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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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新春の空を鷹が舞う (浜離宮で諏訪流放鷹術の実演)

[ゆりかもめ] 2009年12月25日 08:30

放鷹術(鷹狩り)・・・・飼い慣らした鷹を放して 野生の鳥獣を捕まえる猟法

新春の浜離宮では この放鷹術(諏訪流)の実演が行われます。

日時 : 1月2日、3日  11時 14時 (1日に2回づつ行われます)

4千年程前に 中央アジアで始まり 4世紀中頃 日本に伝えられました。

鷹匠とは 鷹を調教する専門職です。

江戸時代・明治の頃は 多くの鷹匠が存在したのですが 戦後は諸事情により 政府による放鷹術は行われなくなり 民間の有志によって 受け継がれています。

実演を通して 自然や鷹と人の繋がりを 考えて頂きたく思います。


諏訪流放鷹術

江戸時代の 将軍お抱えの鷹匠の軍団の一つであり、鷹が捕らえた鳥を 信州諏訪大社の神前に御供えする神事に 由来しています。

浜離宮の無料ボランティアガイド案内は 1月2日・3日は10時・13時の2回となっています。

 

 

 

お勧めの検定試験

[三日月] 2009年12月24日 09:30

私達中央区観光特派員は、第1回中央区観光検定の合格者で歴史や文化が大好きです。この中央区観光特派員ブログをご覧いただいているみなさんも、歴史や文化が好きな方が多いと思いますので、ぜひお勧めしたい検定試験があります。

 

一つ目は"中央区観光検定"で、1月15日まで受験応募ができます。

中央区について歴史や文化を勉強でき、学んだことは自分の勉強にもなると同時に特派員に任命をされれば、中央区の観光イベントにも参加ができます。江戸時代から続く老舗のお店をご案内したり、ブログに書くことによりあらためて歴史好きでよかったと思えます。

 

もう一つは、"江戸文化歴史検定"です。

申し込み時期は夏から秋にかけてなのでまだ先ですが、テキストは書店で購入できます。

歴史のことをもっと勉強したいと思っていたときに江戸文化歴史検定のことを知り、先月開催された第四回の2級と3級を受験しました。この検定は江戸時代に絞り、教科書にはでていなかった文化などを幅広く勉強できます。テキスト外の「今年のお題」から2割出題され第4回は「東海道五十三次~江戸の旅~」がお題でした。

江戸時代は徒歩で旅をしたので早朝に旅立つのが一般的で、「お江戸日本橋七つ立ち」という歌詞の「七つ」とは今でいう何時頃でしょうか?といった問題のように歴史のテストというよりも、こういうことを知りたかったという内容が多く、テキストは絵や写真が多くて楽しめます。

そしてこの検定には協賛が沢山ついているので認定証を提示することにより、大江戸温泉や花やしきなどで割引があったり、合格者のみ参加できる講座やイベントがあるなど盛り沢山です。

私は毎日の通勤電車でテキストを読み約3ケ月楽しく勉強できました。1級は2級の合格者でないと受験ができないので、今回合格したことにより次回受験をしようと思っていますが、1級は合格率が1桁とかなり狭い門のようです。江戸時代は約260年も永く続き奥深いので、1級取得は数年かけてでも合格を目指したいと思っています。

 

「中央区観光検定」と「江戸文化歴史検定」

この二つの検定は共通する内容もあり、テキストがよくできているので何回でも読みなおしたくなります。詳細はHPで検索されることをおすすめしますhappy01

 

江戸文化歴史検定テキスト.JPG

  認定証.JPG

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆新発見の赤穂浅野家「鉄炮洲上屋敷絵図」 ~江戸東京博物館企画展で公開中~

[巻渕彰/写楽さい] 2009年12月12日 20:32

いま江戸東京博物館で企画展「旗本がみた忠臣蔵-若狭野浅野家三千石の軌跡-」展が開催され、 兵庫県たつの市立龍野歴史文化資料館が所蔵する、播磨国赤穂郡若狭野(わかさの=現・ 兵庫県相生市若狭野)・若狭野浅野家の資料が展示されている。この旗本家は赤穂浅野家の分家で、大石内蔵助とも縁戚関係にあり、赤穂事件後の処理を担い、本家の文書類などを引き継いだそうだ。最近見つかったこれらの資料が見どころである。(写真は会場入口。会期は2月7日まで) 


