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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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「べったら市」はお祭りです

[銀造] 2009年10月21日 09:00

 「べったら市」というと、麹に漬け込んだ大根の漬物、その麹が着物に「べったり」と付くとの

ことで、命名されたとのことです。 今宵は、べったら市を歩いて来ました。

 大きな提燈で、景気も盛り上がります。

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 宝田恵比寿神社の神前には、歌舞伎役者さん達の提燈が。

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 明治座さん、市川左団次、尾上菊五郎、坂東玉三郎、中村時蔵さんらのお名前が、ずらり!

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 向かい側には、お神輿が鎮座。お神酒で、お祭りが盛り上がります。

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 いか焼き、お好み焼きなどの屋台の間に、遠慮しながらの「べったら市」と感じたのは私だけ?

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 こちらも、お値段の交渉中?

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 沢山の出店に混じって、「貝新」さんも出店されていました。 この笑顔につられて4個購入!gemini

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 永く愛されている風物詩です。また来年も来ようと思いました。 銀造

 

 

◆中央区 ここに歴史あり<13>~日比谷公園と新宿に残る「京橋」

[巻渕彰/写楽さい] 2009年10月14日 08:45

京橋」は日本橋と並び東海道の重要な橋だったが、撤去されて今はもうなくなった。現在、「京橋の親柱」は中央区民文化財として橋詰に残されているので、その面影に懐かしさを感じることがある。ところが、ここ以外にも京橋の遺構が存在しているのだった。こんなところに「京橋」があるのを、ご存じだろうか。


0913_13_091014kyobashi01.jpg まずは、日比谷公園の中にある。「京橋」の欄干柱で橋名はないが、擬宝珠がついているのでそれとすぐわかる。明治8年(1875)架橋のものであるから、石橋なのだ。左右に欄干をつないだ溝穴があいている(写真上)。日比谷公園内にはほかにも歴史を伝える遺物などがいくつかあるので、探し歩くのも楽しい。


現在、本家の京橋跡には、この明治期改架の橋名が刻された親柱が2基残っている。漢字表記のものは警察博物館前の北詰東側に、仮名表記のものが銀座一丁目交番脇の南詰西側にある。 


つぎは新宿御苑「新宿門」の脇、すでに閉館となった旧「みちの情報館」の跡地内である。こちらは大正11年(1922)建造のもので、照明設備がある「京橋」の親柱である(写真下)。敷地内に入ることができないので外側から眺めるしかないが、「京橋」「きょうばし」の橋名もはっきり読み取れる。 


京橋跡には、これと同じ大正期の親柱が南詰東側に残されているが、上部に照明を設けるなど、近代的なデザインである。反対側の南詰西側に建つ銀座一丁目交番はこの大正期の親柱デザインを模して対称的に造られ、さらに、銀座煉瓦街をイメージしたものである、というのはよく知られている。 


新宿の「みちの情報館」跡地には「新橋」の親柱も残っている。現在、銀座八丁目先の港区側にあるものと同じ親柱である。さらに、日本橋の道路元標プレートの複製もある。

 

 

オランダ・カピタンたちの江戸定宿 『長崎屋跡』

[海舟] 2009年10月13日 09:30

 オランダ宿・江戸長崎屋は寛永期から嘉永3年(1850年)まで200年以上に亘り、

鎖国下、江戸で西洋に向かって開かれた貿易、文化交流の唯一の窓口でした。

 その為、葛飾北斎(江戸後期の浮世絵師 1760年~1849年)が『画本東都遊』に描

いたように好奇心旺盛な庶民・武家は紅毛の異人を一目観ようと長崎屋前に集まり

あるいは他行中足を止めます。

 

  この時代、他国との交流は対馬藩を通じての朝鮮通信使(12回往来)、薩摩藩を

通しての琉球使節(18回)、松前藩を介しての北方・蝦夷地との交流、そして長崎での

中国との非公開な貿易のみでした。

 なかでも中国貿易のもたらす多量の文物の恩恵にも拘わらず、その頻度と後世に及ぼした

影響度に関していえば、オランダ商館との貿易・交流(166回)は重要な役割を果たしました。

 

