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木村荘八 東京を愛した芸術家 生誕120年

[与太朗] 2013年8月30日 10:00

IMG_0689.jpg 永井荷風『濹東綺譚』の挿絵で名高い、洋画家木村荘八(1893-1958)は、明治26年8月、日本橋区吉川町1番地(現・中央区東日本橋)の牛肉店「いろは」第8支店にて、実業家木村荘平の第8子として生れました。干支は二巡して今年が生誕120年になります。

 荘八には同母・異母あわせて30人もの兄弟姉妹がいたそうですが、芸術的天分に恵まれたものが多く、姉栄子(曙)、兄荘太、弟荘十は作家、弟荘十二は映画監督として名をなしています。荘八もフューザン会、草土社、春陽会などで活躍した油絵が本業ですが、挿絵の分野でも大人気を博し、舞台美術や趣味の小唄など多彩な活動をした文化人でした。とりわけ文筆の才も遺憾なく発揮、東京に生れ、東京を愛する生粋の東京人として「故郷」東京を語ったすばらしい文章を多く残しています。 (文人・木村荘八には死後『東京繁昌記』に対し芸術院恩賜賞が贈られました。また講談社から『木村荘八全集』全8巻が刊行されています。)

 さて、吉川町1番地は現在のどのあたりでしょうか。画家自身戦後に「・・・どの辺で生れたのか・・・現にあの辺へ行って見ても、ほとんど見当が付かない・・・」と変貌を嘆いています(『両国今昔』)が、両国郵便局(東日本橋2-27-12)の少し南、靖国通り浅草橋交差点の東あたりになるのでしょうか。(蛇足ながら、彼のいう「両国」は両国橋の西側、中央区側をさしています。両国吉川町という呼び方もあったようです。郵便局の名前に名残が感じられます。橋の東は「東両国」、今では「両国」といえばこの墨田区側のみを思い浮かべますが。) ここに「間口をだゝつ広くとって、二階前面のガラス戸に五色硝子をあしらった角店」(『両国界隈』)が「いろは」牛肉店(=牛鍋屋)第8支店でした。店の中、玄関の様子は代表作の一つ、『牛肉店帳場』に描かれています。

IMG_0693.jpg 生誕120年の今年、春に回顧展がお隣千代田区の東京ステーションギャラリーで開かれました。(その後、豊橋市、日光市の美術館に巡回) 彼が愛した生誕の地中央区では残念ながら特段のイベントはないようなので、誕生の日8月21日、旧吉川町と思しきあたり、街鉄に五寸釘を轢かせたり、虎の子の二円五十銭で買った武者絵の大凧を川向こうの回向院の黒い大屋根の上まで揚げたりして遊んだ画伯の少年時代を偲びつつ、浅草橋から両国橋あたりを歩いてきました。

 【写真上】 浅草橋交差点から両国橋方面をのぞむ

 【写真下】 杉並区長延寺の墓に彫られた画伯のサイン

 

 

◆中央区 ここに歴史あり(55) 煙草王・村井吉兵衛~日本橋に旧村井銀行の遺構

[巻渕彰/写楽さい] 2013年8月10日 09:00

日本橋の南側に三菱東京UFJ銀行日本橋中央支店が入る日本橋御幸ビルがある。その北東側、野村證券ビルに向かって古い出入り口が残されている。これはこの場所にあった旧村井銀行の出入り口跡である(写真上)

                                                   

0913_55_130808muraibank.jpg村井銀行は京都出身の村井吉兵衛〔文久4年(1864)-大正15年(1926)〕が設立した。明治期に村井は煙草民営化で「東洋の煙草王」と称され、わが国初の両切り煙草「サンライズ」を製造販売して巨富を築いた。東京銀座・岩谷松平の「天狗煙草」と宣伝を競ったという。

 

煙草が専売制になった明治37年(1904)に莫大な賠償金を得て、村井銀行を創設し、京都を中心に東京にも進出した。当初の支店は大伝馬町一丁目だったが大正2年(1913)、ここ日本橋の三角地にルネサンス様式で日本最初の鉄筋コンクリート構造の新社屋に移転した。金融恐慌で昭和2年(1927)破綻・倒産した。ほかにも村井汽船、村井鉱業、帝国製紙などを設立した。

 

村井吉兵衛の邸宅は現在の千代田区永田町、日枝神社近くの都立日比谷高校敷地にあった。大正元年(1912)約5千坪のこの地に移り、大正8年(1919)竣工の建物は「輪奐〔りんかん=建物の広大、壮麗なこと〕の美を極めた純日本式の屋宇」で「山王荘」と呼ばれたそうだ。倒産後は延暦寺の書院として移築された。

 

村井は大正15年(1926)に急死し、昭和2年(1927)の銀行倒産で邸地は東京府に売却されて、昭和4年(1929)府立一中(現日比谷高校)が西日比谷から移転した。旧邸の門柱が今も校舎正門として使われている(写真中央)。メキシコ大使館側の新坂(遅刻坂との俗称)に面した旧美術品倉庫も資料館として整備され、現存している(写真下)

