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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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白椿 控え目な美しさ

[あすなろ] 2018年12月16日 09:00

築地場外市場にある圓正寺の門前で

白椿が咲いています。白侘助でしょうか。

 白侘助.jpg

利休七選花に数えられ、茶の湯の席に用いられています。

霜に当たると花にしみができるので、

蕾の枝を切って室内で咲かせるようにします。

侘助の名のごとく他の椿に比べて、美しさを主張せず

半開の花姿に風情を感じさせますね。

 円正寺.jpg

気取らない控えめな美しさ、花言葉も「控え目」です。

市場の喧騒の中で、静かな雰囲気のある一角です。

◆天護山 圓正寺
 東京都中央区築地4-12-9

 

 

住吉神社晴海分社 東京鰹節センター

[銀造] 2018年12月15日 14:00

晴海三丁目の交差点を築島署方面に向かって直ぐの角を右に入ると、住吉神社晴海分社が祀られています。

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お参りして

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石碑に書かれた社説によると、次の様に書かれてあります。

 

『此の社は安永時代より、鰹節問屋業者一同が佃島住吉神社のご祭神を守護神として祭祀し大漁満足海上輸送安全並びに商売繁盛を祈願したことに始まり将来長く業界の伝統として継承された。 明治二十年東京鰹節問屋組合が設立されるや組合の守護神として更にその信仰を深めたが昭和十三年九月、日本橋小舟町に株式会社東京鰹節荷捌所新築の際、屋上に住吉神社御分社を創建し昭和四十三年三月組合発展のため晴海に移転するに当たり御分社も遷し祀った。昭和四十六年六月組合新築に当たりここを神域と定め新に社殿を築き伝統の業界発展を祈願すると共に晴海地区の鎮護神として長く奉斎し御守護を祈るものである。』

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 なお、氏子は神社に隣接した建物の東京鰹節センターの企業様とのことです。

お参りしている間も、鰹節の良い香りが漂ってきました。

 

 

◆ 京橋から光の歩行者天国へ

[隅田の花火] 2018年12月13日 14:00

こちらのビルが建っている場所は、何処だか分かりますでしょうか。

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今日は日曜日なので、銀座の歩行者天国に行ってみようかと、東京駅の八重洲口から歩いて来ました。ここはその途中、中央通りの京橋二丁目です。5分ぐらい歩きました。夕暮れの頃に銀座通りに入りたいのですが、まだ時間があるので京橋の街を歩き回ってみることにしました。

 

右が京橋トラストタワー、左が京橋エドグランという建物です。左下が明治屋の建物なので、分かった方も多いのではないでしょうか。

 

最近、急激に変わった京橋の街並み。特にこの中央通り・京橋二丁目の東京駅側は、通りぎわに面する4つのビルの高さが統一され、綺麗な街並みになったと思います。でも、その街の変わるスピードに自分自身が追い付けていない感じなので、いろいろと調べてみました。 

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この4つの建物は、右が「京橋トラストタワー」、真ん中2つは、歴史ある明治屋京橋ビルが取り込まれた「京橋エドグラン」、一番左は京橋の交差点に建つ「第一生命ビルディング」です。 

 

特に真ん中の京橋エドグランは2016年に開業、商業施設も多く入っていて、イベントも行われることがあるようなのですが、明治屋という歴史的な建物があるので、気分的にくつろぎたくなってくる施設です。

 

地階には、『中央区観光情報センター』もあるので、訪れた際には中を覗いてみることをオススメします。面白そうなスポットが見つけられるかもしれませんし、新な中央区の魅力を知ることもできるかもしれません。

 

右隣の京橋トラストタワーは、2014年に竣工、ホテルも入っています。歴史的なお話しをすると、隣の明治屋のビルが昭和8年竣工ですが、その時既にこの京橋トラストタワーの場所には「千代田生命」の大規模ビルが建っていました。

 