0913_p_091212asano.jpg 展示品の中で特に注目されるのは、今回新たに発見された、赤穂浅野家の「鉄炮洲上屋敷絵図」だ。現在、明石町の聖路加看護大学脇に「説明板」と「浅野内匠頭邸跡」碑(都指定文化財)があるが、そこに建っていた屋敷の図面である。 


これまで敷地割図はあったが、屋敷地内部の様子は不明だった。それが改易から300年を超えた今、はじめて明かされた。


会場でこの屋敷絵図を目の前にすると、大きさと細かさに見とれてしまう。 


同展の関連フォーラム(12月12日開催)での解説によると、この絵図はヨコ(南北)2.32m×タテ(東西)1.44mの大きさ。台紙に建物などの形の色紙を貼ったもので「貼絵図」という。縮尺は約100分の1と正確で、精緻な描写、ていねいな仕上がりが特徴。作成年代は延宝9年(1681)~元禄14年(1701)、敷地縮小から改易までの間。御殿に住んだのは4代藩主浅野内匠頭長矩と夫人阿久利。敷地坪数は8,794坪(約30,000㎡)で、当初の半分くらいに縮小されたときの絵図のようだ。よって馬場が約50間(90m)と短い。能を演じる「舞台の間」が2つある、など赤穂事件前の様相が読み取れるという。 


この屋敷絵図と、現在の跡地を見比べながら、――西側に堀があり(現築地川公園)、このあたりに屋敷の顔である表御門があったのか。南側(現聖ルカ通り)には、掘割があり、竹簀垣囲いで荷揚げ場や荷置き場だったのか――、いろいろ思いを馳せることができる。そのほかにも関連する資料が展示されていて、興味ある方には見逃せない企画展である。


◇中央区HP「テレビ広報」企画番組で、「元禄赤穂事件-中央区の史跡・ゆかりの地・講談で振り返る-」が、女流講談師の語りと郷土天文館学芸員の解説で掲出されている。こちら>>

 

 

晴海の町の装い

[下町トム] 2009年12月 9日 09:00

 

200912晴海1.jpg晴海は中央区の海の玄関口です。

1929年に島の埋め立てが完成してから、今年で80年を迎えました。

当初は「月島4号地」と称され、戦前の万国博覧会会場の予定されていたものの、戦争で中止になった経緯があります。

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200912晴海2.jpg 現在は、ウォーターフロント再開発で新しい街づくりが進んでいます。

昼の賑わいも良いですが、夜景もまた魅力的です。

「中央区コミュニティバス」(江戸バス)に乗って、晴海を訪ねてみてはいかがでしょうか。

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◆中央区 ここに歴史あり<16>~八丁堀に架かった稲荷橋の橋名標~

[巻渕彰/写楽さい] 2009年12月 8日 12:00

稲荷橋」名残の橋名標(写真上)が八丁堀地区と湊地区を結ぶ「鉄砲洲通り」にある。橋名の由来は、鉄砲洲稲荷神社があったことによる。寛永元年(1624)ころ、橋の南詰東側に遷宮し、明治元年(1868)現在地に移転したという。同神社は中央区民文化財・建造物に指定されている。


0913_16_091207_inaribashi.jpg ここは堀川の「八丁堀」が流れていたところだ。亀島川から京橋川結節点までの距離が八丁(約870m)あったので八丁堀とされるが、この稲荷橋は亀島川に注ぎ込む河口の第1橋だった。明治期に八丁堀は「桜川」と名を変えた。この付近は埋め立てられたが、今でも何となく舟入らしい地形が感じ取れる場所である。


この橋は、承応2年(1653)の承応江戸図にも描かれているので、元禄期の赤穂浪士引き揚げの際は、永代橋から高橋を経てここ稲荷橋を渡ったことだろうか。また、現鉄砲洲稲荷の東側あたりには、かの長谷川平蔵が住んでいたともいわれている。


京橋・大鋸町が終焉の地となった歌川広重の「名所江戸百景鉄炮洲稲荷橋湊神社』」(写真下)を見ると安政期の情景がはっきりと映し出されている。手前の亀島川に停泊した大型船のものであろう2本の帆柱の間に稲荷橋が描かれ、左(南)には朱塗りの塀に囲まれた稲荷社がある。水主たちの海上守護の神としても崇敬された。上り下りの船は荷を運ぶ。遠く西方には霊峰富士が望める。八丁堀河口の往時の賑わいが活写されている。