 

ちなみに、日比谷高校は東京府尋常中学校として明治20年(1887)6月、京橋区築地3-15(現東劇ビル辺り)に移転し、明治32年(1899)東京府中学校と改称したその年の3月まで、12年間ほどは築地に置かれていた。その跡地には明治40年(1907)4月、府立工芸学校(現都立工芸高校)が開校した。@巻渕彰

 

 

2013陰祭り<住吉神社>

[サム] 2013年8月 8日 09:00

R0021179RSG.JPGR0021192LSC.JPG 8月6日7日は佃、月島、勝どき、晴海地区の氏神様「住吉神社」の例祭。

今年は「陰祭り」ということで街の様子も3年に一度の例大祭(本祭り)の喧騒とは趣を異にする。

境内では8月6日11:00より大祭式、8月7日14:30/16:30/19:00には神楽奉納が粛々と執り行われた。

それでも、8月7日14;00からの、平成24年度例大祭 "揃い" を着用した佃住吉講世話人一同参拝等を見るにつけ、地域の祭りに対する独特の思いや仕来り、祭りを通じた強い絆と伝承する心意気が伝わってくる。

(写真左上)

 

✎例大祭に欠かせないものの一つに「揃衣(そろい)」(と呼ばれる浴衣)の新調がある。

宮神輿は揃衣を着て、白足袋を履かなければ佃では担げない。

女性は宮神輿を担げないが、宮元町会<千貫>神輿渡御に限って女性も参加出来るとの仕来りも健在と聞く。

佃島(佃一丁目)には、一部<上町>・ニ部<下町>・三部<東町>からなる男子のみで構成される佃住吉講という組織があり、住吉神社の例祭は勿論、神社で行われる祭祀全般に関わる。

佃住吉講の構員は「若衆」・「大若衆」・「世話人」の三つに序列され、身につける揃衣や役割が異なる。世話人になるにはひと頃若衆20年、大若衆10年の「時」が必要と云われたが、現在は年齢・経験・貢献度等を考慮して昇格が決められると云う。新加入の若衆は「新縁(しんべり)」と呼ばれ、座る席を間違えると「○○年早い」と厳しいお叱りを受ける世界と聞く。

尚平成24年度の例大祭の揃衣のデザインは、

≪若衆≫  白地に紺(写真左)

≪大若衆≫ 薄青地に紺(写真中)

≪世話人≫ 薄青緑地に紺(写真右)  

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銀座五~八丁目散策Ⅱ

[wombat] 2013年8月 4日 14:00

前回に紹介したブログ『銀座五~八丁目散策Ⅰ』の続きを案内します 

前回の記事はこちら→http://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/2013/07/post-1716.html

 

今回は、後半の太文字 で示している場所です。

 

< 行    程 >

銀座駅・・・数寄屋橋の碑・・・北村透谷&島崎藤村記念碑・・・石川啄木歌碑・・・歩行者天国・・・商法講習所跡・・・金春屋敷跡・・・銀座煉瓦遺構碑・・・銀座柳の碑・・・芝口御門跡・・・三十間堀跡・・・元国鉄踏切信号機・・・検査業務開始地・・・銀座案内所・・・新橋演舞場・・・東京商工会議所の跡・・・佐久間象山塾跡・・・狩野画塾跡

 

三十間堀跡から出発・・・

前回の続きだが、三十間堀跡の説明板の横にある三個の大きな石

これらは高速道路出口にあり。わかりにくい。

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日本における

近代的物品購入検査の始まりの地

明治9年〈1876〉に

工部省電信寮の碍子試験所がここで電信用碍子の電気試験を行う。

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元国鉄踏切信号機



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明治時代、国内商工業者の意見を集約する代表機関がないため、不平等条約との改正が困難を極めていた。そこで、伊藤博文と大隈重信は渋澤栄一に代表機関の設立を依頼する。


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明治11年〈1878〉、

日本初の商工会議所である

東京商法会議所」が設立される。

この碑は、創立100周年を記念して発祥地に建立。 

左手側に新橋演舞場がある。見過ごしやすい。

佐久間象山塾跡

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 嘉永4年〈1851〉に兵学・砲術・海防方策などの講義をおこなうために兵学塾を開講。
 門下には、勝海舟・吉田松陰・橋本左内・河井継之助などが集まり、坂本竜馬も一時、籍を置く。嘉永7年〈1854〉吉田松陰のアメリカ密航により塾が閉鎖される。

 

狩野画塾跡

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 幕府奥絵師。狩野四家。
 鍛冶橋・木挽町・中橋・浜町に屋敷を拝領。現在の中央区。

 繁栄したのはこの木挽町の狩野家。
 六代典信は老中田沼意次の知遇を得てこの地に塾を開く。狩野芳崖・橋本雅邦はこの塾の出身者。

 

以上、銀座五~八丁目散策でした

 

 

 
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