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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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◆ 築地市場内 の 魚河岸水神社

[隅田の花火] 2015年6月 9日 14:00

 

築地市場の場内にある水神さま(昨年暮れの風景)。

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ここ築地市場内には鳥居とほこらのある遥拝(ようはい)所があります。ここでおまいりすることで、北の遠くの方向の神田明神境内にある「水神社」本殿を拝むことができるようになっている、そういう場所です。

 

「水神社」は魚河岸(魚市場)の歴史とともに歩んできた神様で、その始まりは江戸の初めにさかのぼります。

徳川家康公により大阪から江戸へ引き連れてこられた漁師で日本橋魚河岸の礎を築いた森孫右衛門一族が「弥都波能売命(みづはのめのみこと)」を祀った、「大市場交易神(おおいちばこうえきしん)」がその始まりとされ、その後、神田明神内に社殿が設けられ今に至っています。

 

魚河岸は関東大震災のあと、昭和10年に日本橋から今の築地市場の地に移りましたが、その時できたのがこの遥拝所というわけです。

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その後80年間、水神社は魚河岸で働く方々を見守ってきました。

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築地場内はあわただしい場所ですが、この遥拝所は比較的落ち着ける場所。いつも綺麗にされており季節の花も咲いたりして心を和ませてくれます。

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今は紫陽花がとても綺麗ですね。

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しかし来年、魚河岸が豊洲新市場に移転することになりました。ということはこの遥拝所も魚河岸と一緒に移転することになるのはごく自然の流れです。

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同じ敷地内にある「旗山」と刻まれた石碑は、かつてここ築地が日本海軍の地であったことの由来を記すものになりますので、ここ築地の地に残ることになるのでしょうが・・・

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しかし魚市場の「場外」はここ築地に残ります。遥拝所の裏の場外では、市場移転前に先行して開業する予定の施設「築地新市場」の建設が行われており、築地の新しい歴史がまた始まろうとしています。

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そんな水神社のお話として、今まさに注目なのは、場外にある「波除神社」の『つきじ獅子祭』。このお祭りで水神社の大神輿が担がれます。

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元々、水神社のお祭りもありますが、大々的に水神社の神輿が担がれたのは魚河岸が築地に移ってきてから数回しかないようで、市場祭りを除き築地町内を渡御するのは25年ぶりとのこと。

 

水神社の神輿が担がれること自体が珍しいうえに、「波除神社」の大神輿との連合渡御、いわゆるコラボは史上初。波除神社の大神輿が担がれるつきじ獅子祭の本祭は3年に1回なので、このコラボは「最初で最後」とか「歴史的瞬間」とか言われるゆえんです。

 

今後、水神社の神輿が築地町内で担がれるのはなかなか難しいと思われ、今回は水神社の「築地さよなら渡御」的性格もあると思います。

 

「波除神社」の『つきじ獅子祭』。

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神輿が町内を巡るのは6月13日土曜日の渡御祭になります。

http://www.namiyoke.or.jp/shishimaturitokusetsu.html

ぜひ皆様の目でご覧になっていただけたらと思います。

 

 

成瀬己喜男監督映画「女が階段を上がるとき」

[CAM] 2015年6月 7日 18:00

 「女が階段を上る時」は昭和35年公開の作品です。我が国が戦後復興から高度成長の時代へと変貌し始めたころで、その頃、「バー」が全盛期を迎えようとしていました。題名にある高峰秀子演じる「女」は、夫を交通事故で亡くした30歳の未亡人で、銀座のバーで雇われマダムをしているという設定です。

 

 表通りから少し裏に入ったバー街が主たる舞台ですから、銀座の表通りなどの情景はあまり出てきませんが、高峰秀子と仲代達矢が三吉橋を渡るシーンがあります。三吉橋の向こうに見える橋は新富橋でしょうか。橋の下にはまだ築地川が流れています。

 

    この高峰秀子演じるヒロインの実家が佃島という設定です。体調を崩した「女」が実家で静養するという場面で、佃の家並み、佃の渡し舟風景、住吉神社の鳥居が登場します。その佃島の実家を見舞いに訪れたバー経営者細川ちか子は、「佃島なんてはじめて来たけど、このへんはなんだか昔の東京の名残りみたいなものがあるわね」と言っています。

 

 佃の渡しは、成瀬己喜男監督の「夜ごとの夢」(昭和8年)にも出てきます(You Tubeで見ることができます)。子供を抱えてカフェーで働くヒロイン栗島すみ子は佃島に住んでいるという設定で、戦前の佃島の情景を見ることができます。

