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月島七不思議~第7話「路地と下町風情」(最終回)

[下町トム] 2012年10月13日 08:45

 

これまで〔月島〕の魅力を様々な切り口から捉えてきましたが、今回でひとまず最終回とします。

 

最後はやっぱり、この町の魅力とも言うべき路地の風景に注目します。house


20120725月島路地(2).jpg

月島には昔懐かしい路地が大通りに直角の形で櫛のように並行に走っています。かつて住宅街を形成するときに、効率よくより多くの住宅を建てられるようにした先人の工夫かと思います。

 

1918(大正7)年に当時の内務省が東京の労働者の住宅事情を調査したことがあり、月島が対象地域に選ばれました。俗に「月島調査」と呼ばれています。

その当時の地図を見ると、路地ごとに細かく住宅が密集しているのが分かります。結局その姿は基本的にその後も継承され、現在に至っています。search 

 

月島は奇跡的に戦災を免れました。石川島の造船所は被災しましたが、運河に囲まれた月島地地域は戦火を逃れることができたため、戦後も古い長屋の風景が残されたのです。

 

20120829月島(5).jpg

今も月島を歩いていると、昭和30年代の姿そのままの町景色に出会えるので、何だか懐かしくなってきます。そんなたたずまいが、訪れる人の懐旧の思いを刺激するのでしょう。 crying 

 

 

 

 20120829月島(1).jpg月島の路地の特徴としては次のような点が挙げられるでしょう。

(1)昔の町割がそのまま残されている。(住宅は建て替えが進んできているが、路地の位置・構成はそのままであることが多い)

(2)路地の真ん中には雨水を排水する溝が設けられている。(江戸期の割下水的な発想かと思われる)

(3)多くの家庭が玄関先に植栽などを設け、独自の小さなガーデニングを施している。(自然発生的な緑化運動)

(4)路地には住宅だけではなく、飲食店もところどころにあり、地域の食のネットワークを支えている。(食と住の融合)

月島の路地では、時々知り合いに会います。そんな時、ごく自然に声をかけてくださるので、とてもフレンドリーです。いまだに家族的な付き合いが残っているんですね。heart04 

 

 

20120829月島(4).jpg

 しかし、この町もだんだん変わりつつあります。 

 かつての長屋群の多くがマンションに変貌しました。〝向こう三軒両隣〟という付き合い方も変化します。

 新しい時代には新しいコミュニティーが生まれるのは当然ですが、月島の持つ人間性豊かな地域特性は残してほしいと願うばかりです。

 

 月島の町内には「誰か見てるゾ」というポスターがあちこちに貼られています。もちろん防犯のために抑止力を狙っていますが、ぼくは実際に「誰か見てる」と思うのです。つまり、地域住民がお互いの安否を心配しあい、怪しいことがあると注意しあって安全を守るというセーフティーガードが働いていると思うのです。本来、地域社会が当たり前に担っていた防犯の力を残している町です。shadow 

 

20120725月島ポスター.jpg

これからの時代、もう一度このような地域の力を見直すべきではないでしょうか。防犯だけではなく、災害時の助け合いなど、いざという時に自助・共助の力を発揮できる町こそ〝強い町〟ではないでしょうか。

 

様々な魅力をもつ月島の町は時代の流れとともに徐々に変化しながらも大事なものを受け継いでいます。この町の魅力が続きますようにと祈りながら、このシリーズをひとまず終了とします。お読みいただいてありがとうございました。t-shirt 


 

 

続きを読む: 月島七不思議~第7話「路地と下町風情」(最終回)

 

人形町の芝居町跡

[北遊人] 2012年10月11日 09:00

 人形町交差点西側歩道を北へ少し歩くと、植え込みの中に"堺町・葺屋町芝居町跡"の説明板が見えます。

Sibaimachi 009.JPG


 説明文を紹介します

  堺町・葺屋町芝居町跡

 所在地 中央区日本橋人形町三丁目二~七番地域


 堺町は慶長年間(1596~1615)に沼地を埋め立てて起立されたといわれ、明暦二年(1656)のころには西半分の上堺町が葺屋町として分かれ、東半分の下堺町は堺町として残りました。

