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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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「才蔵市」って何の「市」?

[与太朗] 2010年12月27日 09:35

 いよいよ年の瀬、27日~29日には江戸の名残をとどめる薬研堀の歳の市ですね。江戸時代、同じように暮の28日、日本橋四日市に立った「才蔵市」というのをご存知ですか?

IMG_0379.JPG IMG_0383.JPG  「三河万歳、江戸に下りて毎歳極月(しわす)月末の夜、日本橋の南詰に集りて、才蔵をえらびて抱ゆるなり。これを才蔵市といふ」(『江戸名所図会』)

 あら楽しあら楽し、常若(とこわか)にご万歳とはお家も栄えましまする・・・

 三河万歳は、折烏帽子、麻の素襖に両刀を差した「太夫」と鼓を持った「才蔵」の二人が元旦から家々を廻り、才蔵が打つ鼓に合わせ、めでたい祝い言葉を掛け合いで唱えてはご祝儀の米銭をもらう、正月気分に欠かせない祝福芸でした。

 太夫は徳川家ゆかりの三河からやってきて、江戸で才蔵を雇いました。主に房総方面から出稼ぎの才蔵の中から気に入った者を選び、相方に雇う市場が才蔵市でした。

 四日市町は日本橋川南岸、日本橋と江戸橋の間、現在の日本橋1-7~10、18~19あたりでした。(当時の江戸橋は今より東寄りに架かっていました。) 明暦大火後に広小路ができ(現在の日本橋郵便局辺)、河岸には封疆蔵(どてぐら)が設けられ、江戸橋の西には木更津往還の舟が発着する「木更津河岸」(現在、三菱倉庫・野村證券の辺り)がありました。房総から来る才蔵たちは舟でここに着いたのでしょうか。

 この才蔵市ですが、時代が下ると消えてしまったようです。

 「天保以後にはそれがもう廃(すた)れて、万歳(=太夫のこと)と才蔵とは来年を約束して別れる。・・・それが此の頃の例になっているので、万歳はその都度に才蔵を選ぶ必要はなかった。」(岡本綺堂『三河万歳』)

【写真左】 日本橋南詰より江戸橋方面をのぞむ

【写真右】 江戸橋南交差点、左から現在の江戸橋、三菱倉庫、日本橋郵便局

 

 

茶屋復元現場見学会(Ⅳ)

[サム] 2010年12月26日 15:49

RIMG1916S.JPG 震災や戦災で失われたままになっている旧浜離宮庭園の「御茶屋」の復元・整備の一環として平成20年度から取り組まれてきた「松の茶屋」復元工事。

このほど復元工事が完了し、200年前と変わらぬ姿がよみがえったのを機に、4回目となる「茶屋復元現場見学会」が12月26日(日)開かれた。

まず茶屋としての利用上の面だけでなく、他と一体となって大泉水を構成する要素としての景観の復元という観点から、「お伝い橋」「中島橋」からの景観を史料写真と見比べて眺めを楽しむ。

ついで茶屋内で、復元の設計等を担当した公益財団法人文化財建造物保存技術協会の春日井氏の講演<史跡での建造物の復元>を聴いたあと、①屋久杉の天井板 ②サワラ材のこけら葺の屋根 ③兵庫県在住の人間国宝が漉いた和紙貼りに金小松模様の木版摺りの内壁 ④漆塗りの建具 ⑤松毬・蝉型の長押しの釘隠し金具 ⑥栂材の柱 ⑦欄間板の霞に浜千鳥の透かしの意匠 ⑧10畳の間の円窓と霞型の意匠 等々随所で伝統技法が忠実に再現されている様子を見学。

「旧景観を整えることが、史跡としての活用に有効であり、旧景観を蘇らせることで名勝としての価値を高めることができる」と、歴史を紐解き、歴史に忠実に復元することに努められた工事関係者の皆さんの思いと労苦に改めて感服。

 

   RIMG1912RS.JPG   RIMG1938RS.JPG   RIMG1917RS.JPG

   RIMG1941RS.JPG   RIMG1921RS.JPG   RIMG1935RS.JPG

   RIMG1934RS.JPG   RIMG1932RS.JPG   RIMG1933RS.JPG

 

pencil浜離宮恩賜庭園では正月の準備が整いつつあります。

大手門出入口には門松が、管理所脇には初春の草木(マンリョウ、センリョウ、ヒャクリョウ、ジュウリョウ、イチリョウ、フクジュソウ、ササ、ウメ、リュウノヒゲ)のミニ植え込み。

   RIMG1910RS.JPG   RIMG1946RS.JPG

 

 

 

お正月の浜離宮 「諏訪流放鷹術」の実演と「松の茶屋」初公開

[ゆりかもめ] 2010年12月26日 14:49

お正月の浜離宮の行事のお知らせ:

諏訪流放鷹術の実演が 例年通り 1月2日、3日 11時からと 14時から行われます。

庭園ボランティアガイドの案内は10時と1時の2回です。  

 

八代将軍 徳川吉宗の時から 江戸日本橋より およそ五里四方の鷹場を御拳場(おこぶしば)と

いい、鳥見によって支配されていました。将軍の拳から鷹を放つ場であるのでこの名がついた。

下記、2枚の写真は 2010年1月2日の実演開始の様子です。         

鷹狩りの始まり.jpg         

お客様は毎年楽しみにして下さっています。

広い庭園で青空を見上げるのも気持ちの良いものです。

鷹狩りの客.jpg

新築された「松の茶屋」

昭和の大戦で焼失後、この度 再建された「松の茶屋」が 2日、3日は特別に初公開されます。

復元にあたっては、形状、寸法、材料,構造を出きるだけ忠実に復元しています。

工事費:1億4,400万円

建物の規模 : 63.62平方メートル(19.3坪)  高さ 5.02m

           2010_1130  新築松の茶屋(大)写真0041.JPG

屋根・・・・・入母屋造り

 柿葺き(こけらぶき): 木材(さわら材)を薄く割った板を重ねて葺く工法

30cmの板を3cmづつずらせて葺いていくので 厚さ3mmの薄板が10枚重なる事になる。

板は竹釘で留めています。(鉄やステンレスの釘を使う部分もある)         

 

2010_1130 松の茶屋こけら葺きの屋根 写真0061.JPG 

 

 

昔ここに橋があった・・・・<初見橋>編

[下町トム] 2010年12月24日 02:42

 地下鉄月島駅のすぐ近く、清澄通りを佃大橋から続く新月陸橋がまたぐところがあります。

新月陸橋_R.JPG

この交差点の名前は〔初見橋〕といいます。ちゃんと標識にも名前が読み取れますね。car

初見橋3_R.JPG 初見橋2_R.JPG

清澄通りの中央分離帯の標識にもはっきりと〔初見橋〕と記されています。

 

かつて地下鉄有楽町線が開通するまでは、このあたりは都営バスだけが唯一の公共交通であり、「新佃島」という停留所がありました。さらにその前はというと、昭和47年までは都電が走っていたのです。(23系統・柳島方面、昭和43年までは11系統・新宿方面も存続)train

つまり、現在陸橋(都道473号線)が通る位置には運河が横たわり、月島と佃島とを分けていたのです。〔初見橋〕は当時月島通り呼ばれていた大通りがこの運河に架かる橋でした。今では名前だけが往時の記憶を留めています。

 

昭和初期の月島地図_R.JPG

左の地図は中央区発行の復刻版の引用です。(昭和7年)

当時の月島駅付近を見ると、〔初見橋〕の隣に〔新月橋〕、さらにその横に〔佃橋〕の名が見て取れます。eye

月島西河岸通りから佃島に続くところに架かっていたのが〔佃橋〕であり明治期から存在していました。その後に、今は〝もんじゃストリート〟となっている月島西仲通から続くところにも橋がかけられ、〔新月橋〕と名付けられました。

佃と月島の間の交流が徐々に盛んになっていったことがうかがえます。

 

新月橋あと_R.JPG 佃橋あと_R.JPG

左の写真が現在の月島西仲通りを佃方面から望んだところであり、かつて〔新月橋〕がかかっていた場所です。右のほうが、陸橋の下に少々肩身の狭い格好になっているのが月島西河岸通りに続くところであり、〔佃橋〕がかかっていた場所です。

佃の潮溜り_R.JPG

かつての〔佃橋〕のあたりから佃島に抜けると、児童公園があり、その向こうに、ちょっとした汐溜まりがあります。

ここはかつては月島と佃を分かっていた運河に続く水路であり、まさしく佃は〝島〟であることを実感させてくれます。ship

今では、住民の憩いの場所となっており、その先に目をやれば、佃小橋や住吉神社の社殿の一部が望めます。その後ろにそびえる〔佃リバーシティ21〕の高層マンション群は、変わり行くこの地域の景色の中に少しずつ馴染んでいくように思えます。

ご存知のように、佃大橋が完成するまでは〝佃の渡し〟が対岸の湊町と佃島をつないでいました。隅田川べりに出て往時の賑わいを偲んでみるの一興です。

 

今も昔も人々の威勢のよさと温かみが息づくこ一帯は〝よき時代の香り〟を残しています。是非、かつての風景も思い浮かべながら、ゆっくりと散歩してみて下さい。きっと懐かしい気持ちになることと思います。shoe

 

 

