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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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中央区立日本橋図書館 地域の資料・古地図

[GPP] 2017年5月29日 14:00

01.JPG中央区立日本橋図書館が先月改修工事を全て終えたので、早速行ってみました
アクセス
 http://www.library.city.chuo.tokyo.jp/libguide?16&pid=110

 

日本橋図書館にも、地域の資料古地図がありました
アクセス
 http://www.library.city.chuo.tokyo.jp/images/upload/an-naizu2201738165317.png
 (7階  調べものコーナー、および、6階への階段付近の棚)

 

付近にお住まいの方、お勤めの方は、ご利用してはいかがでしょうか

 

 

「霊岸島検潮所・量水標跡」と「日本水準原点」

[O'age] 2017年5月28日 09:00

「霊岸島検潮所・量水標跡」(中央区新川2-32-1号先)
明治6年(1873)に霊岸島検潮所が設置され、観測開始され、ここの平均潮位を東京湾の平均潮位と定義し(1884年)、標高ゼロの基準として使用した。近くに一等水準点「交無号」を設置し、その後、明治24年、千代田区永田町に創設された「日本水準原点」の標高は、交無号からの測量で決定された。現在では基準となる検潮所は相模湾の油壷検潮所に変わっているが、日本における近代測量技術史上、重要な史跡である。

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「日本水準原点」(千代田区)の見学
6月3日は測量の日(測量法が昭和24年6月3日に公布)に関連するイベントの一つ、日本水準原点・一般公開に行ってきました。普段は扉が閉まり中を見ることは出来ませんが、初めて見てきました。大変興味深いイベント・レクチャーでした。

 

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明治初期にはイギリス式の水準点を設置し、不の文字に似た几号(きごう)を不朽物に刻んで、高低の測量を行った。ヨーロッパでは石畳が多く路面に穴を掘って水準点を設けるのではなく壁面に記号を刻み、水平のライン(の溝)に器具をセットして使ったとのお話を伺いました。その後、日本では測量方法が変わり、几号水準点は使われなくなり、以後は災害や戦災あるいは埋没などで、残っている不の文字形の几号は少なくなっているようです。中央区では「一石橋迷子しらせ石標」の下部に水準几号が鮮明に現存しています。(水準点としての役目は終えています)

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尚、関連の「日本経緯度原点」は港区に有ります。こちらも重要な原点です。

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聖路加国際病院・トイスラー記念館とアメリカ公使館跡の記念碑

[みのり] 2017年5月26日 16:00

こんにちは、みのりです

 

聖路加国際病院トイスラー記念館とアメリカ公使館跡に行ってきました。

天気のいい気分のよい日でした。

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【トイスラー記念館】区民有形文化財(場所:聖路加国際病院前)

聖路加創始者 R.B.トイスラー医師(1876-1934)

トイスラー記念館は、聖路加国際病院の宣教師館として昭和8年(1933)に建設されました。鉄筋コンクート造の二階建てて、外観には柱や梁などの骨組みを表現した西洋風の建築意匠が見られます。私も住みたくなる様な素敵な家でした。

トイスラーの記念碑には、トイスラー氏の彫像があります。

 

【アメリカ公使館跡の記念碑】区民有形文化財(場所:トイスラー記念館前)

私が行ったのは聖路加国際病院トイスラー記念館前の「アメリカ公使館後の記念碑」の方です。

アメリカ公使館は、明治8年(1875)に開設され、明治23年(1890)までKのちにありました。木造二階建ての公使館は、クリーム色のペンキが塗られた洋館だったといわれます。洋風建築が立ち並び、教会の塔がそびえる異国情緒あふれる街の様子は、関東大震災ですっかり失われました。

トイスラー記念館前の記念碑は、伊豆半島の海岸で切り出された石材で、盾形の星条旗とアメリカの国鳥である白頭鷲(盾形の星条旗のなかの13の星と白頭鷲の周りの13の星は、当時のアメリカの13の州をあらわします)、そして五陵の星が彫刻されています。

 

<参照>

『歩いてわかる中央区ものしり百科』監修 中央区観光検定委員会

聖路加国際病院トイスラー記念館の記念碑

アメリカ公使館跡の記念碑説明の石碑

 

 