因みに、この京橋二丁目の中央通り沿いで一番早く建てられた大規模ビルは、大正時代の中期、今の第一生命ビルディングの場所に建てられた「星製薬」のビルだったようです。

 

中央通りを銀座に向かって歩いていくと、鍛冶橋通りと交差する、京橋の交差点に辿り着きます。

 

第一生命ビルディングを背にして交差点に立つと、目の前に立ちはだかるビルが、第一生命が所有する「相互館110タワー」です。110は「いちいちまる」と読みます。建てられた2012年が第一生命の110周年であることから名付けられましたが、次の110年という、世紀を超える思いも込められているのだそうです。

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56m程の高さですが、交差点に建っているせいなのか、とても威厳を感じさせる建物です。

 

この場所には大正時代、初代の「第一相互館」が建っていました。東京駅の駅舎で有名な辰野金吾の設計です。今の相互館110タワーは、その第一相互館のイメージを彷彿させるデザインで、3代目の建物となっています。

 

このタワーのウィンドウには、初代第一相互館の模型と柱の一部分が展示されていますので、どういうビルだったのかを知りたい時にはご覧になってみるのが良いかと思います。

 

そのタワービルの向かいに建つ建物が、「東京スクエアガーデン」です。

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敷地面積が結構広くて、壁面が中央通りから離れているので、贅沢でゆとりの感じられるビルになっています。緑が、これでもか!というくらいモリモリとしているので、そう感じられるのかもしれません。

 

このビルは2012年に建てられましたが、その前は京橋三丁目ビル、蛇の目ミシン工業ビル、片倉ビルなどが建っていた場所でした。頭2つのビルはそれぞれ村野藤吾、前川國男の設計だったというのも驚きなのですが、もう1つの片倉ビルは大正時代の意匠を引き継ぐ、特別な建物だったようです。 

 

今、この東京スクエアガーデンの鍛冶橋通り沿いには、この片倉ビルの立派なメダリオンが飾られています。このメダリオンの展示の裏には、片倉ビルの歴史を知ることのできる説明もあり、このメダリオンと下の模様の入った石材が建物のどの部分にあったかも分かりますので、こちらもご覧になってみると良いかと思います。

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さて、寒くなってきたと思ったら、夕方4時も近づいてきました。薄暗くなってきたのでそろそろ京橋を後にします。これで京橋の街ともサヨナラとなりますが、後日に夜景を見に行ってみましたので、ご覧になりたい方は京橋の写真をいくつかクリックしてみてください。

 

さあ、銀座通りに入ってみましょう。

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銀座通りの歩行者天国の時間帯を、みなさまご存知でしょうか。

   ◎実施日時:土曜、日曜、休日

     4~9月:正午から午後6時まで

    10~3月:正午から午後5時まで

冬は午後5時迄なので、あと1時間ほどで終わってしまいますね。

 

今は1年の中でいちばん日が短い時季です。なのでこれからの1時間は、暗くなっていく銀座の歩行者天国を堪能できる、1年の中でも限られた時間なのです。クリスマスの雰囲気も相まって、街がとても綺麗に変化していく時間帯です。

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銀座二丁目の交差点で向かい合う、ブルガリとカルティエの入っているビルです。元々、建物自体が美しい銀座通り。窓や街路のあかりが光りはじめるこの時間帯は、建物の中も映し出されて、建物がとても綺麗に感じられます。

 

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せっかくの歩行者天国ですので、1年の中の大切な1時間を、道の真ん中を歩いて堪能しましょう。銀座4丁目の交差点を越えて、道の真ん中から写してみました。歩行者天国でなければ、こういう写真はなかなか撮れません。左側に見えるのが銀座シックスですね。

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ここで、振り返ってみます。やっぱり銀座4丁目の交差点は雰囲気があって良いです。交差点の4つの建物がそれぞれの個性を主張しているので、いろいろ撮って楽しんでみてください。

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いかがだったでしょう。今年もクリスマスイブは休日ですので、銀座通りは歩行者天国。ぜひ道の真ん中で、光溢れる銀座の街に酔いしれてみてください。