 オランダ・カピタン(商館長)、医師、通詞たち一行は江戸参府の為、年1回(寛政2年

<1790年>より4年に1回)春、長崎出島を出発し大阪、京都を経て江戸長崎屋に

宿を取ります。

 定宿・長崎屋には約20日間滞在し将軍への拝謁、各幕閣へのお礼の完了後、多くの

蘭学者、文化人との学術交流及び物品の交換の機会を持ちました。

 幕府天文方・高橋景保、同眼科医・土生玄碩、奥医師・桂川甫周、『ターヘル・アナトミア』を

訳出した前野良沢、杉田玄白、中川淳庵等さらに蘭癖大名たちも連日多数来訪しました。

 

 一方、オランダ商館側ではケンペル、ツュンベリー、シーボルトの3医師が江戸参府

に関しそれぞれ『江戸参府旅行日記』、『江戸参府随行記』、『江戸参府紀行』を著し

元禄期、安永期、そして文政期の日本の社会と文化を広く世界へ紹介しました。

 

 その中でも文政9年(1826年)のシーボルトは積極的に資料・情報を収集しまた人的

交流を広げ滞在期間を一日でも延ばそうと画策します。その工作の結果、長崎屋滞在を

通常の20日から33日へ、出島ー江戸間の総旅程日数を3ヶ月から5ヶ月に延長し見聞

を広めました。カピタン一行の総員は規定の59人を大きく超え107人にもなりました。

 

 しかし、文政11年、帰国の際、収集した品物のなかに禁制品が発見され、翌年、

シーボルトは国外追放処分、これに関連し伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』を提供した

高橋景保、将軍より下賜された葵の喪服を譲渡した土生玄碩他十数名が重い処罰を受けま

した。(シーボルト事件)

 その後、シーボルトは安政5年(1858年)締結の日蘭修好通商条約により追放解除となり

翌安政6年再来日し幕府の外事顧問に就任します。

 

 さらに翌年、即ち万延元年、遣米使節団(正使・新見豊前守正興)に随従するオランダ製

随行艦「咸臨丸」は、軍艦奉行・木村摂津守喜毅、勝麟太郎、福沢諭吉そして中浜万次郎

たちを乗せ、遂に太平洋を渡りました。

 

  これ以降、激動する幕末の波濤を越え、時代は大きく開国に向け舵を取ります。

 

          参考図書 : 片桐一男 『それでも江戸は鎖国だったのか』 吉川弘文館  

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三越のヒミツ

[柳 さつき] 2009年10月 9日 08:30

まずは、皆様おなじみの三越マークをとくとご覧くださいeyemitsukoshi1.jpg

この写真は、先月初めまで開催されていた「三越創業335周年 大創業祭」の期間に日本橋本店の数ヶ所の入り口に掛けられていた暖簾です。

  江戸時代、駿河町三井越後屋を彷彿とする( 三井越後屋時代は、現在の三井グループさんがお使いの漢字の三が中心の丸に井桁ですが・・・・・・・・・・・)感じがステキで、思わずパチリ cameraさせていただいたものです。

  その後知ったのですが、いつも何気に見ている三越マークにも縁起が良いようにと「ヒミツ」が隠されているそうですflair

  それは、日本では古来から奇数が縁起が良いとされていますが、 三越マークの越の字を筆書きするときに筆をはねる二ヶ所と最後の点の部分の筆の跡がそれぞれ「三」「五」「七」本になっているらしいのですshine

  ・・・・・・・・・・・・・・・この情報は、三越さんに確認を取ったものではございませんので、もし違っていたらご了承くださいませ。

日本橋三越本店の歴史再発見のHP:pchttp://www.mitsukoshi.co.jp/store/1010/history/

 

