインペンはアメリカで人気に火が付きました。

日本での大人気はこの後となります。

サインペン見本市1b.jpg

宇宙飛行士.jpg

 

もうひとつ、これはサインペンとして、やはりアメリカでのお話。

 

ボールペンはインクが重力によってペン先に下りてきます。

よって宇宙ではボールペンは使用できません。

NASA(アメリカ航空宇宙局)は悩んでいました。

そこでサインペンに脚光が。

サインペンは重力に頼らずインクを吸い上げる構造。

ここに着目してNASAはサインペンを無重力空間でも使える公式スペースペンとして指定。サインペンは宇宙飛行士が使う筆記具として1965~66年の有人宇宙飛行「ジェミニ」に乗船を果たします。

 

現在サインペンは世界で認められ、世界中で販売されています。

ぺんてるサインペン発売から50余年、ロングセラーのヒット商品となっています。

 

ぺんてる株式会社

日本橋小網町7-2

ぺんてる株式会社さんのホームページはこちら ⇒ http://www.pentel.co.jp/

 

 

黒江屋さん、その歴史  ~ 漆器 黒江屋 ~

[rosemary sea] 2017年2月17日 09:00

『ギフト、そして自分も楽しむ』をクローズアップして取材します、 rosemary sea です。

  

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漆器の老舗、黒江屋さん は前回ご説明させていただきましたとおり、元禄2年(1689年)の創業です。

今回はその黒江屋さんの歴史について述べてみたいと思います。

株式会社 黒江屋 取締役 支配人 田中さんに掲載のお許しをいただきました。

 

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上の写真は関東大震災以前の黒江屋さんのお店です。

 

黒江屋さんの「黒江」は紀伊国名草郡黒江村(現在の和歌山県海南市)に由来します。海南市は和歌山市、、有田市、紀の川市などと隣接する瀬戸内気候に属する温暖な丘陵地。

鎌倉時代の正応(しょうおう)元年(1288年)、高野山を追われた僧侶たちが紀の川上流、紀伊国那賀郡に移り根来寺を建てます。

そして時は流れ戦国時代、根来寺は織田信長に反逆。信長は怒り、秀吉に命じて根来寺に焼き討ちをかけました。

漆器の産地として有名であった根来、そこで根来塗を作っていた僧侶たちは各地に流れ散りまして、その一派が下流の黒江村へ。これがきっかけとなり黒江村に漆器作りが広まったと云われています。

 

この黒江村からまず大坂へ、そこから江戸へ出てきた人物がおります。

姓名不詳ですが、日本橋本町に漆器店を開きました。

これが黒江屋さんのルーツです。

 

この黒江屋さん、安永3年(1774年)に経営権が移ります。

今で云うM&A。新しい経営者は柏屋さん、現在まで続く柏原家です。

呉服小間物問屋などを中心に、手広く商いをしておりました。

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安政3年(1856年)、店を本町から現在地に移し、現在に至ります。

黒江屋さんの商標に「柏」がついているのも柏原家に由来します。

 

当時は諸大名、大奥などのご用をつとめ、明治以降は宮内省のご用もつとめています。明治23年版の商人名家集「東京買物独案内」にも載っています。

以前は1階に全国からの高級漆器、2・3階は婚礼調度品、家具などの売場となっていました。

 

柏原家の祖先は加藤清正公の家臣で、寛永年間(1624年~1643年)京都に呉服・小間物問屋のお店を開きました。

さらに江戸店として本町に江戸十組問屋仲間に属する小間物・木綿等の問屋を持つことに。

江戸店を持つ京商人として現在発祥の京都五条に約300年前のお屋敷があります。また、蔵の内容物を年2回、洛東遺芳館の名で展示しています。京都三条高倉の京都文化博物館には江戸時代の町屋としての20分の1の模型が展示されています。

 

ここで日本橋の「通り三軒」について。

江戸元禄の頃から明治・大正・昭和と、日本橋の通り筋にお店を並べていた漆器店が3軒ありました。

いずれも大店(おおだな)で、「木屋」、「きん藤(とう)」、「黒江屋」。業者仲間では通称「通り三軒」と呼ばれ、戦前まで親しまれていました。

「木屋」はあの「刃物の木屋」さんと同じく木屋の分店の漆器店です。

残念ながら戦後廃業されました。

「きん藤」は反物の近江屋と藤右衛門の名の合体で「近藤」と名乗りましたが、「コンドウ」と間違われることからのちに「きん藤」と改めました。

こちらの漆器店も戦後すぐに譲渡・廃業しています。

黒江屋さんは日本橋のたもとで現在も漆工芸の精緻を、伝統を、しっかりと守り続けています。

現在の株式会社黒江屋 柏原和弘社長は12代目です。

漆器販売業、板紙(いたがみ)を扱う紙販売業、不動産賃貸業が現在の柏原家の家業の三本柱となっているそうです。

 

