中央区観光協会オフィシャルブログ

中央区観光協会特派員ブログ

中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

執筆者一覧

>>このブログについて

最近のブログ記事

佃島の盆踊り 7月13・14・15日

[ゆりかもめ] 2009年7月15日 09:30

佃念仏踊り 無縁仏様.JPG

  念仏踊りを踊る前に 必ず無縁仏様に御祈りするよう リーダーが指示していました。     

 

7月初め頃、佃煮を買いに行ったついでに「佃島の盆踊りは13・14・15日ですよね・・・・」って尋ね たら「念仏踊りだよ・・・・」って返事が返って来ました。

夕方6時より8時までは子供達の踊りです。

8時より9時半頃までが大人の踊りだそうです。

明暦の大火で西本願寺(築地本願寺)が消失した際に門徒であった佃の漁師達が築地の土地を埋め立て延宝8年 本堂が再建された際に盆踊りが行われました(1680年)

これが盆踊りの始まりです。

それぞれが踊る前にまず無縁仏様に御祈りをします。昔、明暦の大火で上流より焼死体が佃島の浜へ流れ着き これを漁民(佃町民)が無縁佛として手厚く葬りました。佃島を守って下さっているという感謝の気持ちを捧げてから 踊り始めます。

8時よりの大人の踊りでは貫禄のあるベテランが 左手にマイク、右手にバチを持ち 太鼓を叩きながら 独特の節回しで 歌い、念仏踊りが進行しておりました。

佃島の盆踊りが 東京都の無形民族文化財に指定されている事を 実感いたしました。

この踊りは 意外と誰でも参加できそうで 輪の中の一人が私にも 「後について来ると踊れるよ・・・・」と 誘って下さいました。

勤め帰りのサラリーマンが 背広姿で輪の中に入って踊っていらっしゃいました。

夜風に吹かれ下町の楽しい夜のひとときでした。

 

佃念仏踊り 1.JPG

 

佃念仏踊り 2.JPG 

 

 

佃念仏踊り 3.JPG 

 

佃念仏踊り 4.JPG

 

佃念仏踊り 太鼓.JPG

 

佃念仏踊り 提灯.JPG

 

 

「町」ものがたり...箱崎町今昔...その4

[寿敦卿] 2009年7月14日 12:00

 中央区沿革図集・日本橋篇所載の明治6(1874)年沽券図をもとに当時の土地所有状況をまとめてみれば次の通りです。
 なお、沽券は土地売渡証文のことで、沽券図には土地の区画毎に地主名、面積、沽券高(土地価格)が明記されています。
 
(地     番)(区画数) (地主数)  (面積・坪)   (構成比・%) (沽券高・円) (単価/坪・円)
箱崎町1-1      1     1      945       3.1        6,500        6.88  

同   2-1~17   17    13     1,879      6.1     4,602      2.45
同 2-18        1     1     2,835    9.2       981     0.35
同 3-1         1     1      8,085        26.2        ー        ー
同 4-1         1     1     13,433    43.5     4,649    0.35 
箱崎町小計      21    17   27,177    88.1    16,732    0.62
北新堀町1-21   21    14   3,673     11.9    19,100    5.20 
総計           42    31  30,850   100.0    35,832    1.16 
旧武家地合計     3     3   24,353        78.9     5,630    0.23
町地合計       39    28       6,497    21.1    30,302    1.16 

(注)1.箱崎町1-1 :三井八右衛門所有
   2.箱崎町2-18:旧関宿藩主・久世氏邸
   3.箱崎町3-1 :開拓使貸付会所(官有地)旧土井大炊・松平伊豆邸
   4.箱崎町4-1 :旧土佐藩主・山内邸

   
 大名藩邸公収の翌年の時点、このデータは江戸期の地域実態をそのまま反映していると見ていいでしょう。
 武家地と町地の比率はほぼ80対20,江戸市街地の平均的な割合は武家地75に対し、寺社地・町地それぞれ15とされていますので、構成比はほぼ平均並みといえるでしょう。
 箱崎町2-1~17の1区画当たり平均面積は111坪に対し、北新堀町は同175坪、規模格差は1.58倍に達します

