中央区観光協会オフィシャルブログ

中央区観光協会特派員ブログ

中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

執筆者一覧

>>このブログについて

最近のブログ記事

伊勢の国 光太夫あられ〔三重テラス〕

[ジミニー☆クリケット] 2015年5月 4日 09:00

中央区にたくさんある道府県のアンテナショップには、すでに全国に名の知られたブランド名をうまく利用したり、ご当地出身の有名人の名を冠した商品が陳列されています

daikok1.JPG

日本橋室町2丁目YUITO ANNEXに入っている三重県の情報発信センター「三重テラス」で、下の商品を見つけて、買ってしまいました

松阪牛チップス」と「伊勢の国 光太夫あられ」です

daikok2.JPG

前者は言わずと知れた超強力ブランド「松阪牛にあやかったものですが、後者については、最初見たとき「光太夫って誰?」という感じでした。「鈴鹿名物」とも謳っています。

袋に印刷された人物の服装から、「ロシアに行っていた大黒屋光太夫かな?」と気づきましたが、そもそも「大黒屋光太夫って三重県出身でしたっけ?」

daikok4.jpg

失礼しました確かに、三重県鈴鹿市ご出身でした

大黒屋光太夫は、江戸時代後期の伊勢国白子(現三重県鈴鹿市)の港を拠点とした回船(運送船)の船頭でした。

天明2年(1782年)、嵐のため江戸へ向かう回船が漂流し、アリューシャン列島(当時ロシア領)のアムチトカ島に漂着。光太夫は、ロシア帝国の帝都サンクトペテルブルクで女帝エカチェリーナ2世に謁見して帰国を願い出て、漂流から約9年半後の寛政4年(1792年)に根室港入りして帰国しました。

当時の幕府老中・松平定信は、光太夫を利用してロシアとの交渉を目論みましたが定信自身が失脚し、その後は江戸で屋敷を与えられ、数少ない異国見聞者として桂川甫周(築地在住)や大槻玄沢ら蘭学者と交流し、蘭学の発展に寄与しました。

光太夫は、寛政7年(1795年)には大槻玄沢が実施したオランダ正月を祝う会(新元会)に招待されており、桂川甫周を始めとして多くの知識人たちとも交際を持っていたそうです。

下の絵は、大槻玄沢の私塾、芝蘭堂での新元会の様子を描いたものです。(芝蘭堂新元会図(部分)、市川岳山画)

daikok5.jpg

赤枠の人物が光太夫だと言われています

芝蘭堂は、この時期京橋水谷町にあり、光太夫自身も中央区との関わりがあったということですね

てなことを考えながら、「松阪牛チップス」も「光太夫あられ」もおいしくいただきました

daikok3.JPG

 

 

パネル展「延遼館の時代~明治ニッポンおもてなし事始め~」

[サム] 2015年5月 3日 09:00

  R0033346LLS.JPG   R0033324LLS.JPG

 

R0033351CCRS.JPG 5月1日(金)~8日(金)(7日は休室)、都庁南展望室で、東京都公文書館パネル展「延遼館の時代~明治ニッポンおもてなし事始め~」が開催中。

2020年東京オリンピック・パラリンピック大会の開催に向けて、海外からのお客様をおもてなしする施設として、浜離宮恩賜庭園に、近代日本最初の迎賓施設であった「延遼館」の復元が予定されていますが、これを機に、東京都公文書館では、改めて、所蔵資料に加え関係機関の資料調査を開始し、これまで解明の進んでいなかった延遼館の歴史に光を当てる作業を取り進め、その中間報告として、今回のパネル展開催に至った由。

 <展示構成>

 Ⅰ 浜御殿と幕末の海軍施設「石室」

 Ⅱ 明治日本の外国貴賓「おもてなし」

 Ⅲ 西欧式「晩餐・夜会」で「おもてなし」

 Ⅳ 延遼館 外務省から宮内省へ

 

慶応2年(1866)、浜御殿が幕府海軍の管轄とされ、翌年、海軍庁舎・教習施設として「石室」と呼ばれる木骨石造の建物が建造。明治2年(1869)イギリス王子エジンバラ公を国賓として迎えるに当たり、急遽「石室」に営繕を加え、ここに延遼館の名が付けられた近代日本最初の迎賓施設が誕生。明治3年(1870)、旧浜御殿一円宮内省の所轄となりますが、延遼館のみ外務省が所轄。明治16年(1883)鹿鳴館が落成し、外務省主催行事の表舞台の地位は譲ったものの、明治17年(1884)、初めての天覧相撲が開催され、明治以降停滞傾向にあった相撲界にとって、起死回生の転機になったと語り継がれているようです。同年宮内省所轄に移行。明治23年に取り壊しに至るまで、外交上の接遇の主要舞台として、あるいは政府要人らが催す会議や祝宴、イベントの会場として幅広く活用されてきた延遼館の姿が浮き彫りにされています。

国指定特別名勝及び特別史跡の浜離宮恩賜庭園内に、この歴史的建造物が復元される日が待たれます。

 

  04tenji_kouen_enryokanLSR.jpg   thCLSR.jpg