 

半年かかって中央区を一周して、また銀座4丁目の交差点まで戻ってきました。もう少し上手く書きたかったと思いますが、結構楽しめた中央区でした。

 

 

 

Discover Chuo City : カトリック築地教会の敷地に住んだ億万長者

[Hanes] 2018年12月11日 14:00


こんにちは。新人特派員のHanes(ハネス)です
もし、「カトリック築地教会の敷地に億万長者となった人物が住んでいたことがある」と言ったら、皆さんは信じますか?
私は初めてこの話を聞いた時、手放しで信じることができませんでした

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その人物は信徒ではなく、なおかつ関東大震災前の話なので、
教会にその人物についての資料は残っておらず、「やはりそんな事実はなかったのか...」と思いかけたその時、
茨城県のとある資料館にて、偶然にもそれが事実だったと知ることになりました。
今回はそのような嘘のような本当の話を通じて、
これまでほとんど知られてこなかった築地の歴史のワンシーンをご紹介します

時は戦後。日本には「戦後の三長者」と呼ばれる3人の億万長者がいました。
元力士でホテル・ニューオータニ創業者である大谷米太郎
大阪造船所社長である南俊二
そして、今回の主人公となる炭鉱経営者菊池寛実です。

お隣の港区には、「菊池寛実記念 智美術館」があるので、
彼の名前を聞いたことがある方もいらっしゃるかもしれません

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栃木県の馬頭町出身の彼は、炭鉱で成功していた叔父の山崎藤太郎を頼って上京し、
入船町の運河に面した場所にあった山崎商店にて、隅田川で石炭の荷下ろしをする見習いとなりました。
当時内風呂のある家は少なかったので、一町内にひとつは銭湯があり、
彼も石炭や粉炭の汚れを洗い流しに銭湯に行っていたようです

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(もしかしたら入船湯のことかもしれませんね!)

そんな彼もやがて結婚し、アメリカ大使館やホテルオークラの近くである赤坂霊南坂に住み始めます
そしてその後、築地明石町に引っ越すことになるのです。

「大正十年、一家は霊南坂の家から築地明石町に移った。この家は、昔の居留地のまんなかにあったカトリック教会に隣接する教会付属の建物で、ローマ法王所有の家であった。明治十年以前の建築で、古くはあったがレンガ建ての立派な洋館で、二階を住居とし階下を辰ノ口炭砿の事務所に使った。新興成金の住居にふさわしい、というより身分不相応なくらいの堂々たるものであった。」
立石任夫『菊池寛実伝』(大心塾、1979年)、p. 180.※非売品

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(菊池寛実記念高萩炭礦資料館(茨城県高萩市)にて撮影。)

「不景気のあとの不況の波が押し寄せてきた大正十(一九二一)年、寛実は転居している。新婚生活五年目であった。赤坂霊南坂から、築地明石町へ移転した。新居は新築ではなく、カトリック教会に付属した洋館で、ローマ法王庁所有の家だった。築四十五年というから古いが、赤レンガ建ての洋館で、当時まだめずらしい。どうしてこの家が手に入ったのか。娘の智によれば、ローマ法王庁の大司教座が霊南坂に移ったのにあわせて、寛実が譲り受けたらしい。二つの西洋館のうち、一軒は会社が使用し、もう一軒は住まいになっていた。この明石町は隅田川の河口に近く、川沿いで眺望も悪くない。数十年前まで、川に望んだ料亭など、なかなか風趣があったものだ。もともと、明治初年の、いわゆる築地居留地のあとだけに、大正時代にはまだ、居留地の名残が新東京風景としても知られているところだった。」
早乙女貢『怒涛のごとく:菊池寛実の不屈の生涯』(2008年、原書房)、p. 119.