日本橋1-2-6 黒江屋国分ビル2階

03-3272-0948

営業時間  9:00~18:00

定休日   土・日・祝祭日

東京メトロ  日本橋駅 B9出口より徒歩1分

        三越前駅 B5出口より徒歩3分

日本橋の橋からみて榮太樓總本鋪さんの手前隣り、2階です。

黒江屋さんのホームページはこちら ⇒ http://www.kuroeya.com/

 

 

学校発祥の地めぐり(明石町周辺)

[ジミニー☆クリケット] 2017年2月16日 12:00

明石町周辺、と言うか、聖路加国際病院の周辺には、学校の発祥を記念する碑がたくさん建っています

はまだ冷たいですが、晴れた日にそれらの碑文などを読みながら、ぶらぶら散歩するのもよいものです

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と言うことで、まずは聖ルカ通り沿いの「慶応義塾発祥の地(明石町11先)

慶応義塾の起源は、安政5年(1858年)、福沢諭吉中津藩奥平家の中屋敷に開いた蘭学の家塾に由来するそうです

この近く、聖路加国際大学の周辺には、「女子学院」、「立教学院」、「立教女学院」(明石町10)の記念碑があります

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カトリック築地教会付近には、居留地中央通り沿いに「暁星学園」(明石町7)のがあり、通りを挟んで向かい側(明石小学校側)の、ちょっと離れたところに「関東学院東京中学院)」(明石町1-5)と「雙葉学園発祥の地」(明石町1-6先)があります

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聖路加タワーに近づくと、通りの同じ側に「明治学院」(明石町7-16)、「女子聖学院」(明石町6-24)、「青山学院記念の地」(明石町6-26)があります

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また、あかつき公園の西の入り口近くには、「工学院大学学園発祥の地があります(築地7-3-10)

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ミッション系の学校が多いのは、幕末から明治にかけて、ここが外国人居留地だったことによるのでしょう

中央区には、いたるところに学校発祥の碑がありますが、これだけ密集しているエリアはここだけです

 

 

西郷どん(せごどん) ~ 千疋屋総本店 ~

[rosemary sea] 2017年2月14日 09:00

『ギフト、そして自分も楽しむ』をインターフェイスとして取材します、 rosemary sea です。

 

DSC01900a.jpg今回またも本来の『ギフト』と離れますが、『微笑みのおすそ分け』というこれもある意味ギフト、と信念を抱いて書きます。

 

千疋屋総本店さんご紹介はロズマリとして4度目ですが、内容としてままだ紹介し切れていません。

 

株式会社 千疋屋総本店 営業本部 アシスタントマネージャーの山口さんにご協力いただきました。

営業本部が入っているのはお店の向かい側のビル。1階にはアンテナショップの三重テラス。(右の写真)

 

中央区観光協会発行の「中央区はじめて物語マップ」に掲載されているところでは、千疋屋さんは『日本で最初の果物専門店』。

 

三代目大島代次郎氏が国産果物の品質改良、外国産の果物、種の輸入にちからを注ぎ、果物専門店を創立。・・・このお話は1月の千疋屋さん1回目のご紹介で触れました。

歴史ある千疋屋さん、いろいろ逸話も豊富のようです。今回もひとつ。

ちょっと遠めからご説明します。しっかりついてきてください。

 

2018年のNHK大河ドラマ第57作は「西郷どん(せごどん)」。西郷隆盛さん、1990年の「翔ぶが如く」に続き2度目のクローズアップです。

原作:林真理子さん、脚本:中園ミホさん、主役は鈴木亮平さん。今発表されているのはこのくらいです。7月クランクイン予定とのこと。

これからどのような役者さんが脇を固めるのか、気になります。楽しみですね。

 

この西郷さん、中央区に詳しいかたはご存知と思います。

西郷さんは明治4年(1871年)に参議に就任し、上京しました。親父橋界隈には大名屋敷があり、旧酒井雅楽頭の中屋敷跡、ここに屋敷を構えました。

DSC01915b.jpg日本橋1-1-17、日本橋小学校の正面玄関左脇に説明板があります。(左の写真)