 江戸時代、この辺りには芝居小屋やそれらを取り巻く茶屋などが集まっており、大変賑っていました。芝居小屋のなかには、江戸三座と呼ばれた官許の芝居のうち、歌舞伎を興行した中村座と市村座(ほかに現銀座六丁目あたりの森田座)があり、このほかにも人形浄瑠璃の芝居小屋も多数ありました。江戸三座筆頭である中村座は、京より江戸に移り住んだ猿若勘三郎が、寛永元年(1624)に猿若座(後の中村座)を中橋南地(現京橋一丁目辺り)に創設し、これが現在につながる江戸歌舞伎の発祥となりました。寛永九年には禰宜町(現日本橋堀留町一丁目辺り)に、慶安四年(1651)には下堺町へと移転し、二代勘三郎のとき本姓の中村を名乗り「中村座」と改称しました。この間、堺町では、上堺町において寛永十年に都座が、寛永十一年には村山座(後の市村座)が創設されました。

 歌舞伎に先んじて京より下ってきたのが人形浄瑠璃でした。猿若座と同じ中橋の地において、元和三年(1617)には興行が始まっていたようです。やはり寛永九年禰宜町移転を経て、慶安四年下堺町に移されました。人形浄瑠璃の芝居小屋は、江戸、薩摩、丹波、天満、土佐、虎屋、肥前など、数多くありました。

 堺町・葺屋町の芝居小屋は、天保の改革により天保十三年(1842)から翌十四年にかけて、猿若一丁目から三丁目(現台東区浅草六丁目辺り)を起立してそこに移されるまで、二百年前後この地にありました。

 近年、日本橋人形町三丁目において発掘調査が行われ、茶屋や芝居に関する遺物も出土しています。

平成二十三年三月  中央区教育委員会


東都名所図が載っていますので紹介します。

手前が東堀留川、通り奥が中村座でしょうか。

Sibaimachi 011.JPG



 路地を歩いてみましたが170年も経た今日、すっかり変わってしまいました。

しかし、残された痕跡を二つ紹介します。

この説明板の通りの反対側に、"三光稲荷神社"があります。

Sibaimachi 006.JPG


人形町通り側路地入り口に"三光稲荷神社 御由来"の説明板が見えます。

Sibaimachi 007.JPG


紹介します、

 三光稲荷神社  御由来

 祭神  三光稲荷大神

      田所稲荷大明神

      大正十三年区画整理にて旧長谷川町と旧田所町が合併して現在の堀留町二丁目

      になっていますので、田所大明神さまも当神社に奉祀されています。

 創建  中村座に出演していた大阪の歌舞伎役者 関三十郎 が伏見より勧請したと

      伝わる当神社は「江戸惣鹿子」元禄二年(1689年)には記録があるところから、

      それ以前と推測される。

 拝殿  右上の額「日本橋区長谷川町守護神 三光稲荷神社」は神田神社社司 平田盛胤

      氏の揮毫である。

 江戸時代

      近隣には吉原や歌舞伎小屋の中村座、市村座、更には操り人形や人形浄瑠璃

      の小屋等があり、それを背景とした(江戸落語)に「三光新道」や「三光神社」が

      登場するところとなった。

      古くから娘、子供、芸妓等の参詣するものが多く、ことに猫を見失ったとき立願す

      れば霊験ありと云う。「三光稲荷神社参道」と銘ある石碑や境内にある猫の置物

      は猫が無事に帰ったお礼に建立、奉納された。

  この文言から嘗ての芝居町の様子が偲ばれます。

 