「点字制定の地」記念碑

[ジミニー☆クリケット] 2017年5月24日 16:00

築地市場前の市場橋交差点の一角に、観光バスの駐車場があり、連日、築地市場の観光客でにぎわっています

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その奥にこじんまりとした「市場橋公園」があり、その植栽の中に、「東京盲唖学校発祥の地、日本点字制定の地」と記された記念碑があります(下の地図、赤〇の場所)

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これは、筑波大学附属視覚特別支援学校(盲学校)同聴覚特別支援学校(聾学校)の前身が、1880(明治13)年、この地に楽善会訓盲院として開校したことを記念したものです

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訓盲院はまもなく訓盲唖院となり、文部省の直轄学校となって、1887(明治20)年には東京盲唖学校と改称されたそうです

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この東京盲唖学校石川倉次氏により、1890(明治23)年に、6点式点字が考案され、これが「日本点字」として制定されて、日本国内で広く使用されるようになりました

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石碑は、視覚障害者にもわかりやすく、触って快い大きさと形にこだわって創られているそうです

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石碑にはめ込まれたブロンズには、学校の形レリーフになっていて、点字墨字年譜が書かれています

築地・明石町エリアは、海軍関連ミッションスクール発祥の地として有名ですが、こういう記念碑にも立ち寄っていただきたいですね

 

 

大火と長崎屋

[yaz] 2017年5月20日 14:00

江戸時代には1798回の火事があり、そのうち49回は大火であったといわれています。

その中で多大な被害が出た火事としては、

1657年の明暦の大火(振袖火事)→ この火事を契機に、人形町周辺にあった吉原は浅草方面に移転を余儀なくされました。

天和(八百屋お七の火事)の大火(1683年)

宝暦の大火(1760年)

明和の大火(行人坂の火事)(1772年)

文化大火(1806年)・文政の大火(1829年)などがあります。

 

火事の原因は、調理や照明用の火の不始末に起因する失火の他に、放火がありました。特に江戸末期になると幕府の権威失墜のために政情不安となり、放火が増えました。

 

長崎屋も多くの被害を受け、火事の度に建て直しを余儀なくされました。明暦の大火を経験したカピタン ザハリアス・ワーヘナールは、正月15日に将軍家綱に謁見し18日には井上筑後守誠重を訪問している最中に、本郷の本妙寺本堂からの出火を告げられました。急遽長崎屋に戻ったワーヘナールは、激しい北風にあおられた火の粉が飛散していた様子をオランダ館の屋上から見たという話です。江戸火事図巻に明暦の大火の浮世絵が残っていますので、以下で紹介します。

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火は長崎屋にも迫ってきたので、荷物を蔵に入れ避難しました。一同が避難してから一時間ほどで焼け落ちたといわれます。翌19日、火は前日より猛威をふるい、正午ごろには江戸城にも火が入りました。

 

この大火により、江戸の町はほとんど壊滅し、市街の60%以上が焼け野原となりました。このような大火により、長崎屋も被害を受けました。1803年当時の丙寅の大火時の「長崎オランダ商館日記」によると、長崎屋再建の費用としてオランダ側は当時貴重であった砂糖を贈与し、再建費用としたようです。このようにオランダ側の補助を受け且つ幕府の助成を受けながらオランダ館は運営していましたが、過大な借財の負担に耐えられず、幕末にはこの土地を近隣の松沢孫八(江戸一の油問屋)に譲り中央通り角の間口5間程度の唐人参座だけを残し、移転しました。これに伴い200年余続いたオランダ館もなくなり、江戸参府もなくなりました。

 

11代長崎源右衛門は、蔓延2年(1861年)に鉄砲洲船松町二丁目の河岸地を幕府より拝領し、江戸長崎会所御用達に任ぜられ、貿易商として再起を図った。しかしビジネスは順調には推移しませんでした。

 

 

 

◆ 信玄公から家康公へ

[隅田の花火] 2017年5月19日 09:00

日本橋の三越前駅のすぐ近くにある「貨幣博物館」。先日、初めて行って参りました。日本銀行本店の隣にあるビルにあって、無料で見学することができます。

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今の日本銀行本店の建物がある場所は、かつて江戸時代に「金座」という、金の貨幣を作る施設があった場所です。

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また、今の中央区「銀座」の名前は江戸時代に銀貨を作る「銀座役所」があったことに由来します。中央区には、こういった江戸時代の貨幣のゆかりの場所があります。

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(銀座中央通り・銀座2丁目)

 

