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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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来福 日本橋の招き猫

[あすなろ] 2017年12月30日 16:00


お土産屋さんなどに行くと、いろいろな招き猫
を見かけますね。

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よく見ると、上がっている手(前脚?)が
右手だったり、左手だったり。
それには意味があるようです。

 

右手は、金運を招く。
左手は、人を招く。
両手では、金運と人を招く千客万来の両方に
ご利益があるとされています。

 

そして、上げている手が高いほど遠くの福を招くとか。

三光稲荷.jpg

日本橋には、江戸時代から「失せ猫祈願」として有名な
神社にも、念願叶ってのお礼として招き猫がたくさん
置いてあります。

 

古来から多くの日本人に愛用されてきた招き猫は
海外でも人気が高まっていると聞きます。
戌年になっても健在ですね。

ハンカチ.jpg

 

◆三光稲荷神社
東京都中央区日本橋堀留町2-1-13

 

 

 

蛎殻町公園の 「江戸こまた」Edo komata by Mr.Masayuki Nagare

[銀造] 2017年12月29日 18:00

 蛎殻町公園の一角に、大きな足の形をした彫刻が屹立しています。 

作者は、世界的に有名な彫刻作家、流政之さんです。

作品の名前は、「江戸こまた」で、制作年度は1992年です。

 

この彫刻の存在を知って10年ぐらいになります。 しかし、隣接するTCAT(東京シテイエアーターミナル、1972年(昭和47年) 7月1日に開業)、ロイヤルパークホテル(1989年6月1日 、東京都中央区の東京シティエアターミナル (T-CAT) に隣接して開業)の年とは、合致しないので、ずっと  の疑問符が付いたままでした。

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 これらの旅行、観光業界の方々が、"旅の安全" を願って、設置したのか?と思い続けていました。 私の友人のWLYさんも、ブログ記事にしたらと言ってくれて、5年ぐらいが経過しました。

 

 この度、やっと、インターネットで、この彫刻の設置に至った経緯を知ることができました

それによると、中央区が、「平和都市宣言を記念して、中央区の空の玄関に相当する東京シティーエアターミナルに隣接する区立蛎殻町公園に区の平和のシンボルとして設置しました。」とのことです。 

そのお知らせのURLは、「中央区平和祈念バーチャルミュージアム」に掲示されており、こちらです。

http://www.city.chuo.lg.jp/heiwa/monument/edokomata/index.html

私の永年の疑念も晴れてすっきりしました。 安全なご旅行を! Bom voyage!

 

 

日本橋今昔

[小猿] 2017年12月27日 12:00

日本橋のたもと、川沿いに蔵造りの料理店〈日本橋室町 豊年萬福〉はあります。「かわてらす」も設置されており、飲食はもちろんのこと、物販や講座などで、文化情報を発信しています。こちらで毎月開催されている豊年萬福塾に参加しました。今回の講師は和菓子の老舗〈榮太樓總本舗〉細田安兵衛相談役、御年92歳の日本橋界隈の生き字引のような方でした。

 

何故、日本橋と名付けたか、には4つ説があるそうです

 

1.東に筑波山、西に富士山を望み、海上に朝日が昇るのが見え、日本一景色がよいから。

 

2.江戸の中心にある橋で、全国への街道の起点であるため。

 

3.徳川家康が江戸の町作りをした時に、全国の諸大名が、人、金、物 を提供して出来た橋だから。

 

4.慶応義塾大学の池田弥三郎氏の説で、日本橋川が平川と呼ばれていた江戸時代に、一ツ橋、竹橋、板 橋などど同じように二本橋と呼ばれていたものが、いつの間にか日本橋と呼ばれるようになった。

 

 

橋柱の銘板を書いたのは15代将軍の徳川慶喜公で、読みやすく美しい書体です。この橋銘の日本橋、本の字の真ん中の横一本の線(一)が、点(、)なっているとのこと、弘法も筆の誤りと言ったところでしょうか、トリビアでした

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さらにトリビアなのが橋の上にいる麒麟像、「麒麟の翼」という映画にもなりました。実はこれは翼ではなく、「麒麟の鰭」なんだそうです。翼は元々鳥の前足が進化したもので、確かにこの麒麟にはしっかりした前足が 関東大震災まで魚河岸だったこの地で、 「ここから世界へ飛び立とう」ならぬ「日本橋川から世界へ」という思いが込められているのですね。

 

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明治44年に木造から石造アーチの橋に架け替えられた時、総工費の10分の1が装飾美術に費やされたという美しい橋を、1964年の東京オリンピックの為に首都高速道路が出来て真上を覆いました。それ以来、細田さんはじめ地元の皆さんが、景観を取り戻し、耐震の不安をなくすために運動を続けられて50年、集めた署名は49万人!

