中央区観光協会オフィシャルブログ

中央区観光協会特派員ブログ

中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

執筆者一覧

>>このブログについて

最近のブログ記事

中央区鉄道ものがたり <その9>(最終回) 「銀座線と銀座駅」

[下町トム] 2012年4月 6日 13:00

央区の鉄道に関する四方山話をお届けしてきましたが、ひとまず今回で最終回とします。


最後に採りあげるのはわが中央区の真ん中を貫いて走る「銀座線」とその路線名にもなっている「銀座駅」です。


「銀座線」は何と言ってもわが国最初の地下鉄です。1927(昭和2)年に東京地下鉄道が浅草-上野間で開業し、1934(昭和9)年に新橋まで全通させました。この時に中央区を貫く幹線鉄道の位置を確立したわけです。

銀座駅入口_R.JPG その後別会社であった東京高速鉄道が渋谷-新橋間で全通すると同時に新橋で直通運転を始め、今の運行形態が築かれました。後に戦時体制で両社は「帝都高速度交通営団」(営団地下鉄)に吸収され、2004(平成16)年に民営化して「東京地下鉄」(東京メトロ)に衣替えするまで続きました。

「銀座線」という名称は、実は戦後になって命名されたものです。正式名称で3号線と呼ばれていたこの路線に馴染みやすい名前をつけようということになり、1953(昭和28)年に沿線随一の繁華街である「銀座」を冠することになったものです。subway


銀座線線路_R.JPG

「銀座線」の特徴といえば、東京では「丸ノ内線」と2系統だけの標準軌(1,435mm)かつ第3軌条集電方式を採用していることです。地下鉄の草創期は少しでもトンネルの断面を小さく抑えることを目的に、パンタグラフを用いず線路脇の「給電用レール」から集電する方式を主に用いました。欧米の地下鉄や大阪市の地下鉄などはほとんどこの方式を採用しています。東京では銀座線、丸ノ内線以降は、他社線との相互直通などを考慮し架空線かつ狭軌(1,067mm)を採用するようになりました。その意味でも初期の地下鉄の設計思想を今に伝えている貴重な路線でもあります。


銀座駅地下の像.JPGその歴史的価値が認められて、2008(平成20)年に「鉄構框構造やアーチ構造など、土木的に貴重な構造物が多数存在する」との理由で、土木学会選奨土木遺産に選ばれました。駅のホームから一度トンネルのつくりを眺めてみてください。当時の土木技術で何とか強固な構造を保とうと框を施してあるのがうかがえます。先人の知恵と努力に敬服の限りです。wrench


マーキュリー像_R.JPGさて、その「銀座線」の名前のもととなった「銀座駅」はこの路線を代表する駅です。この駅を利用してどれだけ多くの人が出会ったり想い出を紡いだことでしょう。今でも銀座駅の出入口は存在感を大きく示してくれます。

ところで、「銀座駅」は駅そのものとしてもおもしろいですよ。東銀座駅に向かう地下道にユニークな石像が陳列されていますし、構内の改札近くには「マーキュリー像」が設置されています。これは、1951(昭和26)年に、営団地下鉄のシンボルとして何体か設置されたものの一つです。マーキュリーはご存知のとおり〝商業の神様〟です。銀座という日本一の商店街の繁栄を祈っているようですね。


地下鉄グッズ売り場_R.JPGまた定期券売り場には〝地下鉄グッズ〟の販売コーナーもあります。お子様へのお土産としてはもちろん、東京観光の記念品としてもおもしろいのではないでしょうか。present 

そんな歴史ある「銀座線」にも今月から新型車両が登場します。新・1000系です。かつての銀座線車両を髣髴とさせるレトロでモダンなデザインではないでしょうか。


銀座線1000系.jpg昔の銀座線といえば、駅のそばではよく照明が切れたり扇風機が止まったりしたものです。これは、冒頭に述べた第3軌条集電方式ならではの現象です。駅の進入部あたりに給電レールが途切れる個所をどうしても設けざるを得ず、〝デッドセクション〟というゾーンが存在したのです。今の列車は、電気系統が工夫されているのでこの事象は発生しません。今となっては懐かしい想い出になりました。confident 


新・1000系は室内設計もいろいろ工夫されているようです。是非一度乗車して、新しい銀座線の仲間を確かめてみて下さい。

 

「銀座線」を含めて、中央区の鉄道は魅力がいっぱいです。これからも注目していきたいと思います。これまで9回の連載にお付き合いいただき、ありがとうございました。note 

