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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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北村透谷  我事終れり 五月に死す

[与太朗] 2012年5月31日 08:30

IMG_0562.JPG 恋愛は人世の秘鑰(ひやく)なり、恋愛ありて後人世あり、・・・

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 近代日本文学の先駆者、透谷北村門太郎は明治元年小田原に生れ、明治14年、京橋区弥左衛門町七番地に父母弟と移り住みます。父は大蔵省に出仕、母は煙草小売店を始めます。泰明小学校に転入した彼は、谷口和敬校長から抜群の才能を認められます。翌明治15年卒業後は政治家を志し、自由民権運動に加わりますが、やがてそこを離れ、キリスト教に入信、文学の道に進み、一世を驚かす詩や評論を発表しましたが、精神を病み、明治27年5月、早熟の天才は満25歳4ヶ月の短い生涯に、自ら終止符を打ちます。


 弥左衛門町七番地は、現在の銀座4-3あたり。数寄屋橋から尾張町交差点に向かって中ほど左側、角地の二階建てでした。(透谷という筆名はスキヤ橋からきています。) 透谷はその後何度も転居しますが、しばらくするとここに戻ります。
IMG_0555.JPG泰明小にはもちろんここから通ったし、石坂美那子との結婚も、『楚囚之詩』を自費出版したのもこの自宅でした。死の前年、咽喉を突いて自殺を図ったのはこの家の物干し場でした。
透谷の文章に感銘を受け、親交を結んだ島崎藤村も、あの煙草屋の二階 にはよく遊びに行ったものだと言っています。(藤村も泰明小に学びましたが、透谷との親交はずっと後の明治25年、巌本善治の紹介で始まります。)

 泰明小学校の入口には「島崎藤村 北村透谷 幼き日 ここに 学ぶ」というおなじみの記念碑があります。中央区に残る透谷のよすがはこれだけのようですね。
(蛇足を一つ。上記の記念碑ですが、生年順、転入順、文学上の関係等々、いろいろ考えても名前の順が逆だと思うのですが、・・・)

IMG_0561.JPG(ついでにもう一つ蛇足を。透谷の生地小田原では、「北村透谷生誕之地」碑(浜町三丁目)、「透谷北村門太郎墓」(城山一丁目、高長寺)、「北村透谷碑」(南町二丁目、小田原文学館敷地内。藤村の奔走でできたもの。藤村筆で「北村透谷に獻す」と彫られている。) などのほか、小田原文学館では関係資料を多数見ることができます。透谷に興味ある方は必見です。)


【写真】 上から

 ◎旧弥左衛門町七番地(現在の銀座4-3)あたり

 ◎泰明小学校入口の記念碑

 ◎「透谷生誕之地」碑(小田原市浜町三丁目)

 ◎北村透谷の墓(小田原市城山一丁目・高長寺)

 

 

 

江戸検「五期の会」の町歩き(日本橋・人形町)

[御末] 2012年5月30日 08:30

5月26日、江戸検1級の「五期の会」・町歩きが行われました。

今回は石川英輔著「神仙伝」シリーズの洋介、いな吉が愛した日本橋・人形町を巡るというテーマです。

 

地下鉄三越前に集合し、熈代勝覧から始まって常盤橋、一石橋、日本橋高札場と当然のコース。

コレド付近では自由な買物タイムと粋なはからい。

江戸時代は「照降り町」と呼ばれた小舟町を通り人形町へ歩く歩く。

蛎殻銀座跡、玄冶店跡、そして最後に小伝馬町因獄跡。

しばし高杉晋作の気持ちになって吉田松陰終焉の地の碑を見学。その気持ちをすぐに忘れて楽しみな打ち上げ居酒屋へ。

 

行程17000歩あまり、平均年齢の高い会員達には明日の体調が心配な、しかし楽しい町歩きでした。

 
 

 