書生15人、下男7人、猟犬数頭。もちろん散歩も日本橋をうろうろ。

西郷さんは千疋屋さんをひいきにしており、二代目大島文蔵氏の奥さん、むらさんに絶大な信頼を寄せていました。

暑い夏の日、「おっかあ、でっかな西瓜持って来いよ」と大きな声が店頭に響くことも。

明治6年(1873年)、征韓論に敗れ、西郷さん、鹿児島へ帰ってしまいましたが、屋敷を引き払う際むらさんに「この屋敷、あげようか?」と、失意を隠すための精一杯の冗談とも本気ともつかない言い振り。

むらさんは「あまりにお屋敷が大きすぎて」辞退。実は広さは2633坪。

むらさんはこのやりとりに西郷さんの胸の内の空しさを垣間見た気がしたといいます。

 

DSC01901a.jpg千疋屋総本店 日本橋本店

日本橋室町2-1-2 日本橋三井タワー内

三井タワーの中央部は5つ星ホテルのマンダリンオリエンタル東京、左側は三井記念美術館、右側が千疋屋総本店日本橋本店となっています。(右の写真)

03-3241-0877(販売部)

03-3241-1630(フルーツパーラー / レストラン直通)

営業時間

1Fメインストア  10:00~19:00

1Fカフェディフェスタ 9:00~20:00(19:30)

2Fフルーツパーラー&レストラン 月~土 11:00~22:00(21:30)

日、祝日 11:00~21:00(20:30)

2FWINE&DININGデーメテール 

月~土 11:30~14:00 、 17:30~22:00(21:00)

日、祝日 11:30~14:00 、 17:30~21:00(20:00)

カッコ内はラストオーダーです。

フルーツ食べ放題開催日の2Fパーラー&レストランのラストオーダーは21:00です。

元日を除き無休

ただし、2月26日(日)はビル全体の電気系統点検日となりましてお休みです。

 

千疋屋総本店さんのホームページはこちら ⇒ http://www.sembikiya.co.jp/

 

 

佃島4稲荷社初午祭・地口行灯の風情

[サム] 2017年2月13日 12:00

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DSC03695RS'G.jpg 2月12日は初午。

旧佃島地区には稲荷神社が3個所4社鎮座しています。

一部(上町)には、住吉神社の境内社のひとつで、明治2年、大伝馬町1丁目より遷座したとされる「入船稲荷神社」。

二部(下町)には、佃島の開祖森孫右衛門一族が奉祀した屋敷神が発祥とされる「森稲荷神社」。

三部(東町)には、玉垣の刻銘に元漁師町の残影を残す「浪除稲荷神社・於(御)咲稲荷神社」。

稲荷神社の総本社、京都伏見稲荷大社の祭神が臨降したとされるのが、和銅4年(711年)2月初午の日。

豊作を祈る農村のお祭りが原型となり、稲荷信仰が結びついたのが「初午祭」とされます。

江戸時代、初午祭には、地口(駄洒落の意)の絵行灯が神社を飾り、賑わったとされますが、佃地区には、今でもその風情が残っています。

芝居などの台詞や成句などを捩(もじ)ったもので、飾られた行灯のひとつは「ゑんま舌の力もち(縁の下の力もち)」と読めます。

祭典の運営は佃住吉講の講員があたり、10:00から住吉神社平岡宮司が各稲荷神社を回り、修跋式が執り行なわれます。

神饌として油揚げの他、酒、海の幸、山の幸等々が供えられ、各々の神社名を染め抜いた奉納旗が並び、太鼓の音が響き、祭りムードを盛り上げています。

 

 

◆ 今年は歌舞伎を観てみたい

[隅田の花火] 2017年2月10日 09:00

 

昨年の秋、旅行に行った滋賀県の近江八幡。水辺のある風景や、古い商家が連なる街並みがとても綺麗なところである。

街を散策していて趣のある古具屋に立ち寄ると、店先に乱雑に置かれている冊子が。右から書かれている『歌舞伎座』という文字が目にとまった。

 

s_hanabi43-1.jpg歌舞伎座の興行の時に歌舞伎座で売られていたと思われる古い冊子。『昭和7年11月』と書いてある。かなり古いなぁと思いながらも、結構綺麗な保存状態であるのに驚いた。

 

歌舞伎座は東京の中央区にある。何だか特派員の私に向けて『買ってください』と言われているような気がして、値段を見たら500円、帰りの新幹線で読むことにした。

 

 

『9代目團十郎30年追遠興行・昭和7年11月』。

 

2013年に亡くなった市川團十郎は12代目なので、その3代前。台東区の浅草寺にある團十郎の像。この方が9代目である。

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昭和7年は西暦では1932年で今から85年前、関東大震災後の復興がほぼ終わりを迎え、次の時代に向けて歩み始めた頃である。