貨幣博物館に行ってみようと思った理由というのが、4月の山梨県に花見に行った際に下部温泉の「湯之奥金山博物館」に立ち寄り、戦国時代の頃に甲斐の国で流通した「甲州金」という貨幣を知って、興味をもったからです。

 

確か、バブルの頃にやっていた大河ドラマ「武田信玄」を見て以来、何かと信玄公や山梨県が好きな私。「甲州金」については少し難しかったのですが、せっかくなのでまとめてみることにしました。

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(下部温泉にある湯之奥金山博物館あたり) 

 

 

どちらの博物館に行ってみてもわかるのですが、江戸時代の貨幣制度の歴史のはじめには、まず、その前の戦国時代に始まったとされる『甲州金』の説明が出てきます。

 

今の山梨県、当時の甲斐の国は信玄公でおなじみの武田家の領国でしたが、技術の進歩で金がたくさん取れるようになっていた時代で、当初は碁石金というような、領国内で通用する金の粒々の塊の甲州金が作られていました。

 

取引の際に金の重さを重要視していた戦国時代。それは『秤量貨幣』と分類される貨幣でしたが、重さががまちまちだったため、その都度重さを量る必要がありました。

 

 

そこで、重さを量らなくても良いように重さが統一された貨幣に甲州金は変化していきます。それは「1両金・1分金・1朱金・糸目金」といったような貨幣。

 

 1両金(15g)×1枚

=1分金(3.75g)×4枚

=1朱金(0.9375g)×16枚

=糸目金(0.234g)×64枚

(参考資料:湯之奥金山博物館展示解説シート「甲州金」)

と、

金銭の単位を『1両=4分=16朱=64糸目』の4進法としたことにより、枚数を数えるだけでその価値がわかり、また貨幣同士の交換ができるようになりました。

 

これは、価値が重さで決まる「秤量貨幣」の側面があるものの、貨幣の表面に額面が表示された斬新的な金貨で、『計数貨幣』に分類されるものです。

 

 

また、戦国時代は金の「重さ」が重要視されたということですので、糸目金のような小さい貨幣を作る際にも、その重さを量る精密な秤(はかり)が必要でした。

そこで武田家は、秤を製造販売する独占権を「守随家」に与え、精密な秤を作らせました。こうして甲斐の国では秤の技術も進歩していきます。

 

 

 
その後、天下人・徳川家康公の江戸幕府の時代となり、全国の統一的な貨幣制度を整備することになります。

金に関しては甲州金の4進法の単位を採用、『1両=4分=16朱』の貨幣制度としました。銀に関しては「秤量貨幣」の制度が残ったのですが、金については優れた甲州金の「計数貨幣」の考え方が取り入れられたわけです。

 

 

また秤に関しては、徳川家は守随家を擁護し、江戸幕府の「江戸秤座」を守随家に任せました。東国33国の共通の規格の秤としてこの甲斐の優れた秤の技術が採用されたのです。

 

その秤座があったとされる場所は、中央区にあり、今はビルの合間にひっそりと石碑が建っています。

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(日本橋3丁目7・日本橋髙島屋から少し京橋寄り)

 

 

こういったように徳川政権には、武田家の内政の優れた部分が引き継がれているところがあります。

 

甲斐の武田家というと、風林火山の旗印や、騎馬隊・赤備えの鎧の部隊など、精鋭武士軍団のイメージがあります。しかしこの甲州金の制度や、洪水対策で造った信玄堤などからもわかるように、国を治める上で優れた政治を行った領主だったようです。

 

大河ドラマ「武田信玄」では、ドラマ終盤で、信玄公が家康公を追い詰めて打ち破った「三方ヶ原の戦い」のシーンが描かれました。ですが一番印象的だったのは、家康公が戦いに敗れたあと、自らの失敗を反省し変わろうとしたことを、このドラマが紹介していたことです。

 

時は過ぎ、武田家は織田信長公に滅ぼされ、そして本能寺の変の後に、甲斐の国は家康公が治めるところとなりました。戦いに敗れたことのある思い出したくもない相手だったと思いますが、家康公は武田家の旧臣を尊敬の念をもって招き入れ、その武田家のやり方を参考にしたといいます。

 

過去にとらわれず、あえて相手の優れたところを前向きに吸収しようとした家康公。そういうところが、家康公から学ぶべきところ、見習うべきところのひとつだと感じています。