  次は"出世稲荷"です。

 こちらは、旧芝居町側人形町三丁目から外れ堀留一丁目に入ったお店の壁に見つけました。

Sibaimachi 012.JPG


紹介します、


   出世稲荷の由来

 江戸時代は当稲荷敷地は新材木町十六、十七、十八番地稲荷です。

 その昔徳川家康入城天正八年(1590)頃此の付近は芝原宿という村落でした。

 杉の森林の多い所です。

 江戸城拡張以来江戸町割当地慶長九年(1604)頃材木置場が多い所から新材木町と

 町名が出来た由。 尚元和三年(1617)親爺と呼ばれた北条家浪人庄司甚右衛他数名の仮屋敷内に有り 京都伏見稲荷より祭神を戴き守護神として祭りし後当地世話人一同が現在迄守護致して居ります

 当社は明暦三年(1657)江戸大火振袖火事、安政(1854)大地震、明治六年(1873)大火、関東大震災大正十二年(1923)、近くは昭和の太平洋戦争まで本尊災禍を免れました。

 関東大震災の時社殿焼失致し現在堀留町一丁目十番地椙森神社の拝殿取壊し材料(杉の木)削り直し昭和六年(1874)に落成し現在まで数多くお信仰者があります。

 江戸時代初代市川団十郎が日参し名をあげた由、尚当地より出世致した商店、芸能関係、各個人等数多く出ております。

 初午毎年三月岩代稲荷と合同で堀留町一丁目町会応援にて執行いたします。

 応長見聞集寛永図経、先祖の言い伝えとの事

   昭和五十六年五月吉日(1981)

出世稲荷世話人一同


 初代市川団十郎ほか多くの方がこのお稲荷さんを信仰し出世していったようです。

 此の路地を少し進むと幟と標示が見えます。

Sibaimachi 013.JPG

 

本殿はこの奥にあります。

Sibaimachi 014.JPG


"岩代稲荷神社"と"出世稲荷大明神"とあります。

お参りされる場合は、集合住宅の奥に祀られていますので気配りの程を。   

 

 

◆中央区 ここに歴史あり(46) 五街道今昔(2) ~日本橋から甲州街道を歩く~

[巻渕彰/写楽さい] 2012年10月 4日 21:53

中央区内の五街道をゆく、第2回は甲州街道。江戸期は内藤新宿、八王子から甲府を経て下諏訪までの道中だった。現在の中央区内部分は国道1号と重なり、日本橋からわずかな距離しかない。そこで少し足を延ばして、旧甲州街道を継承している、国道20号分岐点まで歩いてみたい。

 

0913_46_121006koshuukaido.jpg起点の日本橋を出発し、中央通りを南へ日本橋交差点まで歩く。ここまでは国道1号や東海道、現国道15号と同じだ。交差点を大手町方面へ西に折れると国道1号は永代通りと呼ばれる(写真上左)。やがて呉服橋交差点に差し掛かる。古くは呉服町があったことに由来する。北側に明治期、「竹久夢二・港屋絵草紙店」があった。

 

南北をつなぐ現在の外堀通りは、江戸城の外堀跡で呉服橋が架かり、西側に呉服橋御門が置かれていた。この外堀通りを神田方面に向かうと一石橋。外堀、道三堀、日本橋川が合流した地点だった。江戸百景「八つ見のはし」や名所図会「八見橋」に描かれている。現在は南詰西側に安政期の「一石橋迷子しらせの石標」(写真上右)と区民文化財である大正期の「一石橋の親柱」が残る。

 

呉服橋交差点を越えた地点で中央区から離れ、千代田区丸の内に入る。南側のビルの裏には「北町奉行所跡」(写真下左)がある。JR有楽町駅付近の「南町奉行所跡」とともに江戸市中を統治していた様子がよみがえる。しばらく歩くと大手町交差点に突き当たる。直進すると大手門、南に行くと国道1号は日比谷通りとなる。

 

内堀に沿って南に歩き、馬場先門の重要文化財「明治生命館」あたりには「定火消同心屋敷」があった付近で、歌川広重が生まれたところだ。このあたりはまた、ヤン・ヨーステン屋敷があったことから「八代洲河岸」と呼ばれ、近代では麹町区八重洲町であった。先に進むと日比谷交差点。