 

宝探しゲーム ウオーキングのお勧め

[銀造] 2009年10月 5日 09:00

 10月3日、京橋から、入船経由佃島、月島西仲通り商店街、勝鬨橋、築地市場場外、築地駅までを徒歩。築地駅から茅場町まで地下鉄で移動。茅場町から2つのお宝探しの神社、お寺を探して歩きました。

全体の所要時間は3時間半ぐらいです。

途中、住吉神社で「中央区神社めぐり」なるものを知り、ご朱印帳を買い求め、途中の波除稲荷神社、水天宮と合わせて3つご朱印を頂けた。

爽やかな季節になりました。 宝探し、アンテナショップのスタンプラリーなどで歩きませんか。

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 銀座ラフィナートの前を入船方面へ。銀座ラフィナートのランチ、お茶はリーズナブルです。

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 カツカレー発祥の店。知らなかった。アンテナショップの青森の店の前も通ります。

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 交番を右手に見つけたら、その方向に。稲荷神社の提燈が見えます。ご本殿の奥に富士塚も。

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 佃大橋の方向へ。佃大橋を渡っている途中に、隅田川に「ヒミコ」が。

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 「灯台下暗し」というが、案外簡単にクイズのキーワードを見つけて応募用紙に記入。

やはり地元の産土神さまにお参り。ここで「中央区神社めぐり」のご朱印帳の事を知り、購入。

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 有栖川宮親王の筆によるという陶製扁額。水番舎には当時の漁業の様子を彫っています。

鰹塚などの碑もあります。 この後、月島西仲通商店街を向かうと楽しいです。

もんじゃの幟の間には、下町風情がほのぼのと残ります。 お手軽なフレンチの店、小唄の教室も。

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 昔から、町の安全は、お巡りさんのおかげです。1921年頃設置の、警視庁最古の現役交番。現在は地域安全センターとして活躍中。

西仲通り商店街を通り抜けたら勝鬨橋を渡ります。

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 築地場外市場にある波除稲荷神社へ。市場関係者は、通過の前に必ず拝礼しています。

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 築地本願寺を右に見て、拝礼して築地駅から茅場町へ。

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 10番出口を出て、証券会社街を通る途中に、海運橋。 開運なるか。

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 兜神社。 どこかに、宝探しのキーワードが・・・。

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 兜の次には、鎧の渡し跡碑、 よろい橋が。

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 水天宮で、「宝探し」とは関係ない「中央区神社めぐり」のご朱印を頂く。

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 甘酒横丁。角のラーメン屋さんには、力士が。鯛焼きの柳屋は行列。草加屋の煎餅はお勧め。

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 手作り民芸のお店。私は、紬のシャツを買いました。有名店の半額程度で買えます。

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 明治座前を左に曲がり、北上して、

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七味唐辛子でも有名な薬研堀へ。

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 果たして、不動尊に「お宝探し」のキーワードはあったでしょうか?

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 写真を撮るのに夢中で、築地の波除稲荷神社で、キーワードを探すのを忘れました。

来週は、アンテナショップの歩き方を お届けしたいと思います。

銀造。

 

 

日本第一番 饅頭所

[銀造] 2009年10月 4日 18:00

 

 日本で最初に饅頭を作った人は誰?

 

明石町の聖路加タワーの横にある塩瀬総本家の「のれん」に魅かれてお店に入りました。

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  おっ! 宮内庁御菓子御用達の文字が輝いています。

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 由来です。

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 時の将軍、足利義政 直筆の、「金看板」です。

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 名物、売り物、売れている「志ほせ饅頭」

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 生菓子、羊羹などもありますよ。

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 徳川家康も食べたという、本饅頭。 勝負運、長寿にご利益。

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 2階では、食事も出来ます。

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 お飲み物の値段は、かなりお安い様で。

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 お散歩の足休めに、気軽に入っていけるお店です。