 

    豊田四郎監督の「如何なる星の下に」(昭和37年)では、廃止直前の佃の渡し舟や埋立直前の築地川が頻繁に登場するそうですが、私は見ておりません。DVD化はされていないはずです。 著作権が消滅してYou Tubeで公開されていない限り、古い日本映画を見ることは難しいですね。

 

 

「幻の万国博覧会」

[CAM] 2015年6月 6日 09:00

 

 平成2741日から630日まで、「タイムドーム明石」で、「幻の万国博覧会」という記録映画が上映されています。

 

 昭和151940)年、月島4号埋立地(現在の中央区晴海)をメイン会場として日本初の万博(紀元2600年記念日本万国博覧会)が予定されていました。開催期間は315日~831日の170日間、想定観客数4500万人という大プロジェクトでした。

 

 しかし、この万博は戦争激化で開催直前に無期延期となったのです。

 

 本映画では、この行事に合わせて作られた勝鬨橋の建造中のようす、東京市庁舎を月島へ移転する計画なども紹介されています。築地ホテル館、銀座煉瓦街の建設なども描かれ、単なる"幻の万博"の資料紹介にとどまらず、幕末から明治・大正・昭和、そして今日にまで至る日本の近現代史を概観したものとなっています。

 

 この"幻の万博"については、サイデンステッカーさんが次のように簡明に述べています(『立ち上がる東京』:原書1990年)。

 

>博覧会の計画は、会場に予定していた隅田川の河口や横浜の海岸で地鎮祭を行うところまで進んでいたし、すでに入場券さえ売り出され、売れ行きも好調だった。隅田川のいちばん下流に架かる勝鬨橋が作られたのも、実は博覧会の準備の一環だったのである。使節団が海外に派遣され、宣伝も始めてもいた。ところが、オリンピックを辞退したのと同じ昭和13年、政府は博覧会も無期延期する方針を発表する。そこで東京市も、もっと安あがりな紀元2600年行事に切り替えた。市役所を、博覧会の会場に予定していた月島に移転する話も出たが、利権がからんでいるという報道があって沙汰やみになってしまった。(95

 

 

 

◆中央区 ここに歴史あり(61) 楓川宝橋公園の地蔵尊

[巻渕彰/写楽さい] 2015年6月 5日 09:00

八丁堀と京橋の間の楓川跡に陸上橋の宝橋が架かっている。橋上は楓川宝橋公園で、西詰北側に「宝地蔵尊」の小さな祠がある。楓川は江戸前島の東端とされ、西側は江戸初期の本材木町であった。宝橋は関東大震災後の架橋である。

 

0913_61_150601takarajizo.jpgこの宝地蔵尊の由来はなんであろうか。地蔵像台座にわずかに刻文がみえる。昭和29年(1954)夏の午後6時55分、当時8歳の児童が楓川に落ちて亡くなった、とある。愛しい子どもを供養するお地蔵様だった。

 

この楓川は江戸初期から物流を担った重要な堀割で、八丁堀舟入から日本橋への舟運路であった。50年前の東京五輪の際に埋め立てられ、川底が首都高速1号線に変わった。

 

かつて宝橋の欄干には、廓門橋(後の呉服橋)から撤去された擬宝珠が赤坂の弁慶橋とともに取り付けられたという。橋の西側の町名は現在京橋であるが、住居表示変更前は「宝町」であった。都営地下鉄浅草線に「宝町駅」にその名が残る。

 

60年前、子どもの転落事故を追悼する宝地蔵尊は、当時の地域環境を語るとともに、子どもたちが元気に遊んでいた情景が思い起こされる。二度と悲惨な事故が起こらないことを願って見守り、祠に寄り添うビワは実をつけ始めてきた。@巻渕彰

 

 

 

日本橋地区の地盤沈下と再興

[CAM] 2015年6月 4日 18:00

 

 近年の「日本橋」について、矢田区長は「日本橋から大企業の本社機能の転出が始まったのは昭和50年代前半のことである。流通機構の変化が叫ばれ、日本橋に集積していたさまざまな問屋に陰りが感じられるようになったのは50年代後半である。・・・・そして平成10年以降には、バブル経済の崩壊や金融再編の流れの中で日本銀行の周辺から地方銀行など金融機関が消えていった。・・・・・・このような変遷と・・・変化によって、いつのころか誰言うともなく『日本橋の地盤沈下』がささやかれるようになったのである」(「日本橋ルネッサンス」『日本橋トポグラフィ事典』2007年)と述べておられる。

 