かつて稲荷橋の南岸側は「南八丁堀」と呼ばれた一帯だ。『江戸名所図会』には、「湊稲荷の社」の条で「南北八丁堀の産土神(うぶすな)なり」と著している。南八丁堀にあった「鈴木学校」には明治17年(1884)に鏑木清方が入校し学んだ。


昭和40年代に桜川(旧八丁堀)は次第に埋め立てられ、この稲荷橋をはじめ5つの橋が歴史から消えていった。この「稲荷橋」橋名標は埋め立て直前のものであろうか。この橋の付近は八丁堀にしろ、湊町(湊)、入船町(入船)などの地名・町名はかつて江戸湊の水辺であったこと示している。戦後も回漕店や船具店が軒をならべていたのが思い出される。

 

 

東都のれん会(江戸から東京三代百年) 神茂 

[ゆりかもめ] 2009年12月 8日 09:30

皆様 東都のれん会 を御存知ですか?

江戸から明治初期に創業し、東京で三代・百年以上、同族により続いている老舗の集まりで53件の店舗が会員です。 

蕎麦・うなぎ・団子・佃煮・甘酒・呉服や足袋・メガネや楊枝等・・・・・・

東都のれん会の53店の殆どは江戸時代に下町と言われ御城下で最も賑わった所で誕生しました。その内の27店舗が中央区内にあります。

これ等の店舗の本店付近には名所・旧跡が多く「中央区文化財めぐり」のマップを持って廻っていると つい立ち寄りたくなる店舗が何軒もあります。

私は日本橋室町の神茂を訪ね代表取締役の井上卓さんに御話を伺いました。

神茂も東都のれん会に所属していらっしゃいます。 

古い書類や過去帳を見せて頂きながら御話を伺いました。

慶長元年、徳川家康が日本橋に魚市場を開設、室町一帯は魚河岸として大変に栄えました。

幕府に上納する魚は三箇所で集めていたそうです。

日本橋は武家、町人の台所も預かる重要な場所でありましたが関東大震災の被害により築地に移転するまでの三百余年に亘り賑わって居りました。

井上卓さんの子供の頃は日本橋室町に「寛永江戸図」に記されている「十軒店」の内、1軒は残っていたそうです。

三越本店の屋上には展望台があり遠くまで良く見えたそうです。

その頃は2階建の家が多く八百屋さん 魚屋さん 風呂屋さんもあったそうです。

 

現在の日本橋室町の辺りは「本小田原町」として江戸城を造成する為に石工の方々が多く住んでいました。

「御用」・・・・献上すること            「大福帳」・・・・金銭出納簿 

「汐留」・・・・運河の入り組んでいる所     「追分」・・・・道が二つに分かれている所

「築地」・・・・埋立地(町名としても残った) 

昭和通りの高速道路は米河岸であった事 

上記の事を教わりながら日本橋魚市場之図(大正10年頃)の地図を頂きいろいろ御伺いしました。 

その他 東都のれん会に所属している有名な御店の幾つかについても創業の頃の貴重は御話を伺いました。

 「神茂」の由来

 始祖は神崎屋長次郎で紀州神崎の出身です。

江戸幕府開府の時に江戸に出て漁業に従事し元禄元年(1688)に現在の地に創業する。

社歴320年。

後に改めて茂三郎となり当主は代々 茂三郎を襲名する。 

明治の頃より神崎屋の「神」と茂三郎の「茂」をとって「神茂」と名乗った。

神茂 井上代表取締役 正面.JPG

 「半ぺん」はなぜ生まれたか

半ぺんの材料である鮫の鰭は「俵三品」といわれ江戸時代、長崎貿易の輸出海産物の一つで江戸幕府の重要な輸出財源でした。

品川沖や浦安沖に「鮫場といわれる幕府直轄の漁業があり「ひれ」を取った後の鮫は日本橋の魚市場で数多く取引され、それを蒲鉾屋が「しんじょの製造法を用いて製造したのが始まりです。

現在は気仙沼から取り寄せていらっしゃいます。

「俵三品」  煎海鼠(いりなまこ) 熨斗鮑(のしあわび) 鱶の鰭(ふかのひれ)  

神茂の商品.JPG

上記は新春の食卓を彩る 粋な江戸の味です。 

又、新春だけの極上の味わいとして数々の商品の中, 二品 は限定で用意されています。

「極上御伊達巻」・・・最上のグチと地鶏の卵を使い焼き上げている。 (限定1500本)

「二色玉子 角」・・・・厳選された卵を丁寧に裏ごしして作られている。(限定1000本)

     

              有限会社  神茂     http://www.hanpen.co.jp/