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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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節分祭<波除稲荷神社>

[サム] 2012年2月 3日 20:44

R0016642LS.JPG 2月3日は「節分」。

ここ築地波除稲荷神社では午後5時半より恒例の節分祭が執り行われ、「福は内」の掛け声に合わせ特設ステージから豆と大量のお菓子が撒かれると境内に集まった子供たちを中心に大勢の参拝客らが一斉に手を伸ばした。

pencil節分とは本来季節の変わり目で立春・立夏・立秋・立冬の前日。立春は1年の始まりとして特に重んじられたため次第に節分と云えば春の節分を指すようになった。

立春新年という考え方もあり、節分に宮中で旧年の厄や災難を祓い清める「追儺」の行事が行われるようになったとされる。

室町時代以降は豆を撒いて悪鬼を追い出す行事へと発展し、次第に一般民衆にも広まり現在に至ると云われる。

豆撒きに用いられる豆は炒り豆とされ、炒るは射るに通じ、"魔目" を射ることで "魔滅" に通じるとする説も聞く。

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◆江戸銀座400年 区内出土貨幣、ざくざく! 郷土天文館企画展「銭!ぜに!ゼニ!」展 ~1/28-2/26開催中~

[巻渕彰/写楽さい] 2012年2月 2日 08:30

中央区立郷土天文館(タイムドーム明石)で、企画展「銭!ぜに!ゼニ!~中央区から出土したお金たち~」が開催されている。慶長17年(1612)、銀貨鋳造の銀座役所が新両替町(現在の銀座二丁目付近)に設置されて、ことしは「江戸銀座開設400年」にあたる。会期は1/28-2/26、月曜日休館、入場無料。

 

0913_361_120128zenizeni_ten.jpg中央区には江戸期、金座と銀座が置かれたが、銭座は存在しなかった。

 

金座は江戸、京都、佐渡、駿河に開設された。江戸金座は日本橋本町で現在の日本橋本石町、日本銀行本店の場所である。江戸開府とともに初代後藤庄三郎光次(みつつぐ)のもとに金貨鋳造がされ、以後、後藤家が世襲した。

 

銀座の開設場所は江戸、京都、大坂、長崎であった。江戸に置かれたのは慶長17年(1612)で、現在の銀座二丁目あたりである。銀貨鋳造は代々、大黒常是(だいこくじょうぜ)が請け負った。江戸後期、展示解説によると、享和元年(1801)〔(注)現地の中央区教育委員会設置説明板には、寛政12年(1800)と掲載されている〕に日本橋蛎殻町(現日本橋人形町)へ移った。鋳造を江戸に統一した公儀組織となり、蛎殻銀座と呼ばれた。維新後の明治2年(1869)、金座とともに廃止された。

 

江戸期の貨幣制度は「三貨制度」で、金貨・銀貨・銭貨が流通した。「江戸の金遣い・大坂の銀遣い」といわれるように、東国と西国では通貨の使い方に違いがあったようだ。

 

展示では、区内の遺跡発掘現場から出土した貨幣が並ぶ。金貨は日本橋一丁目では宝永一分金、八丁堀二丁目からは天保一分金などが見つかっている。銀貨は少なく、明石町から嘉永一朱銀が出土したそうだ。銭貨は広く一般に流通した銅製貨幣で、「寛永通宝」が多数出土した。ひとくちに寛永通宝といっても、何と6種類もあるという。その違いを展示会場で確かめてはいかがだろうか。ほかに渡来銭や雁首銭、模造銀貨も出土している。

 

貨幣は代金決済に使われただけではなかった。墓に埋められたり、トイレ(埋め甕)に沈めたり、穴蔵、植木植栽跡などからも見つかっているという。まだどこかに埋蔵金が眠っているかもしれない。町人、職人、商人そして武家たちが暮らした江戸。出土した貨幣は何を語っているのだろうか。

 

会期中、学芸員によるギャラリートーク(展示解説)が2月4日・18日の各土曜日、午後2時から1時間、参加費無料で開催される。●巻渕彰

 

○詳しくは、中央区ホームページ >>こちら

 

 

 

「熈代勝覧」(きだいしょうらん)をご存知ですか?

[滅紫] 2012年2月 2日 08:30

入館までの待ち時間30分、「清明上河図」前で210分という報道にビビッてはいたものの展示期間終了が近づいてきた雪の日の午後、東博に出かけました。
「入館待ち0分」を見た時は読みが当たったとほくそ笑んでいたものの、「清明上河図」前はそれでも180分待ち。
「清明上河図」の列の隣のレーン?から覗き見て雰囲気だけ感じて退散。それにしてもこの混み方は異常。「東博は貸出料にいくら払ったのか」と余計なことが気になりました。


ご高承の通り、「清明上河図」は北宋の徽宗皇帝が12C初めの開封(人口150万人)の都の繁栄振りを絵巻に描かせたものです。24cm、5mの絵巻に描かれた人は777人、人は5mm程度の大きさです。唐突な終わり方をしているので続きがあったのでは?と云われているようです。


そういえばと「熈代勝覧」を思い出しました。>ご存知の方も多いかと思いますが、こちらは地下鉄三越前駅の地下コンコース壁面に複製が約17mに渡り設置されています。
これは文化2年(1805年)当時の日本橋から今川橋までを東から俯瞰し、町人文化を克明に描いたものです。原画はたて43.7cm、長さ1232.2cm、地下鉄コンコースにあるのはこれを1.4倍に制作したもの。2009年に名橋日本橋保存会、日本橋地域ルネッサンス100年計画委員会によって制作されました。

100_0383.JPG原画はベルリン国立アジア美術館に所蔵されています。1995年にベルリンの収集家が美術館に寄託し、1999年学芸員が日本の作品と確認したそうです。収集家に渡るまでの経緯は一切不明。資料によれば題字は書家佐野東洲ということがわかっているものの、絵師については現在のところ不明で北尾政演の名で絵師としても活躍した山東京伝ではないかという説が一般的とのこと。


「熈代勝覧」は熈(かがや)ける御代の勝(すぐ)れたる景観ーという意味で印から「当時の江戸の繁栄を後世に残す目的で制作された」と考えられているそうです。


では絵巻の一部を。

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100_0390.JPG絵に登場する人物は1671人(誰が数えたの?!)
そのうち女性200人、人以外は野犬20匹、ウマ13頭、牛車4両、猿1匹、鷹2羽。買い物客、振り売り、辻占、読売、僧侶などがヴィヴィッドに描かれています。
説明によるとこの絵の真ん中で塗りの蒸篭様のものを重ねて持っているのは寿司売りだそうです。
細密な描写なので見ていても飽きません。


美術館と違って混雑もありませんのでゆっくりご覧になれます。おまけに入場料も不要です。江戸文化が一番成熟した時期の江戸の町にタイムスリップしてしばしの間遊んでみませんか。


場所:地下鉄三越前駅地下コンコース内