 「日本橋は今日でも東京の、さらには日本全体の金融の中心と呼べるかもしれない。日本銀行も証券取引所も日本橋にある。けれども大企業は、ほとんど日本橋からほかの土地に出ていった。三井銀行や第一国立銀行も...本店はもう日本橋にはない」(サイデンステッカー『東京下町山の手』ちくま学芸文庫:261頁)

 

 

 「東京一極集中」の抗しがたい流れの中で、経済を含むすべての面で「地盤沈下」を余儀なくされ、本社機構の「東京への流出」が続いている「大阪市(中央区)」の出身者としては、上記のような状況には心から同憂の感を持ちます(なお、この間の『大阪市解体論』は、否決されてよかった、と私は考えています)。現在では、大手銀行、金融機関で大阪に本店を置く社は絶無になった。上記の矢田区長の文章など、「日本橋」の部分を「大阪市(中央区)」に入れ替えて、年代を少し変えると、そのまま通用します。

 

その東京日本橋地区ですが、最近はコレド日本橋、日本橋三井タワー等もできて、再興への動きが著しいですね。最大の象徴的事業は、日本橋をまたぎ、景観を破壊している高速道路の地中化でしょうが、なんとか実現させたいものです。

 

 

 

築地居留地研究会 「第5回:築地あじさい祭り」の受講報告

[銀造] 2015年6月 4日 14:00

 NPO法人築地居留地研究会は主催された、「第5回:築地あじさい祭り」が

平成27年5月23日に開催され、その講義を拝聴してきました。

講師は関口忠司氏で、日本学術会議・日本歴史学会・洋学史学会会員の方との触書ですが、

テーマが「わが先祖 ハインリッヒ.von.シーボルトと築地居留地・延遼館・新富座」とあります。

 

講義が始まる前からマイクを握って司会をなさっている方が、てっきり本日の講師かと誤解したり、

本日のテーマの「わが先祖・・・」というのを改めて確認しながら、講義を注意深く拝聴しました。

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拝聴した講義のメモをそのまま報告するよりも、セミナーの後で頒布して頂いた

小冊子、「WHO IS HEINRICH SIEBOLD 」、

副題:明治初期の日本に降り立った一人の青年がいた・・・。彼の名はハインリッヒ・シーボルト

と併せて報告します。

 

1)フィリップ von.シーボルト(敬称略。以下、フィリップ)が、日本に初め赴任したとき、

 長崎で出会った日本人女性「おたきさん」との間に、娘イネが生まれ、後に築地産院を開院したことは知っていました。

2)シーボルトの本拠地、ライン川河畔のボッパルト市で、シーボルトとその妻ヘレーネ・フォン・ガーゲルンの間には二人の男児があり、

 長男の名をアレキサンデル、次男の名をハインリッヒといった。

3)次男のハインリッヒは、父の愛した日本への興味を募らせ、明治期の日本に墺洪帝国(オーストリア・ハンガリー)在日代理公使として駐在し、築地居留地に居住しました。

4)兄のアレキサンドルは、在日英国公使館館員となったのち、徳川昭武公の遣欧使節団通訳としてドイツに帰国。明治期の日本政府の外交顧問として活躍しました。

 ご兄弟の功績は、日奥修好通商航海条約、日本初のウイーン万博への参加、

 延遼館の建設提案、日本博愛社(現、赤十字)設立提案、不平等条約の改正に尽力、明治憲法の制定に助言などがあります。

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5)本日の講師の関口忠司氏は、上記3)のハインリッヒが、日本に滞在中に好きになった日本橋の武蔵屋の娘「はな」さんと結婚。

 花さんが、お婆さんということで、ハインリッヒの孫、フィリップのひ孫さんにあたるとの事等が説明され、日本での活躍、いろんな方々との出会い、

 黎明期の明治維新で外交音痴の政府関係者などを親しく指導したとのお話が映像を使い、分かりやすく解説頂きました。

  シーボルト一族と日本との関わりを教えて頂いた、大変有意義なお話でした。

帰り際に購入した小冊子、「WHO IS HEINRICH SIEBOLD 」、冬青者発行、清水正雄氏著の「東京築地居留地百話」は

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今後の街歩きを楽しくしてくれそうです。 

 

なお、今回セミナーを主催して頂いた「NPO法人 築地居留地研究会」では、

新会員を募集中とのチラシを頂きました。

詳しくは、電話:03-3551-7595、HPは、中央区社会貢献活動情報サイト http://chuo.genki365.net/

活動紹介は、http://www.tsukiji-kyoryuchi.com     でご覧下さい。