◆郷土天文館特別展「月島百景」開催中 ~5/19-7/1~

[巻渕彰/写楽さい] 2012年5月19日 08:30

中央区立郷土天文館(タイムドーム明石)で第13特別展「月島百景」~佃・月島・勝どき・晴海・豊海 水のまちの120年~が開かれている。月島第1号地が明治25年(1892)に竣工して、今年は120年にあたることから企画されたもの。会期は5/19(土)~7/1(日)、月曜休館、特別展は入場無料。

 

0913_431_120518tsukisima_te.jpg展示会場は4つのテーマから構成され、貴重な区民文化財も展示されている。

 

1テーマは、月島前史として石川島や佃島の歴史が紹介されている。月島地域のはじまりは江戸初期、江戸湊の寄洲に造られた石川島であった。人足寄場が置かれたことで知られている。その南側に造成されたのが佃島だった。

 

2テーマは、月島の誕生と発展で、ここからは近代、明治期からの話である。埋め立てで月島1号地が生まれたのが今から120年前の明治25年(1892)。石川島には造船会社が隆盛し、臨海の一大工場地帯に発展していく。

 

3テーマは、経済成長と月島のまち。戦後の月島地区や新興地の晴海地区など、都心部に近いウォーターフロントとして注目を浴びはじめた頃であった。

 

4テーマは、月島地域の信仰と文化に触れている。佃島の住吉神社は江戸初期から佃漁民の守り神であった。眺望に優れた旅館・海水館は明治文豪たちの創作の場として、文学作品を生み出していった。

 

月島竣工120年は近代工業の進展とともに歩み、庶民のまちとして今日の姿になった。石川島起立から振り返れば、江戸初期以来400年余の歴史を刻んでいることになる。月島地域の歴史・文化・暮らしを概観できる展覧会である。●巻渕彰

 

◇この特別展に連動した講演会や現地見学会が開催される。

詳しくは中央区HP郷土天文館のページ ら>> をご覧ください。

 

 

 

東日本復興応援 「まんまるさん」  

[銀造] 2012年5月17日 08:30

以前、「東日本復興応援プラザin銀座」で、ボランテイアの方々が毎週土日に東北支援の活動をなさっている事を報告しました。 先日も、お会いしたボランテイアの小父さんに、素敵な活動家の事を紹介されました。 ご本人は、フラワーデザイナーの吉田教子さんです。 今回も写真を固辞されていましたが、小父さんに立派な活動を紹介され、写真に納まっていただきました。

CIMG0438.jpg 

東日本復興応援のため、皆さんのご寄付を通じて、「まんまるさん」の人形を普及させたいと活動されています。 その他に、フラワーデザインの仕事だけでなく、更正施設を慰問されていると小父さんからお聞きしました。 詳細は、雑誌「フローリスト5月特大号」で。 土日は、お立ち寄り下さい。 

http://www.chuo-kanko.or.jp/blog/2012/04/post-1201.html

雑誌フローリストの記事の一部が、紹介されていますので、ご覧下さい。

http://gekkanflorist.blogspot.jp/search/label/%E8%8A%B1%E3%81%A8%E4%BA%BA

 

 

人助け橋、新大橋の話

[kimitaku] 2012年5月16日 08:30

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「有りがたや いただいて踏む 橋の霜」 

「初雪や  かけかかりたる   橋の上」


この二句は、俳人 松尾芭蕉が

詠んだ句です。


新大橋ができた嬉しさを、句にしたためたものです。 


新大橋は 元禄6(1692)年架橋後、何度も架けかえられ、明治45(1912)年に鉄橋として架

けかえられました。

両国橋のまたの名前「大橋」に続く橋として「新大橋」の名前がつきました。 

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中央区の浜町と 江東区の森下方面を結び、全長 170M 幅 24Mです。


橋を渡る途中には、 
由来、元の橋、歌川広重の錦絵が レリーフとなっていますが、
ゆったり流れる隅田川に、橋の色とマッチして美しく、
足を止めて碑文を詠む人も多くいらっしゃいます。   


この橋のまたの名は「人助け(お助け)橋」   由来を説明しましょう。

(これからの話は多く「区内散歩6巻 川端茅舎 の項」に寄ります)