 

この興行は、9代目團十郎が1902年に亡くなられてから30年後の、1932(昭和7)年11月に行われた。

 

 

昭和7年の冊子をめくってみる。演目が書かれていた。

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実は私は観劇自体を殆どしたことがないので、歌舞伎についてはあまりよくわからない。「勧進帳」はなんとなくわかるが、「口上」って何だ??そんな情けないレベルである。  

 

 

わかるページをパラパラと探す。

 

歌舞伎座の中の各食堂のメニューの値段が書いてある。聞き慣れた店の名もある。 

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 コーヒー   ・・・15銭

 ソーダ水   ・・・20銭

 親子飯    ・・・70銭

など、いっぱい書いてあるが、一番高いメニューは竹葉亭の上蒲焼、2円だ。

 

因みに観覧席の値段。一番高い席は7円80銭、安い席は90銭。今となっては逆に想像が難しい。

 

 

歌舞伎座の建物写真や座席図も載っている。

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昭和7年頃、歌舞伎座の建物は3期目の建物でその後の空襲で焼けてしまった。この3期目の建物は真ん中に大きな破風屋根があったのが特徴だ。現在の建物は数年前に完成したタワービル併設の建物で5期目となる。

 

 

「9代目團十郎の功績」を解説した長文のページ。読むのに苦労したが、少し整理してまとめてみた。

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江戸時代、中央区にいくつかあった歌舞伎の芝居小屋は江戸末期の天保の改革で浅草に移ることになるが、この頃に9代目團十郎は生まれている。

 

明治の時代となり、守田座が今の中央区新富に戻ってくる。その後守田座が『新富座』と名を変えたのと同じ頃、1874(明治7)年に9代目團十郎を襲名。この頃にまだ歌舞伎座は無かった。

 

9代目團十郎の一番の功績は、演劇改良運動の一環で「活歴」と呼ばれる新しい劇に「挑戦」したこと。史実と異なる内容や演出を改めて、史実を尊重した脚本としたり、本物に近い衣装や小道具を使ったりする新しい劇に取り組んだ。

 

新富座の新しい建物が1878年にできるが、ガス灯のある近代的な建築であるこの新富座は、明治という新時代において演劇界の文明開化の象徴的な場所となるだけでなく、團十郎の挑戦を後押しする場所となり、歌舞伎興行の中心となった。

 

この新しい劇は歌舞伎の「活歴物」というジャンルになったが、実際のところ観客の評判はあまり良くなく、なかなかうまくいかないこともあった。

 

しかしこういった演劇改良運動は初の天覧歌舞伎に繋がり歌舞伎の社会的地位向上に寄与するだけでなく、さらには1889年の「歌舞伎座」設立にも繋がり、「団菊左時代」の一翼として明治期の歌舞伎界を盛り上げていくことになる。

 

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(現在の歌舞伎座の建物)

 

要は30年後の昭和7年に記念の興行が行われるような功績を残した凄い人だった、ということだ。

「9代目團十郎」というひとりの人間を通して歌舞伎の歴史を見てみると、断片的な知識が線で繋がったような感じでとても勉強になった。

 

 

 

でもなぜこの冊子は近江八幡にあったのだろう。

 

近江八幡は戦国時代に造られた水運の発達した城下町で、「近江商人」を生み出した商業の街。近江商人は各地に進出し江戸時代を通じて江戸の日本橋でも活躍していたようで、今の中央区日本橋にも近江商人をルーツとする企業が名を連ねているらしい。

 

そのような縁で東京見物で歌舞伎を観にきたのかも、と想像してみた。

 

 

昭和7年は銀座にこの建物が竣工した、そんな年であった。

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歌舞伎座のある東銀座からは歩いて数分。歌舞伎を堪能したあと、この冊子を手にしながら真新しいこの建物を目にしたのかもしれない。

 

 


少しだけ歌舞伎に興味が湧いてきた。

この冊子を見つけたのも何かのご縁。今年は歌舞伎座で歌舞伎を観てみようかと思う。

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(人形町にある勧進帳・弁慶の像)

 

 

5日の日曜日に早速、歌舞伎を観に行ってきた。

まずは無料で観られる『新富座こども歌舞伎』。この新しい歌舞伎の挑戦も今年で10年目を迎えたそうだ。

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(新富座こども歌舞伎・口上)

 

この活動に参加するこども達、かなりの「挑戦」だと思う。『新富座』の名に恥じない、こどもながらのプロ意識にとても感服してしまった。
 

 

 
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