 

ボタンの博物館

[みど] 2010年12月22日 08:45

 今回、取材に訪問したのは、ちょっとマニアックかも知れませんが、
 1988年に開館した世界初の「ボタンの博物館」です。


 ボタンに関する世界各地の資料や文献、貴重なボタンを4000点収集
 うち1700点を展示しています。ボタンは生活に密着したミニチュア
 工芸品として、その時代を表現し、ロマンあふれる文化史を顧みる
 ことができます。また昔は富の証であり、すばらしい装飾品である
 ことに驚かされます。
 エジプトから発掘された紀元前4000年のボタンが展示されていまし
 たが"時代とロマンのコレクション"そんな言葉が似合います。
 博物館では「ボタンで綴る世界の文化史、日本の文化史」を目標と
 しているとのことです。
 また、明治3年11月22日、初めて海軍制服が定められ、ボタンが付
 けられたことから、この日を「ボタンの日」と決めたようです。
 11月22日・・・世間的には"良い夫婦の日"ですね。
 ちなみにこの博物館から隅田川と建築中の東京スカイツリーがとて
 も間近によく見れます。

  ▼ ボタンの博物館  
     http://www.iris.co.jp/muse/
     東京都中央区日本橋浜町1-11-8 TEL.(03)3864-6537
     開館日/月~金 10:00~17:00  入館料 / 300円
     事前の予約電話が必要

 

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江戸時代、中央区に開いていた『世界の窓』

[小江戸板橋] 2010年12月22日 08:45

JR総武本線を東京駅から一つ目の駅、「新日本橋駅」で下車し、4番出口から地上に出ます。

そこは、中央通りと江戸通りが交差する、室町3丁目交差点。

交差点にむかって、出口右手直ぐに、中央区教育委員会の案内板が掲出してあります。

 

『中央区民文化財 長崎屋跡』

長崎屋って、どんなところだったの。

 

そこに、無駄な事なら何でも知っている「爺」が登場。

「それはじゃな。エッヘン。

時は江戸時代にさかのぼるが、長崎は出島のオランダ商館長が、江戸幕府に挨拶に来たときに、定宿としていた屋敷が、長崎屋なんじゃよ。

『江戸時代は「鎖国」をしていたはずだから、外国人が江戸にいたなんておかしい』だって。

そう思い込むのも無理はない。鎖国は、国を鎖で閉ざすと書くからな。

幕府の権威と反するキリスト教が広まることや、外様大名たちが貿易で力を蓄えることを恐れての政策だった。

 

しかし、鎖国といっても、ほんのちょっとだけ、世界へ向けて扉は開いておった。

江戸幕府は、オランダに限り、出島において貿易を許可しておった。

逆に見れば、オランダが日本との西洋貿易を独占していたということじゃ。

そこで、オランダ商館長は定期的に、江戸までお礼に来ておった。

そのときに決まって宿泊していたのが、薬種問屋の長崎屋だった。

輸入薬を扱っていた関係から、定宿に結びつくことになったんじゃろう。

 

案内板に、絵が書いてある。

葛飾北斎が描いた長崎屋「画本東都遊」という絵じゃ。

屋敷の中に異国の帽子をかぶった赤毛の人が、ふたり、三人と見える。

何を話しているんじゃろうな。遠い異国の人たちが話す言葉や、持参した楽器の音が、通りまで流れてきたのじゃろう。

通りからは、屋敷の中の様子を窺っている人々の姿。

二本差しの武士や、尻っぱしょりをした町人。粋な着物を着た女将さん。子供を肩車した親父さんたちが描かれている。

鎖国という時代背景からすれば、屋敷周辺の警備も厳しかったと思うのじゃが、絵からは、緊張感よりも江戸の人々の好奇心の方が伝わってくる。

 

幕末ごろには西洋の技術・文化・情報を求める、切実な思いを抱いた人たちも、屋敷を取り巻いたことじゃろう。

杉田玄白や大槻玄沢など、日本史の教科書に出てくるような著名人たちが、数多く訪ねてきたという。

 

また、オランダは、「オランダ風説書」という世界情勢をまとめた報告書を、幕府に提出していたという。

幕府の老中たち官僚は、これらを通して、黒船の来航情報も相当早く知っていたようじゃ。

 

長崎屋は、外国文化との交流の場として、江戸の人たちの身近に存在した、『世界の窓』だったんじゃな。

ここ、江戸の本石町三丁目、今の日本橋室町4丁目2番地付近がその跡なんじゃ。」

「爺」、余韻を残して退場。

 

日本の政治・文化の中心地だったからこその史跡が残る街。日本橋室町界隈。

年末・年始のお出かけのついでに、案内板を探してみてはいかがでしょう。