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 大正12(1923)年9月1日昼間際
  東京は未曾有の揺れに襲われました。



>>>「土蔵の多くはまたたくまに崩れ、砂煙が巻き、目も開けられない状態でした。直後は物音もせず静寂の状態が続いたそうです。人々は不安にかられました。

 近くの倉庫からの火はたちまち広がり火の粉の雨を降らせました。すぐ鎮火したものの、神田方面からの火勢は、人形町を焼き尽くしていきました。

 川では津波ように真っ黒な水が押し寄せて来たそうです。


 火勢が迫る午後8時、茅舎家族は蠣浜橋までくると甘酒横町は半分以上燃え上がり、多くの荷物と車で身動きが取れない状態でした。


 茅舎一家は細川邸の塀を破り、庭園に出たものの火の手が回り、大橋の袂に出ました。

橋の真ん中に必死に割り込み座り込み、一昼夜を過ごしたそうです。


 橋の両傍から火に攻められた人々は死に物狂いで真ん中へ押してくる、中央でさえ堪らぬほど熱い。阿鼻叫喚の様相。自分たちも死に物狂いで踏み留まる、やがて、傍らの人並みは動かなくなる。


 橋の袂の人は皆焼け死んだそうです。
 吹く風は熱く、橋はハンモックのように揺れ、川は濁流が轟々と流れていたそうです。」<<< 


 新大橋は、鉄製の床板で敷き詰められていたため、消失を免れました、当時、隅田川5橋のうち、ただひとつの鋼鉄製の橋でした。


 新大橋の右岸、橋を渡る手前の左側土手下に「新大橋避難記念碑」があります。

 大変大きな碑で、由来が細かく記してあります。この橋の上で多くの人が助けられ「人助け」たことと、教訓が記されています。

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なお  旧新大橋の一部は

愛知県犬山市の明治村に保存されています。


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記念碑を読んでいる最中に、

若い女性が、碑に向かい

深々とく手を合わせていらっしゃいました。


 

 

 

江戸落語の舞台を訪ねるー落語散歩は如何?-「宿屋の富」

[滅紫] 2012年5月14日 18:36

「落語はお好きですか?」私は3年前からの新参ファン。好みの噺家も出来、少しずつ面白さがわかってきたところ。何度か聞いていると噺の中に出てくるお店や登場人物のいた場所に行ってみたくなりませんか?そんな方にぴったりの講座が、「名作落語で楽しむ江戸東京の世界」(中央区民カレッジ早大連携講座)です。第1回目は5月11日、「宿屋の富と人形町」。講師が噺の舞台となる宿屋のあった馬喰町、富くじ抽選の行われた椙森神社、富くじ興行についての説明をされたあと、志ん朝の演じる「宿屋の富」(平成6年収録)のDVD鑑賞。テンポのよい志ん朝を聞いているうち、部屋を暗くしているのとまだ抜けない時差の相乗作用で猛烈な睡魔に襲われ三分の一は夢の中!(講師、志ん朝さんごめんなさい)「宿屋の富」は落語の中でもよく知られた噺ですが、説明によると「元々上方で『高津の富』といった噺で二代目の小さんが東京に移したもの、従って場所も高津神社から椙森神社へ。志ん朝は湯島天神で演じています」とのことです。早速舞台に行ってみましょう。

100_0561.JPG椙森神社に向かう途中に幟がたくさん。例大祭の日だったのです。

 

 

 

 

 

 

100_0563.JPG神輿に出合えました。椙森神社は平安時代の創建と伝えられ江戸時代には烏森、柳森と並ぶ江戸三森のひとつに数えられ人々の信仰を集めていました。江戸時代に流行した富くじ興行の場所としても有名でよく時代小説にも登場しますね。江戸の富くじは一枚一分が相場で通常一等が100両。庶民にとっては高額(一両10万円として2万5千円です)であったため共同購入することも多かったとのことです。椙森神社には「富塚」の碑が建てられています。

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