 

 

日本橋浜町の清正公寺

[北遊人] 2012年4月 3日 08:30

今年は桜の開花が遅れています。

そのお陰か遅い梅が見られます。

日本橋浜町公園の一角にこじんまりとしたお寺が見られます。

江戸時代、細川藩の下屋敷であったこの地に文久元年(1861)細川斉護が熊本の日蓮宗本妙寺から勧請、創建したものとのこと、熊本本妙寺の別院です。

勿論、祀られているのは"加藤清正公"です。

加藤清正公は名君であり皆から敬愛されていたので、二代忠広が改易された後封ぜられた細川忠利は、大変気を使ったようです。それにより領民からの信頼をかち得たともいわれています。

現在の堂宇は昭和34年(1959)再建されました。

 浜町公園横の通りからのものです。

seisyokosama 001.JPG

 

 椿と梅が競っています。

seisyokosama 002.JPG

 

 正面へ回ってみます。

 これが全景です。

 右側の白梅も満開です。

seisyokosama 003.JPG

 

 お参りした帰りにもう一枚、

seisyokosama 004.JPG

 

熊本城の場内に加藤神社がありますが、都内では芝白金の"覚林寺"が有名です。

こちらは、熊本藩中屋敷に寛永8年(1631)日延上人により創建とのこと。

清正公さんは、日本各地で広くお目にかかれます。

 

 

◆中央区 ここに歴史あり(41) 震災復興事業を振り返る-2〈橋梁編〉―設計主導者・太田円三

[巻渕彰/写楽さい] 2012年4月 1日 08:30

関東大震災発災から66カ月かけて復興した東京は、帝都復興事業で新しい道路とともに復興橋梁が架けられた。今日では、永代橋、清洲橋が国重要文化財に指定されている。今回は、復興橋梁設計に心血を注いだ太田円三(おおた・えんぞう)に注目したい。

 

0913_41_120328ootaenzo.jpg太田円三は明治14年(1881)、静岡県田方郡伊東町(現伊東市湯川)で生まれた。4歳下の弟は詩人・劇作家の木下杢太郎(きのした・もくたろう=本名太田正雄)。東京帝大を卒業後、逓信省鉄道作業局(のち鉄道省)入局。丹那トンネルや清水トンネルを担当し、天才技術者と評される。関東大震災復興事業では帝都復興院の土木局長として手腕を発揮した。

 

その業績を称える記念碑が千代田区・神田橋北詰西側公園に建っている(写真上左)。碑文には「極めて難事業であった区画整理、土木工事に献身的努力をした」とある。そして「大正15年(1926)春、心身疲労のきわみとき、事業の犠牲として、惜しくもその命を絶った」と早い死を悼んでいる。昭和5(1930)の復興式典を見ないまま、45歳で世を去った。この碑は当初、相生橋畔の中島公園に建てられたが戦災で損傷し、修復後現在地に移設された。彫像の背景は清洲橋が彫られている。

 

永代橋由来板(写真上右)や、永代橋(写真下左)と清洲橋(写真下右)の重要文化財指定記念碑には、設計者としてすべて太田円三の名が記されている。

 

永代橋は帝都の門・第一橋梁で知られるが、この付近は地質が悪く、日本初の圧搾空気による潜函工法で造られた男性的なアーチ橋。清洲橋も下部は潜函工法であり、女性的な自碇式吊り橋となっている。この2つの橋梁は景観など常に対比される。工法や構造に当時の技術を結集した橋梁であっただけでなく、都市美観を創出したデザインには今日でも魅せられる。

 

震災前に東京市が管理した橋梁は600橋ほどあって、復興事業で手掛けたのは約460橋に達したという。なかでも隅田川に架かる橋梁は、復興のシンボルであった。「隅田川復興6大橋」と称されたのは永代橋、清洲橋、駒形橋、蔵前橋、言問橋、相生橋。これに吾妻橋、厩橋、両国橋と震災に耐えた新大橋の4橋を加えたものを「10大橋」という。隅田川各橋はデザインが異なり、"橋の展覧会"とも呼ばれている。

 

弟の木下杢太郎は「パンの会」を立ち上げ、北原白秋、吉井勇など当時の文学・美術界を飾った人物たちと交流し、フランスのセーヌ河に想いを寄せ、隅田川河畔の料理店などで語り合った。兄弟は隅田川を通して互いに結び付いていたのかもしれない。●巻渕彰