今年、首都高の老朽化に伴って、日本橋の景観の復活と日本橋周辺の再開発を目指し、高速道路の地下化が検討され始めました。近い将来、この景色が変わる日が来るのでしょうか。

 

                                

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豊年萬福塾のお問い合わせは月刊日本橋編集部まで。

03-6202-1221 (平日10時~18時)

次回は1月20日(土)14時~16時

日本橋から世界を発信[フランス編]です。

 

 

 

八紘一宇の碑

[ジミニー☆クリケット] 2017年12月26日 09:00

中央区観光協会特派員になって7年中央区観光検定3回受けて、中央区の歴史的なモニュメントについては知っているつもりでも、見落としているものがあるんだなあと痛感

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築地6丁目、年末の買い物客でにぎわう晴海通り沿いに「八紘一宇の碑」なるものがありました

築地魚河岸小田原橋棟晴海通りと面する脇の場所と言えるでしょうか(下の地図赤〇の場所)

何度もこの前を通っていたはずなのですが・・・

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そもそも、八紘一宇はっこういちう)とは、天下・全世界を一つの家にすることだそうで、「日本書紀」の「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて(いえ)にせむ」を、全世界を一つの家のようにすると解釈したものだそうです

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これが、第二次世界大戦中、日本の中国・東南アジアへの侵略を正当化するスローガンとして用いられたと指摘され、戦後の日本においては、あまり聞くことの無いことばとなっていました。

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築地のこの辺りは、「海軍発祥の地」でもあり、海軍史跡巡りができるほど「大日本帝国海軍」に関わりの深いエリアでもあり、この碑もその関連でここに設置されたのかもしれません。

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ちなみに、中央区観光検定がいよいよ1か月後となりました(平成30年1月27日)実施)

この碑のことは、公式テキスト歩いてわかる 中央区ものしり百科」には載っていませんので、来月末の中央区観光検定に出る可能性は低い(はず)です

 

 

年の瀬の社会鍋〔救世軍渡来記念の地碑〕

[ジミニー☆クリケット] 2017年12月22日 09:00

平成も終わろうかという時期に、昭和の頃、よく見かけた風景の話をするのも時代錯誤なのですが、「社会鍋」も最近見かけなくなった風景のような気がします

社会鍋」は、救世軍が年末などに行っている生活困窮者支援等の為の街頭募金運動で、「」は、通行人から慈善の募金を入れてもらうために街頭に設置する鉄鍋のことです

毎年年末の街を彩る風物詩として、俳句の季語)にもなっています

そのあまり見かけなくなった「社会鍋」ですが、その活動母体である救世軍の「渡来記念の地が、中央区にあります

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平成通り沿いに築地橋を渡った北側の交差点のすぐそばです

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この碑の由来については、昨年6月に上げたブログ記事をご参照ください

日本に渡来したライト大佐一行が本営を置いたのがこの地だそうで、渡来100周年を記念して1995年に設置されたそうです

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この碑に目が行ってしまったのも、やはり「年の瀬」を意識してかもしれません

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昨年6月にこのを紹介したブログはこちら ⇒

http://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/2016/06/post-3429.html

 

 

東京銀座朝日ビルと漱石・啄木

[滅紫] 2017年12月20日 12:00

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建替中だった並木通りの朝日ビルが完成し11月15日から順次にロレックス、ルイ・ヴィトンがオープンし、サンモトヤマも戻ってきて更にお洒落な通りになりました。来年の1月22日にハイアットホテルチェーンの「ハイアット・セントリック・銀座」が3階から12階にオープンするのも楽しみです。164室だそうです。気になっていた「石川啄木の歌碑」も元の場所にありました。何だか安心。ご存知の通りこの朝日ビルの場所は朝日新聞社が大阪から進出して明治21年(1888)社屋を構えた場所です。最初の場所は少し離れた元数寄屋町2丁目ですが、2か月後に滝山町(現在地)に移転して昭和2年(1927)有楽町(今のマリオンの場所)に移るまでここで新聞を発行していました。売れっ子作家を入社させて執筆させていたのも有名で明治37年には二葉亭四迷、そして明治40年には夏目漱石が入社しています。今年生誕150年になる漱石は朝日入社前は東京帝大講師でした。「帝大講師を辞めて新聞社に入った」というのは当時大変なセンセーションを巻き起こしたそうです。東京帝大講師の俸給は年俸800円、一方朝日は月俸200円ですから約3倍になったわけで漱石40歳の華麗なるトラバーユといったところでしょうか。朝日に移って発表した最初の小説が「虞美人草」です。評論家の小宮豊隆は次の様に書いています。「漱石が大学を辞めて新聞社に入ったということは当時の一大センセーションであった。その漱石が今度いよいよ「虞美人草」を書くと云うので三越では「虞美人草浴衣」を売り出す。玉宝堂では「虞美人草指輪」を売り出す。ステーションの新聞売り子は「漱石の虞美人草」といって「朝日新聞」を売って歩くという風に世間では大騒ぎをした」

 

この漱石の2年後明治42年(1909)に石川啄木が校正係として入社しています。月給25円、翌年には才能を認められ朝日歌壇の選者にもなりました。明治40年代の物価は現代に換算すると約2万倍(「明治の金勘定」山本博文)とのことなので漱石は年俸だと4800万円、啄木は600万円くらいですね。ちなみに二葉亭四迷は漱石の半分です。新しいビルをご覧になるときには道路側にある啄木の歌碑も是非ご覧になってください。

 

石川啄木歌碑 「京橋の滝山町の新聞社灯ともる頃のいそがしさかな」

銀座6-6-7(並木通り)

 

 

 
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