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(菊池寛実記念高萩炭礦資料館(茨城県高萩市)にて撮影。)

寛実は、関東大震災で家が消失したのを機に引っ越すことになりましたが、
その当時の教会の様子は、以下のように記録されています

「ローマ法皇庁の力も、贅を尽くした西洋建築もこの地震の前には、抗する術もなかった。地震は火災を引き起こし、火は風を呼び、烈風が火災を煽って、東京を焼き尽くしたのだ。(...)余震のつづく三日目には、早くも入船町の焼け跡の敷地に杭を打ち縄張りして、バラックを立てた。(...)寛実はそのバラックで早くも仕事を再開始し、ついで、ふたたび明石町の旧居跡にも、バラックを建てた。ここは敷地が広いので、空地を貯炭場に利用できる。教会が荘厳な雰囲気で蟠踞しているときはとても言い出せなかったことが、震災がもたらした幸いといえようか。教会のあった敷地が石炭置場になるなどと、だれが想像し得ようか。この明石町は隅田川と掘割に囲まれているために、水運に便利なことが石炭の運搬に最適だったのだ。」(早乙女、pp. 124-126)

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(菊池寛実記念高萩炭礦資料館(茨城県高萩市)にて撮影。)

信じられないかもしれませんが、先日同期特派員の湊っ子ちゃんさんもご紹介していた教会敷地内の建物は、
かつて炭鉱事務所として使用され、石炭置場になったこともあるのです
そしてまた、後に億万長者となる菊池寛実の若き日を見届けた場所でもあるのです

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(高萩炭礦の事務所の遺構)

黒いダイヤモンドで日本の発展を支えた男の築地での一時は、
既存の文献にはほとんど残っておらず、忘れられつつあります。
しかし、外国人居留地としての印象の強い築地明石町に、それも教会の敷地に、
そのような人物が住んでいたことは非常に意外で、興味深い話ではないでしょうか?

このように、中央区内には興味深い人物伝がまだまだ眠っています。
今後も石炭を掘るがごとく、人物伝を「採掘」していきたいと思います

 

 

去来 東京府15区の名残り

[あすなろ] 2018年12月11日 09:00

明治11年、皇居のある麹町区を起点として、

時計回りに「の」の字を書くように

麹町、神田、日本橋、京橋、芝、麻布、赤坂、四谷、
牛込、小石川、本郷、下谷、浅草、本所、深川と15区が定められていました。

昭和22年3月15日に日本橋区と京橋区が合併して現在の中央区があります。


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 京橋月島郵便局の局名は、東京府京橋区の名残ですね。

風景印は、『月島西仲通り商店街ともんじゃ焼きのヘラ』

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 <風景印:平成30年8月撮影>

街には大正から昭和の建築がかなり多く残る一方で、雨後の竹の子のように高層ビルが林立する一面もあります。もんじゃの他にも楽しみがたくさんある月島エリアをのんびり散策されてみては

いかがでしょう。不易流行を探してみてください。

◆京橋月島郵便局
 東京都中央区月島4-1-14

◆その他の風景印
中央築地郵便局 ※豊洲へ移転
銀座みゆき通郵便局

 

 

島?嶋?

[wienerhorn] 2018年12月 6日 12:00

松島神社と松嶋神社.jpg「日本橋七福神」のひとつ、松島神社は、日本橋人形町にあり、大国神がまつられています。中央区ものしり百科によれば「創建当時、周辺は入江の小島で、島内に松が生い茂っていたことからこの名がついた」のだそうです。
ところが、鳥居には「松嶋神社」と書かれていて、「島」「嶋」のどちらが正しいの?と思ってしまいます。
「嶋」を使っている資料がないか探したところ、見つかりました!東京都中央区教育委員会「中央区沿革図集(日本橋編)」に、1744(寛保4)年に作成された「寛保沽券図」が掲載されており、「松嶋町」の地名が記されていました。
由来からすれば「島」ですが「嶋」が使われたこともあった、くらいに理解すればよろしいでしょうか。
古地図を見るのは楽しいものですね。