 

日比谷公園の日比谷御門跡を右折して西に向かうと国道1号は晴海通りで、桜田門交差点に差し掛かる。ここで南に左折すると国道1号は桜田通り、日本橋から3kmの標識が立つ。直進すると国道20号で、ようやく甲州街道に出会える(写真下右)。半蔵門から新宿方面へいく道は、現在新宿通りだ。●巻渕彰

 

 

 

月島七不思議~第6話「もんじゃの町で」

[下町トム] 2012年10月 4日 09:00

さあ、今や「月島といえばもんじゃ」というくらいの地域の代名詞ともなった〝もんじゃ焼〟について、思いをこめて紹介します。

 

201209 もんじゃ「けい」 出来上がり_R.JPG〝もんじゃ焼〟は、とても簡単な料理ですが、作り方次第で味も食感も変わるので、決して手は抜けません。

都会で育った〝庶民グルメ〟といっていいでしょう。その由緒については、既に多くの情報があらゆるメディアを通じて紹介されていますので、簡単に振り返りたいと思います。pencil 

 

 

好美家.JPGご存知のように、〝もんじゃ焼〟とは、そもそも駄菓子屋の店先などで小麦粉を溶いて鉄板に薄く広げたものに、削り節や簡単な具を載せてぐるぐるかき回して焼いたものです。文字を書くように混ぜたのでいつの頃からか〝文字焼〟と呼ばれるようになり、やがて転訛して〝もんじゃ焼〟となったというのが定説です。

 

 

近どう_R.JPG月島以外にも浅草や千住あたりでも同様の食べ物はあったようですが、どういうわけか月島が有名になりました。おそらく、戦前戦後と工場が多く、労働で疲れた体に少し濃い目のソース味が馴染んだこともあったでしょう。さらに比較的戦後早く専門店が営業し始めたことも月島の知名度を上げたのではないでしょうか。up 

 

 

上州屋_R.JPG〔好美家〕さんが昭和29年に開業されたのが〝元祖〟と言われていますが、それ以前にも〝もんじゃ焼〟自体はいくつかの店で提供されていたようです。昭和25年創業の〔近どう〕さんも、〝元祖〟のひとつといっていいでしょう。〝百円もんじゃ〟として往年の姿を継承している〔上州屋〕さんも古いお店です。

しかし、何と言っても、平成に入った頃からテレビや雑誌で紹介される機会が増え、一気に存在感を増しました。かつて数えるほどだった専門店も大幅に増えました。もともとほかの商売をしていた店が衣替えしたり、脱サラで開業した人もいらっしゃいます。初めて来た人は、どの店に入ろうかと迷うのは無理がありません。sign02 

 

あんこ巻きシューアイス_R.JPGぼくの友人で、もんじゃ店〔けい〕を経営する片岡和秀さんに話を聞きました。「競争の激しい商売なのでどうやって特徴を出すか考えました。そこで、〝海鮮〟を売りにすることと、新鮮な具材を提供することをアピールしたんです」とのこと。

さらにぼくたちの共通の友人で特許事務所に勤める人が居るのですが、オリジナルメニューの〝あんこ巻きシューアイス〟を実用新案として登録するよう薦められ、実際に認可されました。もし訪れる機会があれば、店内に掲示してあるので、一度ご覧下さい。memo 

 

201209 もんじゃ「けい」 実用新案_R.JPGほかにもそれぞれ店が工夫を凝らして、お店のオリジナリティーを競っています。味もさることながら、店のデザインや店主の人柄など、各々の好みにあわせてお店選びをするのも楽しいものです。

 

もしかしたら、新しい具材の組み合わせを考えてお店に提案することだってできるでしょう。秋の夕べ、香ばしいソースの香りに誘われて、月島のアメージングタウンに是非お越し下さい。cancer 


 

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