 

 

銀座の和雑貨のお店めぐり①

[まぴ★] 2009年7月10日 16:00

銀座にある和雑貨のお店をいくつか紹介します。

1.鳩居堂

江戸時代から続くお香や和小物のお店です。
京都にも本店があります。

私はここの京友禅千代紙をはった小物が好きなのですが、
特にこのおこぼ箱とミラーがお気に入りです。

HI380003(1)_1.jpg  2008121322319YSF4S.jpg

ちょっとしたお土産にもいいですね。

あとは季節ごとのカードやグッズもいろいろ。
これからの季節にぴったりの可愛い団扇がたくさんありました。
クリスマス、ひなまつりは商品のラインナップが楽しみです。

RIMG0028_2.jpg鳩居堂
http://www.kyukyodo.co.jp/info/index.html

 

 

 

 

 

2.銀座香十

香具師として最高の技術を持っていたという
高井十右ヱ門さん秘伝の香りのお店です。
創業430年というのもびっくりです。

銀座コアにあるお店が本店なのですが、
私はこちらのガス灯通りにある支店の方が雰囲気があって好きです。

匂い袋と、中に入れる香り粒を買いました。
8種類くらいあったのですが、これが一番いい香りで
名前も「みやび」だったので、名前にちなんで即決でした(*^^*)
右にある小さいものは手紙の中に入れておく文香。

RIMG0298.jpg  RIMG0364.jpg

香道教室も開催されていて、体験教室もあります。

香十 http://www.koju.co.jp/

 

 

3.くのや

糸の問屋さんとして銀座でお店を初めて170年を超える老舗です。

ガーゼのキッチンタオルを買いました。
台所の取っ手にぶら下げておくといい感じです。
ガーゼなので手にも優しいです。

200919211724ni5th.jpg  20091921171094Pe3.jpg

ガーゼハンカチと手拭がゼットになった夕涼みギフト。
桔梗、朝顔、蛍などの風流な柄が夏らしいです。

銀座くのや  http://www.ginza-kunoya.jp/

 

 

漱石のおもかげ

[海舟] 2009年7月10日 16:00

 

落語を好み、江戸情緒豊かな下町・日本橋をこよなく愛した明治の文豪・
夏目漱石の石碑が、ここ5、6年の間に、3基建立されています。

一つは、ここ日本橋三越本店屋上に設置された『漱石の越後屋』。

ck0930-0710.jpg

 

朝日新聞連載中の長編 『虞美人草』 は宣伝効果もあり大きな反響を呼び、
三越はその名にちなむ 「虞美人草 浴衣」 を発売。これが大評判。需要が
多く生産が追いつかず大いに売れたようです。

また、コレド日本橋 (ここは三越のライバル白木屋跡) アネックス広場には
『漱石 名作の舞台』の碑。
青春小説『三四郎』では三代目小さんを聴きに寄席へ、秀作 『こころ』 では
往時のグルメ街・木原店で主人公達に食事をさせる場面を描いています。

そして、清洲橋たもとの中洲には 『漱石「猫」上演の地 真砂座跡』
が置かれています。「猫」とは、勿論、代表作 『吾輩は猫である』。

 いずれの碑文も早稲田大学の第14代総長・奥島孝康教授の
揮毫になります。若き日の漱石が、東京専門学校(現・早稲田大学)で
約3年余り、講師をしていたからでしょう。

江戸のこころと明治の近代的思考、漢学と英文学の融合。
高踏派というジャンルに色分けされる漱石ですが、その持ち味は
あんがい、江戸っ子気質、庶民の匂いのする洒脱さに隠されて
いるのかもしれません。

 

 

◆中央区 ここに歴史あり<5>~江戸の町地は中央区の広さ!?~

[巻渕彰/写楽さい] 2009年7月 8日 17:00

江戸の範囲は、御府内と呼ばれた朱引き内と、町奉行支配の墨引き内との2つの区分があった。この領域に武家地、町地、寺社地が存在していた。 


これらの広さはどのくらいだったのだろうか。資料には、「明治2年(1869)の土地利用状況調査によれば、武家地(約1170万坪)が全体の約70%、町地(約270万坪)と寺社地(約270万坪)が約15%ずつ・・・」(『江戸博覧強記』小学館、2007/6)とある。調査時期は明治期であるが、幕末期と大して変わっていないとして話を進めたい。 


そこで 中央区の面積と比べてみると、中央区全体は約10.1k㎡で約300万坪、陸地面積に限れば約8.25k㎡で約250万坪となる。なんと、江戸期の町地面積と中央区の面積がほぼ同じなのだ。 中央区23区部で2番目に狭い面積であるが、この 中央区の広さが、江戸の町地の広さだったのには驚かされる。 


さらに、人口をみていくと、江戸の人口は時期により変動があり、諸説もあるが、概括的にいわれている約100万人とすれば、そのうち、町人は約50万人とされる。 


江戸の約15%にあたる約270万坪の町地に50万人が暮らしていたのだ。つまり、現在の 中央区に江戸の町人50万人が住んでいたことになる。中央区の人口は約11万人(2009年7月現在)なので、単純計算すれば、江戸町地は実に現 中央区4.5倍ほどの人口が集中した場所だった、となるが、どうだろうか。 


0913_5_090620_nagaya01.JPGこれだけでもびっくりだが、江戸庶民の多くは長屋暮しというから、いかに過密であったか想像に難くない。しかし、一方では、狭いながらも知恵を出しあって、いきいきと生業に励み、暮らしていた逞しい姿が感じられる。(写真は深川江戸資料館の長屋風景=同館は2009/7から約1年間改装工事のため休館 


今日の中央区はマンション居住世帯率が日本一とされ、高層マンションが建ち並び、敷地の立体的利用が図られているので、居住空間は江戸期とは比べようがない。しかし、江戸期の町地の暮しを現在の 中央区と重ね合わせてみていくと、時代の変化や生活の向上を真に享受する上での鑑になるのではないだろうか。 


中央区は江戸の御城下町(おしろしたまち)で、「元祖下町」である日本橋・京橋の町地は商業地、職住地などとして数多くの職種の人々で賑わいをみせ、江戸繁栄の源流となっていく。そして「人が住み、人が集まるところ、活気あり」の体を形づくった。今日の 中央区にその意気をつなげていきたいものである。


■これまでの「中央区 ここに歴史あり」
第1回 「今もある、霊岸島」 こちら>>

第2回 「交差点に残る、今なき橋」 こちら>>
第3回 「区内で一番高いところ」 こちら>>
第4回 「日本橋の隠れた銘板」 こちら>>

 

 

「町」ものがたり...箱崎町今昔...その3

[寿敦卿] 2009年7月 7日 16:35

 中央区沿革図集・日本橋篇所載の御府内備考をもとに、江戸中期以降の箱崎地区をめぐる変化の跡をまとめれば大略次の通りです。
 
延宝 7(1679)年:湊橋架橋、霊岸島と初めて直結。
元禄11(1698)年:永代橋架橋、隅田川対岸の永代島と初めて直結。
            豊海橋架橋、永代橋西橋詰に広小路。
同 17(1704)年:永久橋架橋、蛎殻町と初めて直結。
享保18(1733)年:箱崎町・永久橋間の河岸地745坪を埋立。
            従来の箱崎町を1丁目、新埋立地を2丁目に。
天明 5(1785)年:箱崎町2丁目河岸先304坪埋立完了。

 元禄11年の永代橋架橋により、北新堀通は日本橋方面と、富岡八幡宮や深川不動尊(永代寺)などの名所、さらには、門前仲町辺の岡場所などの盛り場とを結ぶ最短ルートとなり、人通りはかなり多かったといわれています。
 元禄15年12月15日、本所松坂町吉良邸に討ち入り上野介の首級を挙げ本懐を遂げた赤穂浪士47人の引き上げ経路は、両国橋袂から隅田川左岸を南下、永代橋で隅田川を渡り、箱崎地区(北新堀町)に入っています。
 以後の経路が豊海橋経由か湊橋経由かは判然とはしませんが、彼等がこの地区に足を踏み入れたことだけは確かです